第3幕 結婚生活(前半)
長い道のりを経て、ついに趙国の首都へと辿り着いた。
国境の城を発ってから、旅路は驚くほど静かだった。
再び襲撃を受けることもなく、陰謀の影が忍び寄る気配もない。
ただ、淡々と進み、婚姻の儀式へと向かっていった。
けれど——心は、落ち着かなかった。
これから迎える場所は、もはや「敵国」ではない。
私は趙国の将軍・韓烈の妻として、この国に生きることになるのだから。
輿の簾越しに、首都の光景が目に入る。
街の両脇には多くの民が集まり、韓烈の帰還を熱烈に歓迎していた。
彼らの表情には、誇りと敬意が滲んでいる。
誰もが韓烈を「戦神」と称え、その勝利を祝福する眼差しを向けていた。
——韓烈は、趙国の英雄なのだ。
その事実を改めて突きつけられ、胸の奥が少しざわめくのを感じた。
そして、婚礼の儀式は、すぐに執り行われた。
趙国随一の将軍の婚礼は、壮麗なものだった。
宮廷の広間には重臣や貴族たちが集まり、華やかな衣装をまとった人々が儀式を見守っている。
琴の音が静かに流れ、紅蓮の絨毯が敷かれ、黄金の灯火が夜空を照らしていた。
美しい紅の婚礼衣装を纏い、ゆっくりと祭壇へと歩く。
その先には、韓烈がいた。
彼の眼差しは、いつものように冷静だった。
誰の前でも感情を揺らすことのない、戦場に立つ武人のまなざし。
彼の隣に立っても、彼はただ一瞥しただけ。
そこに、情を滲ませることはなかった。
神への誓いを立て、杯を交わし、夫婦として結ばれる——。
けれど、この婚礼に、甘い誓いや愛の言葉はなかった。
これは国のための結婚であり、政略の一環なのだから。
「……これで、おまえは俺の妻だ」
婚礼が終わった後、韓烈は低く、静かにそう告げた。
私は、その言葉にただ頷くだけだった。
◇
婚礼が終わると、韓烈の屋敷へと向かうことになった。
彼は馬に乗り、私は輿の中で揺られている。
たったこれだけの距離さえ、私たちは別々だった。
屋敷に着くと、待っていたのは、燕国から同行した侍女・雪蘭だった。
彼女の姿を見た瞬間、ふっと胸の奥が軽くなるのを感じた。
異国の地で、慣れない環境の中で、知った顔がいるというだけで、これほど心強いものなのか——。
「奥様……!」
雪蘭は、滲ませた涙を堪えながら、出迎えてくれた。
「玲の世話は、雪蘭と碧蘭の二人に頼むわ」
その言葉に、碧蘭は静かに頷く。
「はい、奥様。何なりとお申し付けください」
こうして、新たな生活が始まった。
◇
韓烈の屋敷での生活は、思っていた以上に穏やかだった。
彼は軍務に追われ、朝早く出陣し、夜遅くに帰ってくることがほとんどだった。
まるで屋敷の主が不在であるかのように、静かな日々が続いた。
時折、夕食の席を共にすることはあったが、交わす言葉は限られていた。
「屋敷の生活に不便はないか」
「何か困ったことはあるか」
それだけだった。
私は何かを求めることもなく、韓烈もまた、必要以上に干渉してくることはなかった。
もともと「自由にしていい」と言われていたのだから、それでいいはずだった。
◇
屋敷を案内されたとき、その広さに思わず息を呑んだ。
ここは、もともと歴代の大将軍が使用していたものらしい。
最後の主が亡くなり、親族が帰郷したことで、韓烈が譲り受けたと聞いた。
長い年月を経た柱や梁、歴史を刻んだ調度品の数々——。
この屋敷が歩んできた時間の重みを、至るところで感じることができた。
だが、最も心を奪われたのは書庫だった。
世界各地の歴史書や兵法書がずらりと並び、
燕国の宮廷でさえ目にしたことがないような珍しい書物も数多く揃えられている。
「これほどの書があるなんて……」
思わず指先で本の背を撫でた。
古びた紙の匂い、厚い装丁の感触。
どれも、一度は読んでみたいものばかりだった。
これほどの蔵書を持つということは、韓烈が単なる武人ではない証拠だ。
戦の技だけでなく、知略を重んじ、歴史を深く理解しようとしている。
そして、決めた。
ここでの時間を、戦略と知識の研鑽に費やそうと。
◇
さらに、屋敷には大小さまざまな稽古場があった。
剣術の鍛錬ができる場所が、一つどころか複数ある。
