「海月の宇宙、静けさの中に」
その朝、藤兵衛はまだ陽も昇りきらぬうちに、深川の町を後にした。 駅馬車の車輪が石畳をガタガタと鳴らし、揺れるたびに、旅の気分が胸に満ちてくる。
「やれやれ、やっぱりこの揺れがないと旅って気がせんのう」 と、窓の外を流れる町並みを眺めながら、心はすでに江の島の海月たちのもとへ。
東海道を西へ、潮の香りが鼻をくすぐるころ、江の島駅に到着。 馬車を降り、潮風に吹かれながら歩を進めると、ほどなくして水族館の姿が見えてきた。
まだ開場前の静けさの中、門のそばに立っていた丁稚に声をかける。
「海月屋の藤兵衛と申す。館長殿にお取次ぎ願いたい」
丁稚はぺこりと頭を下げ、軽やかに奥へと駆けていった。
ほどなくして、館長が笑顔で現れた。
「おお、藤兵衛殿! 本日はようこそ。おかげさまで、展示の準備も滞りなく進みましたぞ」
「それは何より。海月屋の名が、少しでもお役に立てたなら本望にござる」
挨拶もそこそこに、館長は藤兵衛を展示室へと案内した。
「では、こちらへ。少々暗いですが、どうぞお進みを」
通されたのは、ひんやりとした空気の漂う、ほの暗い部屋。
「む…これは…? まさか、まだ準備中か?」 と、訝しむ藤兵衛に、係の者が椅子を勧める。
「どうぞ、こちらにお掛けください。しばらく上を見上げてお待ちを」
言われるがままに腰を下ろし、天井を仰ぐ。 最初はただの闇。
だが、しばらくすると——
ぽつ、ぽつ、と、白く丸い光が浮かび上がる。
ひとつ、またひとつ。まるで夜空に星が灯るように。
「……ほう……」
その光はやがて増え、天井だけでなく、壁の周囲にも広がっていく。
ゆらゆらと揺れ、瞬き、漂うそれらは、すべて海月だった。
透き通る体が、光をまとって宙を舞う。
まるで、海の底に沈んだ星々が、静かに踊っているかのよう。
「……これは……まるで、海月の宇宙じゃ……」
藤兵衛は、ただただ見上げたまま、言葉を失っていた。
商いの喧騒も、江戸の町も、今は遠く。
そこにあるのは、光と静寂と、海月たちの舞だけだった。




