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第4幕 魏との戦い(後半)

 行軍は、過酷だった。

 趙国軍は、数日間にわたり進軍を続けた。


 昼は照りつける太陽の下、乾いた風に吹かれながら馬を駆り、夜は簡易の陣を張って休息をとった。

 兵士たちは黙々と馬を進め、時折、周囲の地形を警戒しながら槍や弓を手に取る。

 地平線の向こうに見えるのは、草原と砂地が交互に広がる荒涼とした風景。

 夜になると気温は一気に下がり、焚火の灯りだけが軍の存在をかろうじて示していた。


 進軍が続くにつれ、体は徐々に疲れを蓄積していったが、それ以上に心が昂っていた。


 ついに、本当の戦場に辿り着く——そう思うだけで、胸が高鳴った。



 ◇



 そして、ついに目的地に到着した。


 そこは、風鳴ふうめい平原。

 広大な平原が広がるこの地は、かつて何度も戦場となった場所だった。

 この地に吹く風は、戦で倒れた者たちの無念の声を運ぶと言われている。

 趙国と魏国が幾度となく覇を競い、数え切れないほどの命が散った地——それがここだった。


 私は、地平線の向こうに黒々と広がる魏国軍の陣を見つめた。


 すでに、国境の兵たちによって戦いは始まっていた。


 槍や剣が朝陽を受け、無数の旗が風になびいている。


「これが……戦場……」


 私は、息を詰まらせた。


 以前、奇襲を受けたときに血の匂いを嗅いだことはあった。

 だが、今目の前に広がる戦場のそれは、比べものにならないほど凄惨だった。


 耳をつんざくような金属音——

 剣と剣がぶつかり合い、甲冑が砕ける音が響き渡る。


 誰かの怒号。

 誰かの絶叫。

 誰かの最期の息。


 矢が空を裂き、風を切る音が耳元をかすめた。

 その直後、鈍い音とともに、矢が肉に突き刺さる。


 叫び声が響く。


 それは、戦意に満ちた雄叫びか、命が尽きる瞬間の悲鳴か——もはや区別がつかない。

 大地は震え、駆ける馬の蹄が土をえぐる。


 体が一瞬、すくんだ。

 これが、戦場。

 生と死が交錯する場所。

 韓烈が立ち続けてきた世界——。


 私は奥歯を噛みしめた。

 戦場とはこういうものなのか——。

 今私は、体全体で戦場を”感じて”いる。

 目や耳、触覚、嗅覚、あらゆる器官が戦場を感じ取ろうと研ぎ澄まされていく。



 ◇



 私は、一つの兵団に配属され、その日の戦に参加した。


 目の前にいるのは、魏国の兵士たち。

 彼らは容赦なく槍を突き出し、剣を振るい、趙軍の兵士たちを蹴散らしていく。


 すぐに剣を構えた。

 この戦場に、私は立つ。剣士として——

 その瞬間、意識が研ぎ澄まされた。


 戦いが始まると、神経はさらに鋭敏になった。

 敵や味方の動きが、まるで水の中で動いているかのように緩慢に感じられる。

 それほどに、玲の剣は研ぎ澄まされていた。


「見える——」


 次に敵がどう動くのか、どこに隙があるのか、言われなくても分かった。

 そして、それに応じて体が勝手に動いていた。


 敵の槍が胸元を狙う——左へかわす。

 次の兵士が剣を振り下ろす——斜めに刃を当てて受け流す。

 そして、素早く体を沈めながら、敵の喉元に剣を突き立てた。

 一撃で沈む敵。

 私の体はすでに、次の敵の動きを見据えていた。


 戦場の混乱の中で、彼女だけが異様なほど落ち着いていた。

 まるで、玲の目には「戦の流れ」が見えているかのようだった。


 私は、自分の剣の切れ味が、これまでにないほど鋭くなっているのを感じた。


 ——今、この戦場で、自分は間違いなく「戦っている」のだと。



 ◇



 初戦が終わり、夜が訪れた。

 昼間の戦の喧騒が嘘のように、辺りには静寂が広がっていた。

 満点の星が瞬き、風鳴平原の冷たい風が肌を刺す。


 私は、兵団の陣営の一角に腰を下ろし、剣の手入れをしていた。

 怪我をして手当を受けているものもいる。

 周囲には、疲れ果てた兵士たちが眠っている。


 しかし、私の目は冴えていた。

 戦の興奮がまだ身体に残っており、眠る気にはなれなかった。


 ——その時だった。


 かすかな気配。

 私は、息を潜めた。


 地を這うような足音。風を切る静かな影。

 敵だ。


 直感的に悟った。


 ……奇襲!


