「そして、何も起きずに終わる旅」
深海の青に包まれた鋼鉄箱は、何事もなく、静かに海面へと浮上した。
「……ふむ」
藤兵衛は、丸窓の外に広がる光の帯を見つめながら、心の中で呟いた。
「まことに、何も起きなんだな……」
港へ戻るまでの間、弥次さんが「せっかくじゃ、あの煙突のとこから外を見てみたいでござる!」と言い出し、特賞組の面々が交代で覗き込むこととなった。
「おお、風が気持ちええのう!」
「見てみい、あの鳥、こっちを見とるぞ!」
そんな他愛ないやりとりが続き、やがて鋼鉄箱は港へと戻った。
「……解せん」
藤兵衛は、下船しながらぽつりと呟いた。あれだけの旅路、あれだけの深さ、あれだけの期待――それでも、何も起きなかった。
「……いや、そうそう面白いことばかり起きるわけでもあるまい」
そう自分に言い聞かせながらも、どこか肩透かしを食らったような気持ちを抱えつつ、帰りの船の出発までの時間を過ごすことにした。
港の茶屋では、特賞組が思い思いに飯を食べたり、土産を選んだりしていた。そんな中、藤兵衛の耳に、あの二人の会話が届く。
「なあ喜多さん、帰りはどこ行きの船だったかの?」
「竹下桟橋行きだよ、江戸に帰るんだから。おぬし、家は江戸だろうが」
「わかっておる、わかっておる。ふふふ、心配性じゃのう」
そう言いながら、弥次さんはすでに酒をちびちびとやっていた。
やがて乗船時刻が近づくと、弥次さんがふらりと立ち上がった。
「ちと厠へ。わしはあとから乗るでな、先に行っててくれい」
「……ほんとに大丈夫かいな」
不安げな顔をしながらも、喜多さんは藤兵衛たちと共に乗船した。
出発の時刻が来ても、弥次さんの姿は見えない。
「……まさか、また何かやらかしたのでは」
喜多さんがそわそわと辺りを見回す中、藤兵衛はふと、隣に停泊していた上方行きの船を見やった。
「……いや、いないな」
しかし、その隣にあったもう一隻――ルソン島行きの船が、ちょうど出航し始めた。
その甲板の端に、手を振る男の姿が見える。
「……あれは……」
藤兵衛は目を細めた。あの、妙にゆるんだ笑顔。あの、どこか頼りない手の振り方。
「……弥次さん、ではないか?」
西へ向かう船の影が、だんだんと小さくなっていく。
「……ま、いいか」
藤兵衛は、ぽつりと呟いた。
何も起きなかった旅の最後に、ようやく“らしい”一幕を見届けた気がして、心の中にふわりと笑いが咲いた。
こうして、藤兵衛の琉球潜水旅は、静かに、そしてどこか愉快に幕を閉じたのであった。
― 終 ―




