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第3幕 結婚生活(後半)

 趙国の屋敷に移り住んでから、すでに二ヶ月近くが経とうとしていた。


 季節は夏の真っ盛り。

 昼間の陽射しは容赦なく降り注ぎ、空には巨大な入道雲が悠々と浮かんでいる。

 庭の木々は濃い緑を湛え、葉の隙間からこぼれる日差しが、地面に揺れる光の模様を落としていた。


 季節の盛りとともに、屋敷の空気もまた、ゆっくりと変わり始めていた。


 最初の頃、屋敷の者たちは玲をどう扱えばよいのか分からず、遠巻きに見ていた。

 ——敵国の姫。

 ——趙国を苦しめた燕国の王族。

 どれほど美しくとも、それは警戒すべき相手であった。

 玲がこの屋敷の「主」となることを、素直に受け入れられない者も少なくなかった。


 しかし——

 私は、人の心を掴む術を知っていた。

 それは、ただ甘く接することでも、高圧的に振る舞うことでもない。

 敬意を持って相手に接し、誠実さを示すこと。

 それこそが、人を動かす鍵なのだと、幼い頃から学んでいた。

 屋敷では、敵対心を持たれていることを理解していた。

 だからこそ、それを力でねじ伏せるのではなく、時間をかけて信頼を築くことを選んだ。


 ある日、屋敷の女中が手を震わせながら茶をこぼしてしまったことがあった。


 その場にいた者たちは息を呑んだ。

 貴族の妻であれば、怒るか、冷たく叱責するのが当然の場面。

 それが燕国の姫ともなれば、さらに厳しくあたるかもしれない。


 だが、何も言わず、静かに微笑んだ。

 そして、そっと膝を折り、自ら布を取り、茶を拭いた。

「大丈夫よ」

 女中は目を見開いた。


「え……?奥様、私がやります!」

 周囲の使用人たちも驚き、思わず目を見張った。


 ——趙国の王族の女性が、こんなことをするだろうか?

