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第9幕 戦神の怒り

 玲からの鳩が途絶えて、どれほどの時が経ったのか。


 戦場に身を置きながらも、剣を振るうたび、韓烈の心は玲のことで埋め尽くされていた。


 無事なのか。

 傷ついてはいないか。

 何かに巻き込まれてはいないか。


 何の報せもないというのは、ただ単に筆を取る余裕がないのか、それとも——

 彼女が何らかの力によって、その手段を奪われているのか。


 考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨れ上がる。


 玲は聡明で、決して軽率な行動を取る女ではない。

 それは分かっている。


 だが、それでも——

 もし、彼女が何かに囚われ、声を届けられない状況にあるのだとしたら?


 韓烈の胸の奥に、嫌な予感がじわじわと広がっていく。


 焦燥を噛み殺しながら、韓烈は空を仰ぐ。

 玲がどこかで、同じ空を見上げているなら——


 今すぐにでも、彼女のもとへ駆けつけたい衝動に駆られる。


 そんな折、趙王からの早馬が駆け込んだ。


 韓烈は、使者の手に握られた書簡を目にした瞬間、

 胸の奥に渦巻いていた不安が、一気に膨れ上がるのを感じた。



 ◇



 趙王からの書簡。

 そこに記されていたのは、燕王からの書簡の内容だった。

「燕の王女・玲は、燕に帰還し、我が燕国に忠誠を誓った」

「これにより、趙との和平同盟は解消され、燕は趙に宣戦布告する」


 瞬間、韓烈の呼吸が止まった。


「……何?」


 言葉が頭に入らない。

 心臓が、ひどく不快な鼓動を刻んだ。


 玲が——燕に寝返った?

 そんなはずがない。

 玲が趙を裏切る理由など、どこにもない。


 確かに、彼女は燕王の娘であり、国への想いも深い。

 それでも——あの夜、彼女が語った言葉、あの瞳に映っていた真実が、韓烈の胸の奥に強く焼き付いていた。

 あれが、嘘だったとは到底思えない。


 だが、岳承は韓烈の反応を見て、静かに目を細めた。

「やはりな……」

 岳承の低い呟きが、思考の渦に割って入る。


「どういう意味だ?」

 韓烈の声は、静かながらも鋭かった。


 岳承はゆっくりと息を吐き、肩をすくめる。

「韓烈、お前が彼女をどれほど信じていようと、国への想いを捨てることなど、そう簡単にできるものではない」


「……玲はそんな女じゃない」

 韓烈の声は、いつになく低かった。


 岳承は小さく息を吐き、肩をすくめた。

「お前たちが共に過ごした一年を見てきた。しかし、俺は彼女の生まれ育った環境を知っている。彼女は、ただの王女じゃない。王家の一員として、常に国を背負ってきた。燕王や兄への忠誠心も深い。それが覆される方が、むしろ奇跡だろう」


「……」


「お前が思う以上に、母国というものは、簡単に捨てられないものだ」


 韓烈は、無言のまま拳を握りしめた。


 玲が——本当に裏切ったのか?