その事実に、胸が熱く高鳴った。
——もう、二度と剣を振るえないと思っていた。
それがここでは許される。
誰に咎められることもなく、自由に剣を握ることができる。
燕国の宮廷では、剣を振るう王女など「異端」とされていた。
けれど、ここでは誰も私を縛らない。
韓烈は、何をしようとも何も言わなかった。
私は、生まれて初めて、本当の自由を手に入れたのだった。
◇
自然と、生活のリズムは決まっていった。
朝は剣術の鍛錬。
稽古場で木刀を振るい、汗を流し、身体を鍛える。
剣の感覚が研ぎ澄まされ、動きが次第に鋭さを取り戻していく。
午後から夜は書庫で読書。
歴史書や兵法書を読み漁り、知識を蓄える。
紙の香りに包まれながら、書物の世界に没頭する時間は、何よりも心が満たされた。
剣を振るい、知識を得る——。
この屋敷は、檻ではない。
むしろ 「解放された場所」 だった。
◇
韓烈に嫁いでから、一ヶ月ほどが経とうとしていた。
季節は 初夏 を迎え、趙の大地は青々とした緑に包まれていた。
庭の木々は濃い葉を茂らせ、時折吹く風が葉擦れの音を奏でる。
陽射しは強さを増しつつあり、空はどこまでも澄み渡っている。
昼間はじりじりとした陽気に汗ばむこともあったが、
朝夕には心地よい涼風が流れ込み、季節の移ろいを感じさせた。
この屋敷での生活は、静かで、そして充実していた。
朝は剣術の鍛錬。
木々の葉の間からこぼれる光の下、剣を振り、額に汗をにじませる。
涼やかな風が、熱を帯びた肌を優しく撫でていく。
午後から夜は書庫で読書。
窓辺に座り、夕暮れが近づくと、涼やかな風が頬をかすめる。
古びた書物の紙の香りとともに、戦略や戦史の奥深さに没頭する日々。
学ぶことが尽きないというのは、なんと幸せなことだろう。
かつて宮廷で感じた息苦しさは、ここにはない。
自分の意志で学び、鍛え、未来を描くことができる。
そして——その頃だった。
燕国との同盟の後処理が落ち着いたのか、韓烈が屋敷にいる時間が増えていった。
◇
その日、韓烈は午後から軍務に出る予定だった。
書類を整えながら、ふと気になったことがある。
——玲は、普段どのように過ごしているのか。
この屋敷での玲の生活が穏やかであることは、使用人たちの会話の端々から聞こえていた。
自由にしていいとは言ったものの、異国の地で何を思い、どう生きているのか。
彼女は燕国の姫。
戦乱の世に生まれ、政略結婚の駒として趙にやってきた。
自分なら、もし逆の立場であったなら、見知らぬ国で何を考え、何を感じるのだろうか。
なぜか、その答えを知りたくなった。
韓烈は、侍女の雪蘭を呼び、玲の普段の様子を尋ねた。
雪蘭は、落ち着いた微笑みを浮かべながら静かに答える。
「奥様は、毎朝、稽古場で剣術の訓練をなさっています」
韓烈の眉がわずかに動いた。
「……剣術?」
玲が剣を扱えることは知っていた。
だが、それは宮廷でたしなむ程度のものだと思っていた。
雪蘭は、頷いて続けた。
「ええ。この一ヶ月、一日も欠かすことなく、鍛錬に励んでおられます」
意外だった。
思わず、韓烈の中で不思議な感情が芽生える。
——玲の剣を見てみたい。
無意識に韓烈の足は稽古場へ向かっていた。
◇
稽古場の門をくぐった瞬間——
韓烈は、足を止めた。
玲が、木刀を振るっていた。
風を孕む白い衣が、流れるように舞う。
細くしなやかな腕が、力強く木刀を振り下ろす。
その動きには、一切の無駄がなかった。
まるで剣舞のように、しなやかで、美しい。
だが、韓烈が見ていたのは、その美しさではなかった。
玲の剣は、本物の剣士の剣だった。
見せかけの剣ではない。
これは——戦う者の剣だ。
玲は、静かな目をしていた。
脇目もふらず、ただひたすらに剣を振るっている。
その姿は、戦場に立つ兵士と何ら変わりなかった。
韓烈の胸が、ざわつく。
——なぜ、彼女はここまで剣を求めるのか。
——何のために、そこまでして鍛錬を続けるのか。
知りたかった。
その答えを、玲の剣から感じ取りたかった。
韓烈は、気づけば木刀を手にしていた。
そして——
かんっ!
