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第4幕 魏との戦い(前半)

 秋の風が冷たさを増し始めた頃、魏国がついに趙国への侵攻を開始した。


 魏国は長年にわたり中華の覇権を狙い、周辺国への圧力を徐々に強めていた。

 特にここ数年は、着実に領土を拡大し、戦力を増強していた。

 それはただの示威ではなく、やがて訪れる「戦争」のための布石であることを、誰もが感じ取っていた。


 そして、ついにその時が来た。


 魏国は趙国との国境沿いに数万の兵を集結させ、三方から攻め込む布陣を敷いた。

 主力は北部の関塞を突破しようとし、南部の要塞にも別動隊を送り込んでいた。

 さらに、魏の騎兵隊が西部の開けた地形を利用し、一気に深くまで進軍するという報告が入った。


 その報せが趙王のもとに届くや否や、宮廷は騒然となった。


「魏は本気で趙を攻め落としに来ております」

「これまでの局地戦とは次元が違います。正面からの大規模侵攻で、許されるべきことではありません」

「魏単独の動きとは思えません。他国と連携している可能性も考慮すべきかと」


 宮廷の空気は張り詰め、重臣たちは険しい表情を浮かべていた。


「現在、国境沿いの駐屯軍は一万。各地の要塞には分散して兵が配置されておりますが、魏軍の規模を考えると、一カ所への集中攻撃には耐えられぬ恐れがあります」

「動かせる将軍は? 誰が対応できる?」

「北方には廉軍将が駐屯しておりますが、兵の数が足りません。南部の要塞にいる将軍たちは防衛に重点を置く配置で、迅速な展開は難しいかと……」

「このままでは魏の侵攻を食い止めることはできない」


「王よ、ご決断を」


 趙王は深く息を吐いた。

 魏の進軍速度、軍の布陣、各地の防衛状況——すべてを踏まえ、今、最善の策を講じねばならない。


 そして、沈黙の中、趙王は決断を下した。


「韓烈に全軍を託す」


 広間が静まり返った。


 趙王の言葉は、もはや議論の余地を残さぬ命令だった。

 趙国の存亡をかけた戦——その指揮を任されるのは、ただ一人、「戦神」と称される男。


 韓烈は無言で王を見つめ、それから静かに膝をついた。


「承知いたしました」


 魏の侵攻は止まらない。

 戦火は、すでに趙の地に迫っている。



 ◇



 王の命が下るや否や、屋敷の空気が一変した。

 静寂を保っていた空間が、まるで戦場そのものに変わるかのように、一気に緊迫感に包まれる。


「明朝には出陣とのことだ!」

「急げ!武具と軍装の準備を整えろ!」


 兵士たちは足早に駆け回り、鍛冶場では矢じりを仕上げる槌の音が響き渡る。


 ◇


 この知らせを聞いた私は、部屋の前で韓烈を待ち構えていた。

 外では軍馬のいななきと、兵たちの足音が響いている。

 兵たちはすでに戦の空気をまとい、戦場へと向かう準備を整えていた。


 やがて、軍の配置を確認し終えた韓烈が、重い足取りで部屋に入ってくる。

 まだ戦装束には袖を通していなかったが、彼の周囲にはすでに戦場の気配が漂っていた。


 私は、その姿をじっと見つめ、静かに口を開く。


「戦に同行させてほしい」


 韓烈の足が止まる。

 彼は、その言葉の意味をすぐに理解した。

 私が冗談を言っているのではないことは、私の瞳を見れば分かるはずだった。


 だが——


 韓烈は小さく息をつき、一瞬だけ眉をひそめる。

 そして、すぐに苦笑しながら首を振った。


「却下だ」


 それは、当然の答えだった。

 けれど、私はそれで引き下がるつもりはなかった。


 私は一歩前へ進み、韓烈の前に立ちはだかる。

 揺るがぬ意思を込めた瞳で、真っ直ぐに彼を見据えた。


「私は戦の足手まといにはならない。戦略を学び、剣を磨いてきた。あなたと共に行けば、何か役に立てるはず」


 韓烈の胸の奥が、微かに疼く。

 彼は、私が積み重ねてきた努力を知っている。

 政略結婚でこの国に来た後も、私はただ守られるだけの存在であることを拒み、懸命に剣を振るい、軍略を学び続けた。


 その向上心と、持ち前の才覚があったからこそ、今の私は韓烈の横で並び立つことができる。


 ——それでも。


 韓烈は、私の瞳をじっと見つめたまま、低く静かに言った。


「お前は、趙国の者ではない」


 その一言に、胸がざわつく。


「燕国から嫁いできたばかりのお前が、突然戦に加わるとなれば、疑念を抱く者もいる。そうなれば、軍の士気をコントロールしきれなくなる」


 韓烈の声は冷静だった。

 まるで戦場を見渡すように、彼はすべてを見据えていた。


「士気の統率は戦の勝敗を左右する。軍は、規律と信頼によって成り立っている。指揮官がどれほど優れていても、兵たちが一体となって戦わねば勝利はない。お前が加わることで、その均衡が崩れる可能性がある」