 そんなはずはない。

 何かがおかしい。


 何かが、裏で動いている。

 韓烈の胸の奥に、燃えるような怒りが込み上げてきた。


 この状況を仕組んだ何者かに対する怒り。

 そして、彼女が今、何かしらの危機に晒されているのではないかという焦燥。


「岳承、お前に前線の指揮を任せる」


 韓烈は低く、しかし確固たる決意を込めて言い放った。


「韓烈、お前……」


 岳承は驚いたように眉をひそめたが、韓烈の表情を見て、すぐにそれ以上の言葉を飲み込んだ。


 韓烈の目には、もはや迷いがなかった。


「趙王には、私が直ちに燕の情勢を探ると伝えろ」


 短く書簡をしたためると、それを伝令に託した。


 次の瞬間、韓烈は鋭く指示を飛ばす。


「最精鋭の騎馬隊を十数騎、ただちに選抜しろ。すぐに出発する」


「お前、自ら行くつもりか?」


「他に誰がいる?」


 韓烈は淡々と答えたが、その声音の奥には、強烈な意志が渦巻いていた。


 玲の真意を確かめずに、何が将軍だ。

 誰よりも玲を知っているのは、自分だ。

 他の誰でもない。


 この手で玲の姿を見て、直接言葉を交わさなければならない。


 もし本当に玲が自ら燕に戻ったのなら——その理由を確かめる。

 もし、誰かが玲を操り、無理矢理この状況を作り出したのなら——その者を、決して許さない。


 そして何より——


 玲が苦しんでいるのなら、俺が救い出す。


 韓烈は、馬を駆り、烈風の如く燕の都へと向かった。



 ◇



 馬の蹄が乾いた石畳を打ち鳴らし、夜の帳が下りかけた燕の都へと韓烈は踏み込んだ。


 街は思った以上に静かだった。

 戦の兆しが近づいているはずなのに、民衆の間には動揺の色もなく、市場も酒場も、普段通りの賑わいを見せている。


 ——何かがおかしい。

 韓烈は馬を降り、人目を避けるようにして宿屋へと足を運んだ。


 異国の武人が目立つのは避けたかったが、ここまで来た以上、情報が必要だった。

 燕の情勢、王宮の動き、そして——玲の行方。


 韓烈は、酒を一杯頼みながら、周囲の会話に耳を澄ませた。

 すると、酒に酔った商人がぼそりと漏らした言葉が耳に入った。


「……最近、妙に王宮が静かだと思わないか?」

「確かに。燕王はずっと病に伏せているらしいが、正式な発表は何もない。だが、どうも丞相の魏宣ぎせんが実権を握っているようだ」

「王子はどうした?」

「戦だ。東胡との国境で戦に出ている。戻れるはずがない」


 韓烈の眉がわずかに動いた。

 ——王が病に倒れ、王子が戦場にいる。そして、今の燕の実権は魏宣という丞相が握っている。


 それが何を意味するのかは明白だった。

 玲は、王の庇護を受けられない。

 王子の帰還も望めない。


 そして魏宣——

 趙を敵とし、戦を望む過激派の筆頭が、今や燕の国政を掌握している。

 韓烈は拳を握り締めた。

 玲は今、魏宣の手の中にある。


 ——拷問されているかもしれない。最悪の場合、すでに……。

 その考えを振り払うように、酒杯を置いた。


「……王宮に行く」

 韓烈は立ち上がった。


 宣戦布告を受けた敵国の将軍が、単身で敵国の王宮を訪れるなど——

 前代未聞の暴挙だった。


 だが、迷いはなかった。

 玲を助けるためなら、この命など惜しくはない。


 韓烈は、冷えた夜風の中へと足を踏み出し、燕王宮の巨大な城門を目指して歩き出した。



 ◇



 燕王宮は混乱していた。

 趙国の大将軍・韓烈が、たった一人で乗り込んできたのだ。


 兵士たちは剣を手にしながらも、誰一人として襲い掛かろうとはしなかった。

 魏の魏成が、一瞬で討ち取られたことは、燕国にも伝わっていた。


 不用意に動けば、一瞬で首が飛ぶ——

 そう本能的に理解した王宮の護衛たちは、韓烈の行く手を遮ることができなかった。


