第1話:崩落する凱旋門
転生してから半年。私の日常は「重力」との戦いだった。
帝都郊外の石切り場。ここから切り出されたトラバーチン(石灰華)は、皇帝の威光を示す神殿や凱旋門へと姿を変える。
私の仕事は、切り出された石材を運搬用のソリに乗せ、泥まみれになって引くことだ。
私の手は、かつて製図ペンとマウスを握っていたとは思えないほど荒れ果てていた。爪は割れ、指紋は擦り切れ、ひび割れた皮膚には石粉が染み込んでいる。
「おい74番! 何を休んでいる! さっさとその石灰モルタルを練れ!」
監督官の鞭が空を切り、私の肩を掠める。私は痛みを殺し、無表情で桶の中の粘土と石灰を混ぜ合わせた。
(……配合が最悪だわ)
私は心の中で毒づく。
ここの職人たちは、勘だけでモルタルを作っている。水が多すぎるのだ。これでは乾燥収縮が起きて、硬化する前にひび割れる。
ここは、新しい「凱旋門」の建設現場だった。 戦勝を記念する巨大なアーチ。完成すれば高さは20メートルにもなるという。
だが、元構造屋の私の目から見れば、この現場は「欠陥工事」の博覧会だった。
――特に、あのアーチはまずい。
私は作業の手を動かしながら、頭上を見上げた。 巨大な半円形のアーチが、木製の支保工(しほこう/アーチを支える仮枠)に乗っている。
今日、その支保工を外す予定らしいが……。
「よし! 皇帝陛下のご視察が近い! 今すぐ支保工を外せ!」
現場監督が大声で指示を出した。奴隷たちが大ハンマーを持ち、支柱を叩き始める。
(馬鹿な……。まだ迫り石を積んでから3日しか経っていない。モルタルの強度が発現していないのに型枠を外すなんて、自殺行為よ)
私は咄嗟に、近くの石積み陰に身を隠した。
本来なら叫んで止めるべきかもしれない。だが、奴隷の言葉になど誰が耳を貸す? 余計なことを言えば、反逆罪でその場で殺されるのがオチだ。
カーン、カーン。
乾いた音が響き、最後の支柱が外れた。
瞬間。
ズズ……ン。
地鳴りのような音が響いた。
「え?」
監督が間抜けな声を上げる。
アーチの頂点にある「要石」が、重力に耐えきれず、ゆっくりと下へ滑り落ちた。 それが合図だった。
ドゴォオオオオオオン!!
凄まじい轟音と共に、数百トンの石塊が崩落した。
巻き上がる砂煙。逃げ遅れた奴隷たちの悲鳴。石同士がぶつかり合う火花。
未硬化のモルタルは接着剤の役目を果たさず、アーチは物理法則に従って、ただの瓦礫の山へと還った。
「ひ、ひいいっ! 俺のせいじゃない! 神の怒りだ!」
監督が腰を抜かして叫んでいる。
砂煙が晴れていく中、私は咳き込みながら立ち上がった。
私の隠れていた場所は、崩落の計算上、瓦礫が飛んでこない「安全地帯」だった。
周囲は地獄絵図だ。潰された手足、血の匂い。
(……アーチの推力を甘く見すぎよ。壁厚が足りない上に、迫り石の接触角もずれていた。落ちて当然だわ)
私は冷めた目で惨状を見ていた。
恐怖はない。ただ、技術への冒涜に対する静かな怒りだけがあった。
「――おい。そこの女」
不意に、背後から声をかけられた。
低く、よく通る、冷徹な男の声。
振り返ると、一人の男が立っていた。
上質なトガ(布)を纏い、紫の縁取りがある。貴族だ。
黒髪に、氷のように冷たい青い瞳。彼はハンカチで口元を覆いながら、私を見下ろしていた。
「お前だ。銀髪の奴隷。……なぜ、逃げなかった?」
私は即座に跪き、頭を垂れた。
「逃げる必要がなかったからです、旦那様」
「ほう?」
「あの位置の柱を外せば、アーチの自重は外側へ広がる推力に変わります。しかし、今のモルタルはまだ泥も同然。摩擦係数が足りません。なれば、崩落は垂直方向ではなく、扇状に広がる。……あそこは、物理的に石が落ちてこない場所でした」
淡々と答えた。
どうせ死ぬなら、せめて建築士としてのプライドを持って死にたい。
男は沈黙した。
そして、革靴の音を響かせて私に近づくと、鞭で打たれた私の顎を指先で持ち上げた。
「……摩擦係数? 推力? 奇妙な言葉を使う道具だな」
彼の瞳が、値踏みするように私を射抜く。それは女性を見る目ではない。
便利な「道具」を見つけた職人の目だ。
「名は?」
「……ありません。74番です」
「そうか。おい、監督」
男は震える現場監督を呼びつけた。
「この奴隷を私が買い取る。今すぐだ」
「は、はいぃ!? し、しかし、それは石運び用のただの女で……」
「黙れ。貴様らの無能な工事のせいで、私は不愉快だ。その賠償として、この薄汚れた女を貰っていく」
男は懐から金貨袋を放り投げた。
監督は地面に這いつくばってそれを拾う。
男――帝国の若き法務官、クラウディウス・ウァレリウスは、私に背を向けて歩き出した。
「ついて来い、74番。……いや、エレンと呼ぼう」
エレン。前世の名前(江蓮)に似た響き。
「まずは風呂に入れ。泥と血の匂いが鼻につく」
私は無言で立ち上がり、彼の背中を追った。
足元の鎖が、ジャラリと鳴る。
これは救済ではない。
私は石切り場から、貴族の館という「新しい現場」へ異動になっただけだ。 だが、私の手の中には今、確かな武器がある。
――知識だ。
この古代の世界には存在しない、数千年先を行く建築の知恵。
(見ていなさい。いつか必ず、この知識で私自身を買い戻してやる。そして……絶対に崩れない、私の家を建ててみせる)
瓦礫の山を背に、私は泥だらけの足で一歩を踏み出した。