 燕国の宮廷で育ち、誰よりも高貴な振る舞いを要求されてきた。

 だが、「ただの飾り」でいることをよしとせず、状況に応じて最適な振る舞いを選ぶ知恵を持っていた。

 それが、この場面では「寛容さ」だった。

 この出来事がきっかけとなり、使用人たちの玲への警戒は、次第に薄れていった。


 ◇


 普段から、使用人たちの名前を覚え、一人ひとりに丁寧に接した。

 料理長には「今日の味付けはいつもより濃厚で、おいしかったわ」と感想を述べ、洗濯場では女中たちと共に日差しの強さを気にした。


 特別なことをするわけではない。

 ただ、人として、当たり前の礼儀と関心を持って接しただけだった。


 しかし、それは同時に「甘さ」とは違っていた。

 ある日、屋敷の帳簿を確認した玲は、不自然な物品の消費に気づいた。

 調査を命じると、一部の使用人が食材や布を不正に持ち出していたことが発覚した。


「なぜ、こんなことを?」

 問いかける時も、怒鳴りつけるのではなく、冷静に相手を見据えた。

 だが、その目の奥に宿る鋭い光は、容赦のないものだった。


「この屋敷では、努力する者が正しく報われるようにしたいのです。不正は、その信頼を壊します」

 韓烈の意向は、誰よりも理解していた。

 韓烈は厳格でありながら、不公平を嫌う。


 兵の世界では、誠実な者が力を認められ、不正を働く者は容赦なく処罰される。

 それと同じことを、屋敷の中でも貫こうとしていた。

 その毅然とした姿勢に、使用人たちは最初こそ驚いたが、やがて敬意を抱くようになった。


「奥様はただ美しいだけの方じゃない……」

「お優しいけれど、それだけじゃない。正しいことを通すお方だ」

 こうした噂は、次第に屋敷中に広がり、玲への信頼は強固なものになっていった。


 ◇


 さらに、彼女が韓烈と談笑する姿を見るたびに、使用人たちは少しずつ安心感を抱くようになった。

 ——あの冷徹な将軍が、奥様と話している時は、少しだけ柔らかな表情を見せる。

 それは、屋敷の者たちにとっても驚きだった。


 韓烈は寡黙であり、無駄口を叩くことはない。

 しかし、妻と二人でいる時だけは、彼の目元には微かに優しい光が差す。


 ある夜、厨房の者たちが偶然、夕餉の席を見かけたことがあった。

「……将軍が、笑ってる?」

「そんな……嬉しいことがあった時でも、口角が少し上がったところしか見たことがなかったのに」

「いや、でも……なんだか、夫婦というより、本当に気の合う仲間のような……」


 二人は共にいる時、決して萎縮することなく、対等に話していた。

 時には冗談を言い、韓烈がそれに苦笑しながら応じる場面もあった。


 ——この方は、決して趙を害する者ではない。

 使用人たちがそう確信するのに、それほど時間はかからなかった。

 かくして、玲は「敵国の姫」ではなく、「この屋敷の女主人」として、確かな地位を築き上げていった。



 ◇



 韓烈との会話を重ねるうちに、少しずつ彼の本質を知っていった。

 彼は多くを語らないが、その言葉の端々に、彼という人間が滲んでいた。


 韓烈には、たった一人、本当に信頼する側近がいた。

 名を「岳承がくしょう」という。

 彼は韓烈の副官であり、韓烈が軍を率いる上での知略の右腕だった。


 岳承は、冷静沈着な男だった。

 戦場では誰よりも先に全体の流れを読み、的確な判断を下す。

 交渉にも長け、戦に勝った後には、より良い条件で停戦を結び、趙に有利な状況を作り出す。


「韓烈が本当に信頼しているのは、この岳承一人だけだ」

 屋敷の者たちは、そう囁いていた。


 韓烈は、戦場では先陣を切る。

 ただ軍を指揮するだけではない。

 彼は誰よりも前に立ち、誰よりも速く剣を振るい、己の力で勝利を掴み取る。

 兵たちは、その姿に士気を高めた。

「この人とともに戦えば勝てる」——そう確信させる圧倒的な存在感が、彼にはあった。


 だが、韓烈がただの「戦場の鬼」ではないことは、すぐに分かった。

 彼は、力のみで人を従わせる男ではない。


 たとえば——

 韓烈の軍では、占領した城の民を決して虐げることがなかった。

 戦利品として敵国の民を容赦なく扱う将軍は少なくない。

 だが、彼はそれを許さなかった。


「余計な血は流すな。必要なのは勝利だ」


 その信念を、彼の軍は皆、知っていた。

 兵たちは恐れではなく、尊敬と誇りをもって彼に従った。


 また、韓烈は貴族の出ではない。

 それゆえ、身分によって人を区別することもなかった。

 貴族であろうと、平民であろうと、彼の前では同じ。

 実力がある者は認め、誇りを持つ者は敬意を払う。


 将軍という存在を間近で見たことがなかったが、韓烈が「まれな素質を持つ名将」であることは、すぐに理解できた。


 彼の屋敷に仕える者たちは、皆、彼を心から敬っていた。

 それは畏怖ではなく、信頼と尊敬からくるものだった。


 韓烈は、ただ戦いを好む男ではない。

 勝つことが目的ではなく、勝った先にある「国を守る」ことこそが彼の本質だった。

 だからこそ、彼は自ら戦場に立ち、そして「無駄な血を流さないこと」を徹底していた。


 ——彼は、ただの武人ではなく、戦の中に生きながらも、人としての誇りを決して失わない男だった。


 それが、玲の目から見た、韓烈という男だった。



 ◇



 玲が使用人たちに溶け込むにつれ、屋敷の女性たちには新たな楽しみが生まれた。


 それは——玲を着飾ること。


「国の至宝」とまで呼ばれた美の持ち主。

 その称号に偽りはなく、彼女の美貌は、どんな衣装をも最高の一着に変えてしまう。


 透き通るような白い肌に、滑らかな黒髪。

 長いまつげの影が頬に落ちるたび、そこに生まれる陰影さえも計算されたかのように美しい。

 彼女が動くたび、薄絹が揺れれば風が香りを纏い、髪飾りが光れば月明かりが嫉妬する——そんな幻想さえ抱かせるほどだった。

 

「奥様、今日はこの衣装はいかがでしょう?」

「この刺繍の細工が、奥様の肌の白さを際立たせますわ!」


 いつしか、使用人たちは、まるで宝石細工をする職人のように、最も似合う色や生地を吟味し始めていた。

 その日の天気や、屋敷の庭に咲く花の色に合わせて衣を選ぶこともあれば、玲の表情に寄り添うような一着を仕立てることもあった。

 