 素早く剣を掴み、馬に飛び乗った。


 どこに向かっている?

 何を狙っている?

 音の方向を探る。


 そして気づいた。


 本陣——韓烈の寝所だ。


「奇襲だ!!」


 叫びながら馬を駆けた。



 ◇



 玲の馬は、夜の静寂を切り裂くように疾走した。

 冷たい風が鋭く頬を打ち、視界の端で星々が流れるように輝く。

 風鳴平原の闇の中、玲はただひたすらに馬を駆った。


 ——間に合え!


 鼓動が早鐘のように鳴る。

 馬の蹄が大地を叩く音が、自らの心臓の鼓動と重なって聞こえる。


 韓烈の寝所まで、あと少し——


 その瞬間、暗闇の奥で何かが閃いた。

 私は本能的に剣を抜いた。


 一閃。


 刹那、刃と刃がぶつかり合い、鋭い火花が夜の闇に散った。


「何っ——!?」


 不意を突かれた刺客の声が漏れる。


 すかさず剣を返し、相手の喉元に鋭く突きつけた。


 その直後、寝所の中から何かが動く気配。

 韓烈が飛び出してきた。


「何事だ——」


 声を発した瞬間、彼の視線は玲の姿を捉えた。

 静かに剣を構え、敵を制している。


 ——間一髪だった。


 その瞬間、破られる静寂。


「敵襲だ!!」

 別の兵士の叫びが響き渡る。


 陣営のあちこちで目を覚ました趙国の兵士たちが、武器を手に取り、次々と立ち上がる。


 鋼のぶつかる音。

 火花が散る。

 戦場の混沌が、再び始まった。

 闇に紛れていた魏国の刺客たちが、夜の帳から次々と襲いかかる。


 趙国の兵士たちは反撃し、ついに最後の刺客が倒れる。

 闇の中に広がっていた殺気が、徐々に消え去っていく。


 私は深く息を吐いた。

 剣を鞘に収め、腕で返り血を拭う。


 静寂が戻った戦場で、ふと視線を上げると——


 韓烈が無言で玲を見つめていた。


 驚き、困惑、そして——僅かな安堵。

「……お前……なぜここにいる……?」


 低く響く声。


 だが、それは怒りではなく、戸惑いに満ちていた。

 私は肩で息をしながらも、静かに微笑んだ。


「……あなたが無事でよかった」



 ◇



 夜の戦場に張られた天幕の中には、韓烈と玲、二人だけがいた。


 外では、兵たちが先ほどの奇襲の後始末をしている。


 しかし、この天幕の中だけは、戦場の喧噪から切り離されたような、張り詰めた静けさがあった。


 韓烈は腕を組み、苛立った様子で天幕の中を行ったり来たりしている。

 鋭い視線を地面に向け、時折、何かを言おうとして口を開くが、すぐに閉じる。


 私は、そんな韓烈の姿を見つめながら、床に座っていた。

 彼の沈黙の中にある葛藤が痛いほど伝わってくる。


 ——私のことで、こんなにも動揺しているの?


