第10幕 二人の新しい道
燕国の王宮は、激動の嵐が去った後の静けさに包まれていた。
魏宣の野望は潰え、彼の残党は次々と処刑され、もしくは逃亡した。
燕王は未だ床に伏し、まともに言葉を発することすらできない。
侍医たちの見立てでは、王は長期間にわたり少量の毒を盛られ続けていたという。
「……生きてはいるが、政務を執ることはできないだろう」
そう診断されたとき、燕の朝廷にいた者たちは、皆静かに顔を伏せた。
国の舵を取る者がいない——その事実は、燕国の未来を大きく揺るがした。
だが、間もなく玲の兄である燕王太子・蕭瑾が戦から呼び戻され、父王に代わり執政を行うことが決定された。
◇
しかし、燕が存続できたのは、趙との間に結ばれた屈辱的な条約があったからだった。
魏宣の反乱によって燕は内部から弱体化し、王の失脚による政治的混乱が続く中、もはや独立国家として存続することは難しかった。
燕は趙へ多額の賠償金を支払い、さらに国境付近の土地を割譲することを余儀なくされた。
「これは……燕が趙の属国になることを意味する」
ある重臣が低く呟いたとき、燕の朝廷内には重い沈黙が流れた。
燕王の名のもとに調印された条約は、燕国の独立を大きく揺るがすものとなった。
これにより、燕は名目上独立国でありながら、実質的には趙の支配下に置かれることとなった。
その決定に反発する者もいたが、蕭瑾は冷静に言った。
「今の燕には、これ以外の道はない。まずは国を立て直すことが最優先だ」
燕は、一国としての誇りを失いながらも、なんとか存続する道を選んだのだった。
◇
一方で、燕の軍を率いていた将軍白陵の行方は杳として知れなかった。
戦が終結した後、彼の姿を見た者はいない。
「白陵は燕を捨て、他国に亡命したらしい」
密偵たちがもたらした情報によれば、白陵は魏へと逃れた可能性が高いという。
かつての名将が、祖国を捨てることになった——それは燕国の民にとっても、衝撃的な事実だった。
◇
一連の混乱が収束した頃、韓烈は燕王太子・蕭瑾と向かい合っていた。
宮廷の大広間。
煌びやかな装飾が施された空間の中で、二人の男は静かに対峙する。
かつて敵対したはずの趙の将軍と、燕の次代を担う王太子。
だが、今ここにあるのは、戦ではなく、別離のための対話だった。
「趙の将軍・韓烈殿」
低く落ち着いた声が、静寂を破る。
「今回の一件、妹を救ってくださったこと、そして燕国を無駄な混乱から救ってくださったこと……深く感謝する」
その言葉と共に、蕭瑾は深々と頭を下げた。
それを見つめながら、私の胸の奥には、もう蕭瑾への嫌悪感はなかった。
「兄様……私は……」
言葉を紡ぎかけ、息を飲む。
どの言葉を選んでも、彼の心を救うことはできないような気がして。
しかし、蕭瑾は玲を遮るように、静かに微笑んだ。
「分かっている」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「お前はもう燕の人間ではない。趙の人間として生きる道を選んだのだろう」
私は、黙って頷いた。
燕の宮廷を離れ、趙の一員となる。
それは、彼女自身が選んだ運命だった。
沈黙が降りる。
窓から差し込む光が、かつて玲が過ごした宮廷の廊下を照らしていた。
子どもの頃、兄の影を追いかけながら歩いた回廊。
お裁縫の授業を抜け出して、叱られた庭。
すべてが、過去のものになろうとしていた。
蕭瑾は、ふと視線を向ける。
韓烈の横で佇む玲。
その表情は、燕国の宮廷にいた頃とは全く違っていた。
そこには、自然体の玲の姿があった。
戦うためでもなく、守るためでもなく、ただ「玲」として、穏やかに微笑む姿。
そして、その隣には韓烈がいる。
——そうか。
お前は、ようやく心から笑える場所を見つけたのか。
彼は、心の奥で苦笑する。
この宮廷のどこにいても、彼女は常に美しき王女としての仮面をかぶっていた。
けれど、韓烈の隣にいる玲には、そんな影がなかった。
あれほど己の感情を隠し、完璧な仮面を被っていた妹が、韓烈の前では無防備に微笑んでいる。
韓烈が、彼女の本当の姿を引き出したのだ。
彼は、ただ奪ったのではなく、玲が「玲」として生きる道を与えた。
……ならば。
自分がすべきことは、もう決まっている。
蕭瑾は、微かに寂しさを滲ませながらも、玲の手をそっと握った。
「……元気でいろよ」
私は、瞬きしながら、しっかりと頷く。
「兄様も」
それ以上、言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
私は、韓烈と共に燕の王宮を後にする。
振り返ることはしなかった。
ただ、前へ。
自ら選んだ未来へと向かって、歩き出した。