 最初は戸惑っていた玲も、次第に彼女たちの楽しみに付き合うようになった。

 試しに袖を通せば、鏡の中の自分が、思いがけず新たな輝きを纏っていることに気づく。


「そんなに楽しいの?」

 微笑みながら尋ねると、使用人たちは目を輝かせながら答えた。


「ええ、姫様は何を着ても本当にお美しくて……!」

「私たち、こんなに楽しく仕事をしたことはありません!」

 美しいものを、美しく飾る——


 それは彼女たちにとって、ただの仕事ではなく、一種の芸術のようなものだった。


 少しだけ照れながらも、彼女たちの弾むような笑顔を見るのが心地よかった。

 彼女の美しさは、ただの装飾ではなく、それ自体が周囲を明るく照らす光だった。

 使用人たちは、それを誰よりも近くで感じていたのだ。


 玲という存在そのものが、彼女たちの創造を掻き立て、彩る世界を与えてくれる——。

 まるで、一輪の花が陽の光を浴びて咲き誇るように。



 ◇



 こうして、最初は敵国の姫として警戒されていた玲も、次第に屋敷の者たちの心に入り込んでいった。

 それは彼女が持つ知恵と美貌、そして、凛とした気品を保ちながらも、裏表のない気さくな性格ゆえだった。

 玲という存在は、ただの燕国の王女ではなく、一人の「玲」という人間として、次第に屋敷の者たちに受け入れられていった。


 そして——

 その変化は、韓烈自身にも現れていた。

 彼女がこの屋敷に来てから、韓烈は以前よりも穏やかに笑うことが増えた。


 もともと、彼は厳格で、感情を表に出すことが少ない男だった。

 戦場では常に冷静沈着、私生活でも余計な感情を挟まず、ただ軍務に生きることが彼の日常だった。


 しかし、二人で過ごす時間が増えるにつれ、彼の表情には柔らかな色合いが宿るようになった。

 とくに、玲と話している時——何気ない会話の端々に、ふとした笑みがこぼれる。


 そんなある夜、私はふと、ずっと心の奥に抱えていた疑問を口にした。


 二人は夕餉を終え、夜風の涼しさを感じながら屋敷の廊下を歩いていた。

 庭の草葉が夜露をまとい、月明かりにきらめいている。

 遠くで虫の音が静かに響いていた。


 韓烈の横顔をちらりと見ると、いつもの穏やかな表情だ。

 そして、意を決するようにゆっくりと口を開く。


「韓烈さま……」


 韓烈が歩みを止め、こちらを向く。


「どうした?」


 ほんの少しだけ目を伏せ、ためらうように言葉を選んだ。


「……私との政略結婚を決めたのは、どのような事情があったのですか?」


 韓烈は、その問いに一瞬驚いたように目を細めた。

 そして、玲が真剣に答えを求めていることを察し、静かに視線を前に戻した。


「……趙が秦や魏の侵攻に対処するためだ」


 低く落ち着いた声だった。

 私は黙って韓烈の言葉を待つ。


「今の趙は、秦、魏、燕という三国と国境を接している。同時に三国を相手にするのは難しい」


 韓烈の声は、どこまでも現実的だった。

 玲もそれを理解していた。趙は軍事的に優れた国ではあったが、いかに強力な将軍を擁していようと、三正面の防衛は容易ではない。


「戦では、どこで戦うかを選ぶことが最も重要だ。前線を減らせれば、それだけ趙の兵を集中させることができる」


 韓烈は静かに続けた。


「その中で、燕との関係を安定させるのが最も現実的だった。秦や魏に比べて、燕は趙が比較的交渉しやすい国だったからな」


 その言葉には確信がこもっていた。


「つまり、燕と手を結べば、趙の兵力を他の戦線に集中させられる……ということですね」


「そういうことだ」韓烈は私の言葉を肯定するように頷く。「戦場では、正面から戦うだけが戦略ではない。どの戦線を削るか、どの敵をどの時点で排除するか。それを誤れば、いくら強い軍を持っていても敗北する」


 静かにその言葉を噛み締めた。


「……理にかなっています」


 韓烈は、少しだけ玲を見た。


「お前は、本当にそう思うのか?」


「ええ。燕にとっても、趙との同盟は必要でした。そして、趙にとっては、最善の策だったのでしょう」


 その答えに、韓烈は微かに目を細めた。


「……お前は、もっと感情的に反応すると思っていた」


 私は夜空を見上げた。

 静かな星々が、穏やかな輝きを放っている。


「戦の世界で生きる者にとって、大切なのは『理』と『現実』です」

 ゆっくりと視線を戻し、韓烈を見つめた。


「そして……私は、韓烈さまのもとに嫁いでよかったと思っています」


 韓烈の眉がわずかに動いた。


「なぜ、そう思う?」


 少しだけ息を吸い、目を細めた。


「ここには、檻がないからです」


 燕では、玲は美しさを称えられながらも、決して自由ではなかった。

 しかし、ここでは剣を振るうことも、知識を活かすこともできる。

 何より——ただの「王女」ではなく、一人の人間として認められている。


 韓烈はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑みをこぼした。


「……お前らしい答えだな」


 その声は、どこか安堵しているようにも聞こえた。


 その笑みを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 ——これでいい。

 この結婚は、国のために結ばれたもの。

 でも、だからこそ、共に生きる意味を見つけていけばいいのだ。



 夏の終わりが近づき、朝夕の風が少しずつ涼しさを増してきた。

 庭の草木は、どこかひんやりとした夜風にそよぎながら、季節の移ろいを静かに知らせている。

 空の青さも、どこか澄み渡り、太陽の光は穏やかになっていた。


 玲という存在が、韓烈だけでなく、屋敷全体に、そしてこの季節の変わり目とともに、新たな息吹をもたらしていた。







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