玲の振り下ろした木刀を、韓烈の木刀が受け止めた。
玲は驚き、息を飲む。
いつの間にか、韓烈が目の前に立っていたのだ。
「稽古の相手が必要だろう」
韓烈の声は低く、しかしどこか楽しげだった。
玲は、驚きのあと、ふっと微笑んだ。
「……ぜひ、お願いします」
◇
韓烈は玲の力強い踏み込みを受け止めながら、目を細める。
——悪くない。
玲の剣筋は、鋭い。
しなやかでありながら、しっかりと芯が通っている。
無駄のない動き、迷いのない刃。
それを真正面から受け止めながら、韓烈の唇がかすかに上がる。
——面白い。
午前中とはいえ、7月の陽射しは容赦がない。
熱された砂地からは微かな熱気が立ち上り、風は生ぬるく肌を撫でる。
けれど、彼女はそんな暑さなどまるで意に介さず、淡々と剣を振るい続けていた。
細身の白い稽古着は、動くたびに軽やかに翻る。
うなじに流れた汗が、陽の光を受けてきらりと光った。
韓烈は、その姿を目に焼きつけるように見つめる。
異国の姫、政略結婚の相手——
そんな肩書きでは到底測れない、玲という存在。
まさか、この屋敷で自らの剣を極めようとしているとは。
一方で、玲は目の前の相手を強く意識していた。
韓烈の速さと力強さに圧倒されそうになりながらも、必死に食らいつく。
この人の剣は、戦場を生き抜いてきた者の剣——。
——この人は、本物の強者だ。
振り下ろされる木刀を受けるたび、全身に衝撃が伝わる。
それなのに、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、こうして剣を交わすことが楽しくてならない。
互いに木刀を振るいながら、玲は韓烈を見た。
鍛え上げられた腕がしなやかに動き、肌に汗が伝い落ちる。
陽射しを受けた肩や胸板が、薄く光を反射していた。
まるで獣のような鋭さを持ちながらも、どこか余裕を感じさせる姿。
——負けたくない。
その一心で、さらに木刀を握り直す。
韓烈もまた、玲の鋭い目つきを見て、微かに笑った。
「——来い」
挑発するような低い声に、
胸が高鳴る。
二人の息が乱れ、額から汗が滲む。
木刀が交差し、火花のような衝撃が走る。
どちらも一歩も引かない。
やがて——
最後の一撃を繰り出した瞬間。
木刀が空を裂き、音を立てて交差した。
気がつけば、二人とも同じように木刀を止めていた。
どちらが勝ったというわけではない。
ただ、全身を使い果たし、互いに同じところで終わった——それが妙に心地よかった。
肩で息をしながら、韓烈は玲の呼吸の乱れを見つめ、静かに笑った。
「……いい腕だ」
玲もまた、息を整えながら微笑む。
「あなたも……さすがです」
言葉は少なかった。
けれど、剣を交わしたことで、言葉ではなく心が通じたような気がした。
◇
それからというもの、韓烈は毎朝、私の稽古に付き合うようになった。
薄明の中、静寂を切り裂くように木刀の音が響く。
踏み込み、受け、かわし、反撃——。
互いの剣筋が交錯するたびに、空気が張り詰める。
玲の剣は、無駄がなく、鋭かった。
実戦経験こそ少ないが、その技の一つ一つには確かな理があった。
構え、踏み込み、剣の軌道——すべてが洗練され、迷いがない。
韓烈にとって、玲と剣を交わす時間はとても心地よいものだった。
対等に剣を振るい合える相手など、滅多にいない。
これまで戦場で名を馳せてきた韓烈にとって、剣を交える相手はほとんどが「討つべき敵」だった。
どちらが生き、どちらが死ぬか。
それがすべてであり、そこに楽しさなどはなかった。
しかし、玲との稽古は違う。
彼女は、自分と互角に打ち合いながらも、どこか楽しげに笑みを浮かべる。
剣の重みを受け止めながら、互いの技を確かめ合い、息を合わせる——まるで、言葉を交わすように。
玲と剣を交えるたびに、韓烈の中には不思議な感覚が生まれていった。
玲もまた、韓烈との稽古を心から楽しんでいた。
剣を交わすたび、全身が研ぎ澄まされ、血が躍る。
全力で打ち合える相手がいることの喜び。
それを、これほど高い技量を持つ相手とできる機会は滅多にない。
互いに技を繰り出し、受け、かわし、次の一手を考える。
その瞬間、まるで「生きている」という実感を全身で感じることができた。
剣の軌道が交差するたびに、互いの鼓動が高鳴る。
そして——韓烈と剣を交えるたびに、彼の中にある誇りと優しさを知る。
戦場では容赦なく敵を斬る将軍が、自分との稽古では絶妙な力加減で剣を振るい、どんなときも怪我をさせないよう気遣ってくれる。