 ◇


 魏宣は、余裕の笑みを浮かべていた。

 ——ふん、愚か者が……。


 韓烈と玲、二人揃ってわざわざ自分の掌の中へと転がり込んできたのだ。

 魏宣は、目の前の状況を自分に都合よく解釈する男だった。


 韓烈は単身でここへ来た——ならば、彼を捕らえれば莫大な身代金を要求できる。

 趙王が交渉に応じなければ、この場で処刑して、趙軍の士気を挫いてやればいい。

 どちらに転んでも、魏宣にとっては悪くない展開だ。


 ◇


 王宮の大広間へと足を踏み入れた韓烈は、静かに周囲を見渡した。


 豪奢な絨毯が敷かれた大理石の床、重厚な柱、そして天井から吊るされた金の燭台——

 そのすべてが、まるで王権の象徴のように輝いていた。


 しかし、肝心の王座には、燕王ではなく魏宣が座している。


 ——やはり、この男が全てを掌握しているか。

 韓烈の瞳が、静かに鋭さを増す。


 魏宣はゆったりとした仕草で手を広げ、皮肉げな笑みを浮かべながら言った。

「ほう……趙の戦神が、わざわざ敵国の王宮に乗り込んでくるとはな」

 魏宣は口元を歪ませた。

「何の用かと思えば——もしかして、王女に会いに来たのか?」


「玲はどこだ」

 韓烈の声は冷たく、静かに響いた。


 魏宣は肩をすくめ、のんびりとした口調で言う。

「王女なら、自室で過ごしているよ。何せ、彼女は燕の王女だ。この国に戻るのは当然のことだろう?」


「……嘘だ」


「嘘かどうか、確かめてみるか?」

 魏宣の笑みが、さらに深まる。


「だがな、韓烈。お前に王女を会わせる義理はない」


 玲が燕に戻ったのは間違いない。

 そして、玲が魏宣の手中にあることは、魏宣の態度を見れば明白だった。


「つまり、玲の居場所は知られたくないということか」


 玲の居場所を知らぬまま魏宣を討つのは得策ではない——

 だが、このままでは埒が明かない。


 韓烈は、わざとゆっくりと口を開いた。

「魏宣、お前は趙王に書簡を送ったな」


 魏宣の瞳がわずかに細められる。

「ふむ、そうだな」

「同盟は破棄されたと、そう書かれていた」

「その通りだ。趙と燕の盟約は終わった。つまり、もはや趙と燕は敵同士ということになる」


 韓烈の唇に、冷たい笑みが浮かぶ。

「ならば——」


 その瞬間、彼の体が弾けるように動いた。

「ここでお前を討てば、この戦争は趙の勝利というわけだ」



 ◇



 魏宣の笑みが消えた。


 韓烈の剣が一閃する。


 魏宣は、慌てて身を引いた。

「な、何を——李承(りしょう)! 早く応戦しろ!」


 魏宣の叫びと同時に、王の間の奥に控えていた男が前へと出る。

 ——李承だった。


 刃と刃が交差するたびに、鋭い火花が散る。

 韓烈と李承は、互いに一歩も引かず、剣を激しく打ち合わせた。

 王の間に響く金属音——まるで雷鳴のように重く、空気を震わせる。

 二人の間に吹き荒れる闘気は、周囲の兵たちすら息をのませるほどだった。


 韓烈の剣は、鋭く、重い。

 一撃ごとに圧倒的な破壊力を秘め、相手を斬り伏せるための剛剣だった。


 対する李承の剣は、柔らかくしなやかで、流れる水のように変幻自在。

 防ぎ、受け流し、時に鋭く突く——まるで静かに佇む湖の水面に、不意に風が吹き荒れるような鋭さがあった。


 韓烈が踏み込む。

 李承が身を翻しながら、刃を滑らせる。

 その一撃を、韓烈はすかさず受け止める。


「……ほう」

 韓烈の唇がわずかに歪んだ。

「これほどの剣を使うとは、侮っていたな」


「貴様こそ……」

 李承の額に汗が滲む。

「名のある将と聞いていたが、なるほど……戦神と呼ばれるだけはある」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、再び剣閃が舞った。

