「箱根行き、綱と湯とくろたまご」
「今年は、皆よう働いてくれた。ここらでひとつ、骨休めと洒落こもうかのう」
深川の問屋「海月屋」の帳場にて、藤兵衛は番頭と丁稚を前に、にこやかにそう告げた。
番頭の権兵衛は目を丸くし、丁稚の定吉は思わず「やった!」と声を上げた。
「行き先は箱根じゃ。鴨嘴に乗って小田原まで行き、小田原城を見物。 そこから駅馬車で強羅へ。強羅からは“綱引き箱車”に乗って山を登り、 “綱渡り箱”で大涌谷へ。くろたまごを食して、さらに桃源台まで足を延ばす。 宿は温泉付きの旅籠を手配済みじゃ。翌朝は山頂の神社に参って、帰路につく」
「おお…なんとまぁ、盛りだくさんな道中で」
「“綱引き箱車”って、あれですか? 坂を綱で引っ張って登るっていう…」
「そうそう。まるで大名行列の駕籠のように、引かれて登るのじゃ。風情があるじゃろう?」
藤兵衛は、旅のしおりを広げながら、目を輝かせて語った。
「それに“綱渡り箱”ときたら、空を渡る箱じゃぞ。まるで鳥になった気分じゃ」
「それは…空飛ぶ駕籠ですかい?」
「ふふ、まぁそんなところじゃな。空と火山と温泉と、全部味わえる贅沢旅よ」
番頭は帳簿を片手に、旅費の計算を始め、
丁稚は「くろたまごって、ほんとに寿命が延びるんですかねぇ」と目を輝かせる。
「まぁ、信じるも信じぬも心次第。だが、旅の土産話にはもってこいじゃ」
藤兵衛は、旅の手配を進めながら、心の中でそっと思った。
(さて、今回はあの二人に出くわさぬことを祈るばかりじゃが…)
だが、旅とは不思議なものである。
計画通りにいくことなど、そうそうあるものではない。
ましてや、あの二人がどこに現れるかなど、誰にも予測できぬ。
とはいえ、今はまだ静かな出発前夜。
帳場には、湯けむりのようにふわりとした期待が漂っていた。