鋭い視線の奥に、自分を対等な相手として認めるまなざしがある。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「おまえは、本当に王女だったのか?」
息を弾ませながら、韓烈が思わずこぼす。
額の汗をぬぐいながら微笑む。
「燕では、政略の駒として生きてきました。でも、剣を握っているときだけは、私のままでいられるんです」
その言葉に、韓烈の胸がかすかに疼く。
玲の剣は、ただ戦うためのものではなかった。
それは、彼女自身を支えるための剣だったのだ。
「……なるほどな」
韓烈は木刀を構え直し、玲を見据えた。
その目には、言葉以上の何かが込められていた。
韓烈は、玲の「吸収力」にも驚いていた。
彼が一つ動きを見せれば、彼女はすぐにそれを習得し、自分のものとして昇華させる。
ただの模倣ではない。
玲は戦術を理解し、体で覚え、最適な形に変えていく。
——強くなる。
韓烈は確信した。玲は、剣士として、戦士として、これからもっと強くなる。
それは、彼が今まで培ってきた「武」に対する信念とどこか共鳴していた。
剣を交わしながら、思う。
——今、この瞬間が、とても楽しい。
いつの間にか韓烈は玲と過ごす時間を楽しみ、玲もまた、韓烈と剣を交えることが何よりも楽しくなっていた。
◇
やがて、二人は夕食を共にすることが日常になっていった。
広い屋敷の一角、明かりに照らされた食卓には、いつの間にか笑い声が溢れるようになっていた。
韓烈の屋敷は、もともと質実剛健な暮らしぶりだった。
戦場を駆ける者にとって、余計な装飾や贅沢は必要ない。
しかし、玲が来てからは、どこか空気が変わった。
贅沢ではなくとも、確かな温もりが満ちていた。
夕餉の席では、歴史や戦術について語り合うことが、二人の何よりの楽しみになっていた。
「趙の軍の編成は、魏とは根本的に違うんです」
「いや、違うのは兵の統率の仕方だ。魏は強さを誇示する軍だが、趙は連携を重んじる」
軍略について意見を交わし、過去の戦を分析し、新たな視点を得る。
韓烈は、玲の知識に驚かされることが少なくなかった。
彼女の戦略眼は、ただの書物の知識ではない。
机上の空論に終始せず、実戦に即した鋭さを持っている。
「お前は、本当に戦の道を歩むつもりはなかったのか?」
杯を手にしながら、韓烈がぽつりと尋ねる。
少しだけ目を伏せ、ゆっくりと杯を傾ける。
「……本当は、戦場に立ちたかったのかもしれません」
その横顔を、韓烈はじっと見つめた。
自らの意志で道を切り開こうとする者の顔をしている。
ただ与えられた役割を生きるのではなく、自ら選び、進もうとする者の目をしていた。
韓烈には、それがよく分かった。
——彼女は自分と似ている。
違うのは、戦場に立つことを許されたか否か、それだけのことだ。
会話は尽きることなく続き、時には白熱しすぎて深夜まで語り合うこともあった。
「いや、あれはどう考えても罠だったでしょう?」
「罠と分かっていても、あの状況では前に進むしかなかった」
「でも、他の選択肢が——」
「……おい、気づいているか?もう夜が明けるぞ」
韓烈が窓の外を指さす。
驚いて振り返ると、 いつの間にか夜はすでに白み始め、東の空が淡い橙色に染まっていた。
庭の草葉が、朝露を帯びてかすかに光る。
鳥のさえずりが響き、涼やかな風が部屋の中に入り込んできた。
「話に夢中になりすぎましたね」
くすくすと笑う。
韓烈も苦笑し、杯を置いた。
「全く、お前と話していると時間を忘れる」
「それは私も同じです」
何気ない会話。
だが、その時間は、二人にとって確かに特別なものになりつつあった。
互いを打ち負かすためではなく、共に戦術を練る相手がいるということ。
それが、こんなにも楽しく、心を満たすものだとは——
二人とも、今まで考えたことすらなかった。
◇
——気づけば、二人は無二の親友のような関係になっていた。
政略結婚。
そこに愛はないはずだった。
しかし、いつの間にか韓烈は玲と過ごす時間を楽しみ、
私もまた、韓烈と語り合うことが何よりも楽しくなっていた。
剣を交わし、知恵を語り合い、心を通わせる——。
ふと思う。
——もし、二人が敵国同士の将軍と王女ではなく、ただの仲間として出会っていたなら。
しかし、その「もし」はあり得ない。
それでも、二人の時間は心地よく、
まるで長年の戦友のような関係が築かれ始めていた。