蕭瑾は、去りゆく二人の背を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
彼はこの宮廷に残る。
燕国の王太子として、この国の未来を築くために。
もう、玲を追うことはしない。
玲に囚われるのではなく、この国に生きる者として、自らの役目を果たす。
それが、玲を愛した自分にできる、最後の誠意だった。
——これからは、国を再建することに全てを捧げよう。
そう心に誓い、彼は静かに踵を返した。
◇
韓烈と共に屋敷へ戻ると、久しぶりに穏やかな夕餉の席についた。
燭台の淡い灯りが揺れ、湯気の立つ料理の香ばしい匂いが食卓を包む。
戦や策謀に明け暮れた日々とはまるで別世界のように、こうして二人並んで箸をとる時間が、どこか夢の中にいるようにさえ感じられた。
韓烈が静かに杯を手に取り、ひと口含む。
目の前の穏やかな日常——そのささやかな一瞬が、胸に沁みるほど嬉しかった。
「……ようやく、戻ってきましたね」
私がぽつりと呟くと、韓烈は小さく頷いた。
「そうだな。長い戦だった」
「でも、無事に帰ってこれました」
そう続けた私に、彼はふと視線を向け、優しく目を細めた。
「お前が無事でいてくれたからだ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
私もまた、冷たい地下牢の中で、韓烈の無事をただ祈り続けていた。
その願いが叶い、今こうして向かい合っていられる——それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
しばしの静けさの後、韓烈が箸を置き、真剣な眼差しをこちらに向ける。
「玲……俺は、将軍職を辞そうと思っている」
その一言に、私は思わず箸を止めた。
「……えっ?」
戸惑いながらも、彼の瞳をまっすぐに見つめる。
その眼差しには、迷いの影はなかった。
「戦に身を投じる者も、それを見送る者も——どちらも辛い。これまで、俺は命を懸けることに躊躇いはなかった。
だが、お前に“待つ苦しみ”を味わわせることは、もうしたくない」
その言葉は、まっすぐに胸に届いた。
彼の人生は、常に戦の最前線にあった。
その道を手放す決意が、どれほど重いものか……痛いほど伝わってくる。
「……本当に、それでいいのですか?」
問いかけると、韓烈は静かに微笑んだ。
「お前と生きる未来の方が、俺にはずっと価値がある」
思わず、目が熱くなる。
そんなふうに想っていてくれたなんて……。
韓烈は、趙にとって欠かせない将軍。
その決断は、国の行く末にも関わる。
それでも、彼は私との未来を選んでくれた。
私が彼との未来を選んだように。
わずかに思いを巡らせ、私は一つ、決意を口にした。
「……では、一緒に、新しい道を歩みましょう」
韓烈が、少し意外そうに眉を上げる。
「新しい道?」
私は頷き、ずっと心に温めていた思いを語り出した。
「私が趙に来てから学んだこと……それは、ただ強いだけではなく、知略や兵法の大切さです。
戦場に出る前に、もっと多くの者が学び、備えられたなら——救える命も、きっとあるはず」
私はゆっくりと杯を置き、言葉を重ねた。
「だから、兵士を育てる学校を作りたいのです」
韓烈は少し驚いたように目を細める。
「学校、か……」
「はい。身分や性別に関わらず、学びたい者が等しく知を得られる場所を。
剣と知識、その両方を手にして、命を守る力を持てるように」
私の言葉に込めた想いが、瞳に宿る。
「誰もが戦の中で生き抜く術を学び、無意味に命を落とすことがないように」
韓烈は静かにその言葉を噛みしめ、ぽつりと呟いた。
「……身分を問わず……」
「ええ。戦場では、貴賤の別なく死が訪れます。
でも、生まれによって学ぶ機会さえ奪われるのは……やはり、おかしいと思うのです」
私の声は穏やかだったが、その内には強い熱があった。
「韓烈さまとなら、それができる気がするのです」
彼は少しの間、目を伏せ、それからゆっくりと息を吐いた。
——玲の言葉は、いつだって彼の想像を超えてくる。
自分自身が長年戦場に囚われていたことに、今さらながら気づかされる。
「……やはり、お前は面白いな」
ふっと笑みを浮かべた韓烈に、思わず頬が緩む。
「では——」
「やるからには、全力で取り組むぞ」
力強く告げられたその言葉に、心が跳ねる。
「ええ。二人で、一緒に」
未来はまだ、形を持たない。
けれど、二人ならきっと——どんな困難も乗り越え、新たな道を切り拓いていける。
戦場ではなく、知を磨き、人を育てる未来へ。
その可能性が、今、確かに目の前に広がっていた。
韓烈はそっと私の手を取り、深く頷いた。
「お前となら——どこへでも行ける気がする」
頬がふわりと紅潮し、韓烈と共に歩む未来に心が弾む。
二人の未来は、これから始まる——。