 私は唇を噛んだ。

 ——確かに、それは正論だ。


 軍は一糸乱れぬ統率のもとで動かなければならない。

 ほんのわずかな疑念や混乱が、命取りとなることもある。


 韓烈が言うことは正しい。

 しかし、それでも私はこの場でただ待つことなどできなかった。


「だから、俺はお前を戦場へは連れて行かない」


 長く息を吐き出し、ゆっくりと瞳を閉じた。

 そして、静かに頷く。


「……分かったわ」


 その声は小さく、それでもどこか納得した響きを帯びていた。


 韓烈は玲の表情を一瞬だけ見つめ、目を細める。


 ——玲は、強い。


 彼は、玲の剣の腕を知っている。

 だが、それ以上に彼女の精神の強さを知っている。


 どれほど悔しくても、己の中でそれを消化し、前を向くことができる。

 玲は、そういう人間だった。


 韓烈は、自分の胸の奥にわずかに痛みが走るのを感じた。


(お前を戦場へ連れて行くのは、簡単なことだ。)

(お前の実力は、俺が誰よりもよく知っている。)


 しかし——


(お前が戦場に立てば、俺は戦に集中できなくなる。)


 玲の姿が視界に入るだけで、守るべきものが増える。

 それが、韓烈には分かっていた。


(お前を失うことだけは、耐えられない。)


 それを言葉にすることはできなかった。

 言えば、玲はなおさら食い下がるだろう。


 だから、韓烈は何も言わず、ただ玲の前を通り過ぎた。


 扉の向こうで、軍の準備が進む声が聞こえてくる。

 玲は静かに目を閉じ、己の拳を握りしめた。


 ——韓烈の言うことは正しい。

 それでも私は、あなたを守りたい。



 ◇



 夜が更け、屋敷は静寂に包まれていた。

 しかし、その静けさの奥で、私の心は嵐のように揺れ続けていた。


 韓烈は、自分を戦場に連れて行かないと言った。

 その理由は、理解できる。

 趙国の軍としての士気、統率、そして私自身の立場。

 冷静に考えれば、韓烈の判断は正しい。


 ——だが、納得はできなかった。


 私は、暗い書庫の中でじっと考え込んだ。


 彼は、私に言ったではないか。


「自由に過ごして良い」と。


 その言葉の意味を、改めて考える。


 韓烈は、私に「好きなように生きろ」と言った。

 ならば、自分の意志で、自分の道を決めるのは間違いではないはずだ。

 誰かに許可を求める必要はない。


 自分で決めればいい——。


 私は、拳をぎゅっと握りしめた。


「待つだけの人間にはなりたくない」


 燕では、王女として、決められた道を歩まなければならなかった。

 だが、趙に来てからは違った。

 この国では、剣を取り、戦略を学び、ただの飾りではなく「自分の力で立つ」ことを許された。


 韓烈の元で過ごした日々は、私にとって何よりも自由で、そして心満たされるものだった。

 その韓烈が、今まさに戦場へ向かおうとしている。


 ならば——


 私が向かうべき場所も、そこにあるはずだ。


 彼がどのように戦場で軍を率い、勝利へ導くのか。

 その姿を間近で見なければ、彼の本当の姿を知ることはできない。

 そして、もし——


 もし、韓烈が命の危機に瀕することがあったなら?


