第2話:鉛の毒
クラウディウス・ウァレリウスの邸宅は、帝都の丘に立つ壮麗な大理石造りだった。しかし、その豪奢な見た目とは裏腹に、エレンの目には「欠陥の塊」に映った。
「まずはこれで体を清めろ」
クラウディウスはエレンに真新しいチュニックと、油の入った小瓶を渡した。古代ローマ風世界では、石鹸の代わりに油を塗り、金属のヘラで垢をこそぎ落とす。
エレンは湯浴みを終え、与えられた小さな部屋に入る。部屋は書斎の隅にあり、床には藁が敷かれていた。奴隷としては破格の扱いだったが、彼女の地位は変わらない。
「これがお前の仕事だ」
クラウディウスは床に図面を広げた。それは、帝都に水を供給する古い水道橋の修復案だった。
「この水道橋の耐用年数はあと五年が限界だ。帝都の技術者は、アーチをすべて造り直すと言っているが、費用と工期が途方もない。お前の『奇妙な知識』で、これを安価に、かつ強固にする方法を見つけろ」
エレンは図面を凝視した。石造りのアーチに生じた微細な亀裂、そして谷を渡る部分の構造的な弱点。
「殿下。修復案の前に、確認したいことがございます」
「なんだ」
「この水道管は、なぜ鉛なのですか?」
クラウディウスは驚いた顔をした。
「鉛は加工しやすく、水を通しやすい、最高の素材だろう。帝国の繁栄の象徴だ」
「いいえ。鉛は人体にとって猛毒です」エレンは即座に否定した。
「鉛は体内で代謝されず、骨や脳に蓄積します。これが貴族社会に蔓延する奇病や不妊の原因です。貴族の水道管が鉛である以上、高貴な血筋は徐々に滅びます」
クラウディウスの顔から血の気が引いた。彼は知識人だが、「毒」の概念は魔術的なものだと考えていた。
「馬鹿な……。それを証明しろ」
「簡単です。水道管の内側に、水の流れで付着した白い物質があるはずです。それは『水酸化鉛』や『炭酸鉛』。それを摂取しているのです。いますぐ、この屋敷の飲料水を陶器の壺に変えてください」
クラウディウスはすぐに命令を下した。
数日後。彼の体調が劇的に改善した。慢性的な頭痛と胃の不快感が消えたのだ。
クラウディウスは、書斎の床に跪くエレンを見つめた。彼女の価値は、もはや「石運びの道具」ではない。
「エレン。お前は、私を毒から救った。……水道橋の修復案を聞こう」
エレンはパピルスに、アーチの補強に必要な「新素材」の配合式を書き始めた。
「必要なのは『火山灰』です。それを石灰と混ぜ、海水で練る。化学的に言えば、ポゾラン反応を利用し、水中で数千年固まる最強の『水中セメント』を作ります。アーチ全体を解体する必要はありません。劣化部分にこのコンクリートを流し込み、トバモライト結晶で補強するのです」
知識を惜しみなく開示するエレンの姿は、クラウディウスの心を捉えた。彼が知っていたのは、力の美しさだけだったが、エレンは機能の美しさを知っていた。
「エレン。お前は一体、何者だ?」
「私はただの奴隷です。殿下。しかし、私の脳は、あなた方のどの技術者よりも先を行っています。この知識を使うなら、私に自由をください。それが対価です」
エレンはまっすぐクラウディウスの瞳を見つめた。彼は、その冷たい銀色の瞳の奥に、燃えるような知性の炎を見た。
「よかろう。水道橋の修復を成功させたら、お前の自由の半分を買い取る」