 胸が、微かに疼く。

 自分の存在が、彼をこんなにも乱しているのだと気づいたから。


 韓烈は、突然立ち止まり、眉間に皺を寄せて鋭い目を向ける。

 だが、言葉が出てこないようで、再び歩き出した。


 その様子が、何かを必死に押し殺そうとしているように見えて、私はそっと口を開いた。

「……ついてきてしまって、ごめんなさい」


 私の言葉が静かに響いた瞬間、韓烈の足が止まった。

 まるで、深い霧の中から現実に引き戻されたように、彼はふっと息を吐く。


 少しの沈黙の後、低く落ち着いた声が響いた。

「……助かった。ありがとう」


 驚いた。


 怒られると思っていたが、彼の口から最初に出たのは感謝の言葉だった。


 韓烈は、目を伏せ、しばらく沈黙していた。

 その背中は、普段の冷徹な将軍のものとは違って見えた。



 ◇



「私は……以前あなたに”自由にしていい”と言われたから、自分の意思でここに来ました」


 私は、穏やかに言葉を紡いだ。

「後悔はしていません。私がここにいるのは、誰かに強制されたからではなく、自分がそうしたいと思ったから」


 韓烈は、ゆっくりと顔を上げ、玲の瞳を見つめた。

 その琥珀色の瞳は、揺るぎない光を宿していた。

 まるで、どんな嵐が来ようとも決して折れることのない、一本の剣のように。


「……お前は、本当に……」

 韓烈は、小さく息を吐いた。


 玲の言葉には、一点の迷いもなかった。

 まるで、天を貫く鋼の刃のように。

 どんな状況でも、誰かの命令でもなく、自らの意志で道を選ぶ。

 その強さもまた、彼を惹きつけた。


 ——玲が傷つくのを見たくない。

 戦場で多くの兵士が死ぬのを見てきた。

 仲間たちが、目の前で血に染まり、土に還っていくのを幾度となく経験してきた。


 それが、戦場というものだ。


 だが、今——


 目の前にいる玲が、その血の中に染まる姿を想像しただけで、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。

 それほどまでに、玲という存在が、自分の中で特別なものになっていた。


 韓烈は、思わず玲の腕に目を落とした。

 そこには、奇襲の際についた細かい擦り傷がいくつも残っている。


 たったそれだけの傷なのに——

 耐えられない。

 玲の美しい肌に、戦場の傷が刻まれることが、韓烈には耐えられなかった。


 彼は、強く拳を握りしめる。

 そんな感情を抱いてはいけない。

 いずれは玲を自由にしなければならない。

 だが、胸の奥から込み上げるものは、抑えようとしても溢れ出してくる。

 韓烈は、自分の心が揺れていることに気づいた。


「……私は、大丈夫」


 柔らかな声が、韓烈の耳に届く。

 気がつけば、私はそっと手を伸ばし、韓烈の腕に触れていた。


 指先が、静かに彼の肌をなでる。

 その優しい仕草に、韓烈の鼓動が一瞬止まった。


「私は、ちゃんと生きています。

 あなたが思っているほど、私は脆くありません」


 手が触れた瞬間、韓烈の心の中にあった苛立ちが、少しずつ和らいでいくのを感じた。

 温もりが、彼の胸にじんわりと広がっていく。


 ——この手は、戦場で剣を握り、命を懸けて戦う強さを持っている。

 それなのに、今こうして触れられると、あまりにも儚げで、頼りなく思えてしまう。


 韓烈は、玲の手を見つめた。

 細く、しなやかで、それでいて確かな力を秘めたその指先。

 戦場で剣を振るっていたとは思えないほど、美しく、柔らかだった。


 気がつけば、韓烈はその手をそっと包み込んでいた。

 玲が、驚いたように小さく息を飲むのが分かった。

 韓烈の手は大きく、温かかった。

 玲の指先は、まるで韓烈の掌に溶けてしまいそうなほど、すっぽりと包まれていた。


 ——守られている。

 私は、ふとそんな感覚を抱いた。


 彼の手のひらのぬくもりが、自分の手の冷たさをやわらげる。

 ただそれだけのことなのに、安堵するような、温かさに満たされるような気持ちになった。


 そして、胸が高鳴るのを感じた。


 ——これは、いったい何?

