「―いの一番の博覧会―」
春の風が、深川の町をそっと撫でていく。梅の香がほのかに漂い、海月屋の帳場にも、どこかのんびりとした空気が流れていた。
「ようやく寒さも和らいできたのう……」
藤兵衛は、帳簿に筆を走らせながら、ふと外の陽気に目を細めた。そんな折、隣家の方から――
「ぐあっ!」
突如、庭先に響いたのは、隣の爺さんの声。何事かと筆を置き、慌てて駆けつけると、爺さんは庭の縁側でうずくまっていた。
「ど、どうなされたのですか!」
「う、うぅ……腰が、腰が……!」
どうやら、草むしりの最中に腰をやってしまったらしい。藤兵衛は爺さんを支え、なんとか家の中へと運び入れた。
「丁稚! すぐに医者を呼んでくれ!」
しばらくして、息を切らした医者が駆けつけ、診察の末に言った。
「ぎっくり腰じゃな。しばらく安静にしておること。湿布を出しておく」
そう言い残し、医者は風のように去っていった。
藤兵衛は、爺さんの食事や身の回りの世話の手配を済ませ、そろそろ戻ろうかと腰を上げたその時――
「おい、藤兵衛や」
「はい?」
「助けてもろうた礼に、これをやるわい」
そう言って爺さんが差し出したのは、一枚の札。見ると、そこには「横濱博覧会 入場券」と書かれていた。
「おや、これは……」
「今日から三日間だけの催しでな。わしも楽しみにしておったんじゃが、この腰ではどうにもならん。代わりに行って、どんな様子だったか、あとで話してくれんかの」
「それは……ありがたく。お任せください」
「それとな……」
爺さんは、にやりと笑って付け加えた。
「その入場券、よく見てみい」
藤兵衛が目を落とすと、そこには――
「……イの一」
「いの一番に行きたかったんだけどよぅ……ま、わしの代わりに、いの一番で楽しんできてくれや」
「……はは、これはまた……」
藤兵衛は、札を手にしながら、ふと空を見上げた。
「自分で買ったわけでもなし……まさか、あの二人は出てこないよな……?」
そう呟いたものの、胸の奥に芽生える、妙な予感。
春の陽気の中、藤兵衛の新たな珍道中が、また一歩、動き出そうとしていた。