 李承が鋭い突きを放つ。

 韓烈はそれを半身を逸らして回避し、間合いを詰める。

 しかし、李承はすぐさま体勢を立て直し、流れるように剣を振るう。


 ——互角だった。


 韓烈の剛剣と、李承の柔剣。

 力の均衡が崩れないまま、戦いは続いた。


 だが——

 ほんのわずか、李承の目が揺らいだ。

 韓烈は、その一瞬の迷いを見逃さなかった。


「……王女を助けられるか?」

 小さく囁くように言った李承の声が、刃の交錯の隙間に紛れた。

 李承の剣が、わずかに鈍る。


「……お前は……」

 迷いを感じた瞬間、韓烈の剣が容赦なく振り下ろされた。

 李承は寸前でそれを受け止めるが、わずかに後退する。


 そのわずかな隙をついて、韓烈が李承の懐に入り込んだ。

「玲を愛している。彼女のためなら、すべてを捨てられる」

 短く、確かに韓烈はそう告げた。


 李承は、かすかに目を伏せる。

 そして——

「王女は、地下牢にいる」

 その言葉と同時に、李承は剣を払う動作に紛れて、そっと鍵を韓烈の懐へと滑り込ませた。


 その刹那——

「ぐ……っ!」

 李承の体が、韓烈の剣によって深く斬られた。


 紅い鮮血が、床に散る。

 李承はその場に崩れ落ちた。


 ——彼は、わざと斬られたのだ。

 それに気づいたのは、韓烈だけだった。


 李承の唇が、わずかに動いた。

「……頼んだ……ぞ……」

 そう言い残し、李承は床に伏した。



 ◇



「李承が……負けただと……?」


 魏宣の顔から血の気が引いていく。

 信じられないものを見たというように、瞳を大きく見開き、愕然とした表情で韓烈を見つめていた。


 燕国屈指の剣士である李承が、まさか韓烈に敗れるとは——

 李承は魏宣にとって、どんな状況でも己の命を守ってくれる最強の盾であるはずだった。


 その盾が、あまりにもあっさりと崩れ去った。

 魏宣の喉が、ひくりと震えた。

「ま、待て……話し合おう」

 魏宣は狼狽し、椅子から身を乗り出した。


 今にも逃げ出したいが、それはできない。

 燕国の王宮には今、韓烈という怪物がいる。


 しかも、戦神と恐れられる韓烈は、たった一人でここに乗り込んできたのではない。

 王宮の入り口を固めている韓烈の精鋭たちは、すでに魏宣の兵を制圧し、静かに主の命令を待っていた。


 魏宣の背筋に冷たい汗が流れる。

「韓烈将軍……!  我々は敵対する必要などない! そうだ、和平だ!  燕と趙は……」

 韓烈は、その言葉を聞いても微動だにしなかった。


「連れて行け」

 冷淡な一言。


 韓烈の部下たちが即座に動いた。

「待て! 話し合いを——」

 魏宣が悲鳴のような声を上げた瞬間、兵たちが魏宣の腕をねじ上げ、床に押し伏せた。


「くそっ……! 離せ! 私は燕の丞相だぞ!」

 魏宣は必死に抵抗するが、韓烈の兵にとって、彼の力はあまりにも無力だった。

 ずるずると引きずられながら、魏宣は最後の抵抗のように叫ぶ。

「くそ!わしはこんなところで終わらんぞ!!」



 ◇



 韓烈は、王宮の奥深く、闇に沈む地下牢へと駆けた。

 魏宣の命令を受けた牢番たちは、すでに制圧されている。

 しかし、この重く冷たい空間には、今なお絶望の空気が満ちていた。


 玲がここにいる——

 韓烈の胸が、ひどくざわめいた。

 階段を降りるたびに、湿った空気が肌にまとわりつき、朽ちた藁と鉄錆の臭いが鼻をつく。


 長い廊下の奥——

 韓烈は歩みを速め、鉄格子の前に立った。

 暗闇に沈んだ牢の奥で、かすかな気配が動く。


「……玲」

 その声に、か細い吐息が応じた。


 ゆっくりと、鉄格子の奥から玲の姿が現れる。

 髪は乱れ、頬にはうっすらと痣ができていた。

 だが——その瞳だけは、決して曇っていなかった。


「韓烈……さま……?」

 まるで幻を見ているかのように、私は呆然と韓烈を見つめた。


「遅くなった」

 韓烈は、鍵を取り出し、牢の錠を外した。

 重たい鉄の扉が軋む音を立てながら開く。


 その瞬間、涙が溢れ出した。

「ごめんなさい……私、失敗しました……」

 震える声だった。


「趙と燕の戦を止めるどころか、逆に事態を悪化させてしまった……」

 私はすすり泣く。


 韓烈は、一歩踏み出した。

 玲が後悔と罪悪感に押し潰されそうになっているのが分かった。


「ごめんなさい……あなたにも、趙にも、迷惑をかけてしまった……」

 玲は肩を震わせながら、韓烈の胸に飛び込んだ。

 韓烈は、その華奢な体をしっかりと抱きしめる。


 彼女の体温を感じた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが解けていくのを感じた。

 ——本当に、無事でよかった。


「……俺も、謝らなければならない」

 韓烈の低い声が、耳元に響く。


 私は、小さく瞬きをした。

「玲……お前の言葉を、疑ってしまった」

「——え?」

「燕王からの書簡を受け取った時、一瞬……お前が、本当に寝返ったのではないかと思った」


「だけど、俺は自分の目で確かめたかった。だから、こうしてここに来た」

 韓烈は私の肩をそっと掴み、顔を覗き込む。


「——信じている」

 私の頬を、韓烈の指が優しく撫でた。


「もう、大丈夫だ」

 目から、また涙が溢れた。


「……本当に?」

「ああ」

 その一言で、私はようやく安堵し、微笑んだ。


 韓烈の腕の中で、私は震えながらも、ようやく全てを受け入れることができた。

 この人が迎えに来てくれた——


 それが、どんな言葉よりも確かな救いだった。

 韓烈は玲の手を取り、ゆっくりと牢の外へと導いた。


「……行こう」

 韓烈の手をしっかりと握り返し、頷いた。






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