 私は目を伏せ、自分の胸の音に耳を傾けた。


 韓烈の手の中にいる自分が、心地よく、同時に落ち着かなく思えた。

 韓烈もまた、玲の指を包み込みながら、無言のまま微かに息を整えた。


 玲が傷つくことが、何よりも耐えられない。

 玲の体に、これ以上戦場の傷が刻まれることを、絶対に許したくない。

 その思いが、彼の手の温もりとなって伝わってくる。


 静かな夜の中、二人の間には、言葉にできない感情が確かに流れていた。

 やがて、韓烈は玲の手を包み込んだまま、低く、しかしはっきりと告げた。


「……もう、お前を戦場で一人にしない」

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 琥珀色の瞳が、韓烈の黒い瞳を見つめる。


「これからは、お前は俺と一緒に行動する」

 その言葉は、玲を閉じ込めるものではなく、彼女を守ろうとするものだった。

 それが韓烈にとっての「唯一の許せる形」だった。


 私は、その言葉を噛み締めながら、小さく微笑んだ。

「……わかりました」


 韓烈の手の温もりを感じながら、私はその言葉を受け入れた。


 天幕の外では、夜の冷たい風が吹いていた。

 しかし、二人の間には、静かで確かな温もりがあった。



 ◇



 翌日から、私は韓烈の指示のもと、後方支援としての役割を担うことになった。


 戦場において、剣を握り、前線で戦うだけが戦いではない。

 兵士たちの食事を準備し、負傷者を手当てし、戦の続行に不可欠な補給を支える者たちもまた、戦の一部を担っている。


 私は、食事の支度を手伝いながら、兵たちの様子を見て回った。

 彼らは皆、疲労と緊張に晒されながらも、戦に備えていた。


「奥様が戦場にいらっしゃったとは……驚きました」

 傷の手当てをしながら、ある兵士が玲に驚いたような視線を向ける。


「私はただの兵士です。できることをするだけです」

 私は微笑みながら、傷口を丁寧に包帯で巻いた。

 負傷した兵士たちの痛みに触れるたび、彼らの苦労が身に染みて感じられた。


「……ありがとうございます」

 傷の手当てを終えた兵士が、感謝の言葉を漏らす。

 私はその言葉を聞き、微かに微笑んだ。


 ——この戦場で、自分にできることをする。

 それが、今の私にとっての「戦い」だった。



 ◇



 夜は、韓烈と同じテントで過ごした。

「寒くないか?」

「何か食べたか?」

「疲れていないか?」


 韓烈は、テントにいる間、玲を何かと気遣った。

 戦場にいる時の冷徹な将軍の顔とは異なり、玲と二人きりになると、どこか優しげな口調になっていた。


「私は大丈夫です。それより、韓烈さまこそ、疲れているのでは?」

 そう言うと、韓烈は短く息をついた。


 確かに彼は、昼夜を問わず戦況を分析し、軍を指揮していた。

 この数日間、ほとんどまともに休んでいないはずだった。


 ——少しでも、彼の疲れを取ることができたら。


 私はふと、幼い頃に母から教わったマッサージのことを思い出した。


「韓烈さま、うつ伏せになってください」

 私の言葉に、韓烈は眉をひそめた。


「……なぜだ?」


「母に、疲れを取る方法を教わりました。試してみませんか?」


 韓烈は一瞬、私の顔をじっと見つめた。

 何かを考えるような表情をした後、無言で布団の上に横になり、うつ伏せになった。


 私は、韓烈の肩にそっと手を置いた。


 ——硬い。


 彼の体は、まるで鋼のように固く張り詰めていた。

 ずっと戦場に身を置き、剣を振るい続けてきた証だ。


 私は、母に教わった通り、肩から背中へとゆっくりと手を滑らせる。

 強すぎず、しかし確かな力を込めて。


 韓烈は、最初はわずかに身じろぎしたが、玲の手の温もりを感じると、徐々に力を抜いていった。


「……これは、案外……悪くないな」

 韓烈の低い声が、くぐもったように聞こえた。


「でしょう?」

 私は、笑みを浮かべながら、彼の背中を優しくほぐしていく。


 韓烈の体温が、指先から伝わってくる。

 力強く、温かく、それでいてどこか安心するような温もり。

 私は、自分の手が彼を癒していることを感じていた。


 そして——

 韓烈は、やがて静かに呼吸を整え、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 彼の穏やかな寝息が、耳に心地よく響く。

 戦場という緊迫した世界の中で、ほんのひとときだけ訪れた静寂。


 そっと韓烈の肩から手を離し、彼の寝顔を見つめた。

 普段は決して見せない、無防備な表情。


 ——こういう顔をするのか。

 胸が、ふっと温かくなった。


「……おやすみなさい」

 私は小さく囁き、静かに天幕の灯りを落とした。





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