「飛んで、潜って、置いてけぼり」
喜多さんが厠から戻ってくると、そこに弥次さんの姿はなかった。
「……あれ? いない?」
きょろきょろと辺りを見回すが、どこにも見当たらない。
「ま、いっか。あの人、しょっちゅうどっか行くからねぇ」
と、あっさり納得して座席に腰を下ろし、目を閉じてうとうとし始める。
(いやいや……おぬしの真下におるのじゃが……)
藤兵衛、後ろの座席からそっと気配を探る。座席の下からは、かすかに「ぐぅ……すぅ……」という寝息が聞こえてくる。
(まったく、どこまでも自由な男よのう)
そんな折、船内にアナウンスが響いた。
「まもなく竹芝に到着いたします。減速いたしますので、皆さまご着席ください」
船員が通路を歩きながら、乗客に声をかけていく。今回は、弥次さんが立っていない。というより、座席の下にいる。
おかげで、何事もなく船は静かに減速し、やがて桟橋に滑り込んだ。
「おお……着いたか」
藤兵衛は荷物を取り出し、ゆっくりと立ち上がる。行きの客船では三刻(約六時間)かかった道のりが、帰りは一刻もかからずに到着した。
「いやはや、これが新型の船か……まことに時代は進んでおるのう」
乗客たちが次々と下船していく。藤兵衛もその流れに乗って、桟橋へと足を踏み出した。
ふと振り返ると、じぇっとふぉいるはゆっくりと港を離れ、メンテナンスのためにドックへと向かっていた。
「……お?」
途中から、船体がふわりと浮き上がり、再び海面を滑るように飛び始める。
「なるほど、あれが……空飛ぶ船か」
遠ざかるじぇっとふぉいるを見つめながら、藤兵衛は改めてその技術に感心する。
と、そのとき――
「弥次さ~ん? どこ行ったの~?」
喜多さんの声が、港に響いた。
藤兵衛、思わず「あっ!」と声を漏らしそうになる。
(まさか……まだ座席の下に……⁉)
だが、喜多さんは「ま、いっか。またどっか寄り道してんだろ」と、あっさりと帰っていってしまった。
藤兵衛も、しばしその場に立ち尽くしたが、やがて肩をすくめて歩き出す。
「……ま、あの男のことじゃ。どこかで勝手に降りて、勝手に呑んで、勝手に帰ってくるじゃろうて」
こうして、空飛ぶ船の旅は幕を閉じた。
風はまだ、潮の香りを運んでいた。
― 終 ―