 その時、自分がそばにいたら、何かできるかもしれない。


 韓烈は、私を守ろうとしている。

 だからこそ、自分を戦場に出したくないのだろう。


 しかし、私にとっては、韓烈が命を懸ける戦場を知らずにいることこそが、怖かった。

 彼を知るには、彼が生きる「世界」に踏み込まねばならない。

 それが私の「自由」なのではないか。


 静かに立ち上がる。


 決して、衝動ではない。


 これは、私の選択だ。


 月光が、窓から細く差し込む。

 それがまるで、自分の進む道を示しているように思えた。


「韓烈——あなたと共に戦う」


 玲の瞳は決意に満ちていた。



 4. 雪蘭と碧蘭の協力


 そうと決まれば、早々に準備をしなければならない。

 私は、一人で全てを準備するつもりだった。


 しかし、信頼できる者にだけは、この計画を打ち明けることにした。

 深夜、静まり返った屋敷の一室で、私は侍女の雪蘭と碧蘭を呼び寄せた。


「姫様……何かご用でしょうか?」


 玲は二人を見つめ、真剣な表情で口を開いた。


「私、韓烈の軍に紛れて戦場へ行くつもりよ」


 二人の顔が、一瞬にして青ざめた。


「そ、そんな……!」


「姫様、それはあまりにも危険です!」


 私は、静かに首を振った。


「私の決意は変わらない。あなたたちには、私が屋敷を出たことを悟られないよう協力してほしい」


 雪蘭は、苦しそうに玲を見つめた。

 碧蘭もまた、何か言いたそうに唇を噛んでいた。


 しかし、私は揺るがなかった。

「……姫様がそうお決めになったのなら、私たちはお仕えするだけです」

 雪蘭は、静かにそう言った。


 私は、小さく微笑んだ。


「ありがとう」


 碧蘭は涙を堪えるように俯きながらも、玲の鎧の紐を調整し、戦場へ向かう準備を整えた。


「お身体には、くれぐれもお気をつけください……!」

 私は、彼女たちの手を握りしめ、決意を新たにした。



 ◇



 朝が来た。


 夜明け前、軍の陣地にはすでに出陣の太鼓が鳴り響いていた。


 その重く響く鼓動は、大地を震わせるようであり、兵士たちの胸に戦の覚悟を刻み込んでいく。


 私は、その壮観な光景を、一兵士として軍の列の中から見つめていた。


 目の前には、果てしなく続く騎馬隊の列。

 甲冑をまとった兵士たちが整然と並び、槍や剣の刃が朝陽を受けて鈍く光っている。

 まるで無数の刃が朝の陽を斬り裂くようだった。


 その中心に、韓烈の姿があった。

 彼は、漆黒の軍馬にまたがり、長槍を携え、軍を見渡していた。

 その瞳は鋭く、戦場を見据えている。

 彼の表情には、一片の迷いもなかった。


 韓烈がただそこにいるだけで、兵たちの士気が高まる。

 彼の存在が、軍全体をまとめ、戦う意志を奮い立たせていた。

 彼が手をあげると、それまでざわめいていた軍勢が一瞬で静まり返る。


 そして、韓烈は軍の前に立ち、静かに口を開いた。

「——趙の勇士たちよ!」

 その一言が、軍全体に響き渡る。


「魏は我らの国境を脅かし、我らの誇りを踏みにじろうとしている。

 だが、ここにいる全ての者が、その屈辱を許すはずがない」


 私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。

「我らはこの剣をもって、趙の民を守る!」


 兵たちの間にざわめきが走り、槍を掲げる音が響いた。

 韓烈の言葉が、兵士たちの血を沸かせていた。


「敵は強大だ。しかし、俺たちはそれを上回る力を持っている!

 今こそ、俺たちの誇りを示す時だ!」


 軍全体が歓声を上げ、武器を掲げる。


 その瞬間、玲は、自分の血が熱くたぎるのを感じた。

 韓烈の言葉に、心が震えた。


 彼の声が、軍の士気を一つにし、戦へと向かう覚悟を決させていくのを肌で感じた。


 そして、それは私自身にも響いていた。

 ——戦に赴くことへの恐れはない。

 ——むしろ、戦いたいという気持ちが心の奥底から湧き上がる。


 自分が趙国の兵士ではなく、燕国の王女であったことなど、どうでもよかった。


 今、この場で剣を持ち、この軍の一員として戦うことにこそ、意味がある。


 私は、まるで自分自身が本当の「兵士」になったような感覚を覚えた。


 いや——それはもう、感覚ではない。

 今の自分は、確かにこの軍勢の一員だった。

 韓烈が指揮する軍と共に、敵へと向かう。

 この列の中で、自分も同じ方向を見つめ、同じ覚悟を持って歩んでいく。


 韓烈の軍勢が動き出した。

 軍馬が一斉に嘶き、軍勢が大地を震わせながら前進する。

 旗が風にはためき、兵士たちの足音が鼓動のように響く。

 鉄と血の匂いが、まだ見ぬ戦場の向こうから漂ってくるようだった。


 私は、剣の柄を強く握りしめた。

 その手には迷いはなかった。

 自分の選択は正しい。

 この道を行くことが、今の私にとっての「自由」なのだと、確信していた。


 こうして、彼女は一兵士として、

 韓烈の軍と共に、戦場へと進んでいった。








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