表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第8幕 囚われた玲

 私は、燕の首都へと馬を進めていた。

 馬の蹄が硬い大地を打つたび、胸の奥に冷えた緊張が広がる。


 ——燕へ戻るのは、1年ぶりだ。

 幼い頃から、燕王の娘として育てられた宮廷の景色が、ぼんやりと脳裏をかすめる。


 あの頃の自分は、ただ王の意のままに動く人形だった。

 けれど今は違う。今の私は、趙国の正式な使者として、この国に足を踏み入れようとしている。


 旅路の中、一日に一度、韓烈へ鳩を飛ばした。

「私は無事です」

「道中は順調です」

「あと三日で燕の都へ着きます」


 短い文ではあったが、その報せが韓烈に届くたび、彼の胸の奥には、言い知れぬ安堵が広がった。


 玲が燕に向かったその日から、韓烈は国境の前線へと向かい、白陵の軍勢と対峙していた。

 趙軍は、韓烈の指揮のもと、守りを固めながら、じわじわと前線を押し返していた。


「白陵は焦っている」

 副官の岳承が、低くつぶやく。


 韓烈は鋭い眼差しで戦況を見据えながら、静かにうなずいた。

「やつの狙いは、一気にこちらの陣形を崩すことだ。だが、それに乗るわけにはいかない」


 韓烈は徹底的に守りに徹し、無駄な消耗を避けながら、敵を翻弄していた。

 趙軍の動きに焦れた白陵は、次第に無理な攻めを強いられていた。


 その間にも、玲からの鳩が届くたび、韓烈の心はわずかに安堵する。

(無事でいろ。……必ず生きて帰れ。)



 ◇



 燕の都まで、あと少し。

 私たちは、都の端にある静かな寺院で、王に送った使者と落ち合う約束をしていた。


 西の空には、紅い夕陽がゆっくりと沈みかけている。

「時間通りのはずですが……」

 護衛の一人が辺りを見回す。


 寺院の鐘の音が遠く響く。

 鳥が夕陽を背に飛び交い、風が乾いた土をさらっていく。


 私は、眉をひそめた。

(遅い……何かあったの?)

 燕王に宛てた密書を持たせた使者が、ここに現れない。

 それは、玲にとって最悪の兆候だった。

 すでに日は落ち、辺りは暗闇に包まれ始めていた。


「玲様、ここを離れた方が——」


 護衛が言いかけたその瞬間——

 背後から、冷たい手が玲の手首を掴んだ。

 同時に、鋭い痛みが首筋を襲う。


 ——何かを刺された。

 視界が、ぐらりと揺れる。

 地面が歪み、足元が崩れ落ちるような感覚。


「……っ!」

 声にならない悲鳴を漏らした身体が、ふっと力を失い、崩れ落ちた。


 遠くで、護衛たちの叫び声が聞こえる。

 けれど、その声もすぐに、闇の中に溶けて消えていった。


 ——視界が、闇に沈んでいく。

 最後に見たのは、竹林の隙間から覗く、か細い月だった。

 そして、私は静かに、意識を失った。



 ◇



 頭の奥で鈍い痛みが響く。


 重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、天井の装飾がぼんやりと視界に映った。

 見慣れた、豪奢な彫刻——これは燕王宮の王の間の天井だった。


「……っ!」

 勢いよく身を起こそうとしたが、身体に力が入らない。


 ——毒か、もしくは気絶させられる何かを打たれたのだろう。

 呼吸を整えながら、周囲を見回す。


 壁には見慣れた燕王の紋章が刻まれていたが、そこに立ち並ぶ者たちの顔ぶれは、記憶にあるものとは違っていた。


 そして——

 王座に座っていたのは、父王ではなかった。


「目が覚めたようだな」

 冷たい声が響いた。


 ゆっくりと視線を上げる。

 そこにいたのは、燕国の丞相・魏宣だった。


 鋭い鷹のような眼光を持つ男。

 中肉中背ながらも、政治の世界を生き抜いてきた貫禄を纏っている。

 彼は、燕の過激派文官の筆頭であり、玲の父や兄が推し進めてきた平和路線を激しく批判していた男だった。


「……なぜ、あなたがそこに……」

 渇いた唇を舐めながら、震える声で問いかけた。

「父はどうしたのです?」


 魏宣は、ふてぶてしい笑みを浮かべながら、手にした杯を軽く傾けた。

「父君は体調を崩されて、伏せっておられるよ」


 玲の背筋に冷たいものが走る。

「そんな……」


 ——嘘だ。

 父は確かに年老いてはいたが、病に伏せるほど衰えてはいなかったはず。

 では、魏宣は何をしたのか。


 玲は、強く拳を握りしめながら、さらに問う。

「兄は……兄はどこですか!?」


 魏宣は、少し退屈そうに肩をすくめた。

「お兄様は今、戦場にいらっしゃる。最近は東胡との攻防が激しくてな。しばらく宮廷には戻れぬだろう」


 玲の手が震えた。

 兄が東胡との戦に出ている——つまり、ここにはいない。

 父は病と称して宮廷の実権を奪われている。


 そうか、そういうことか。

 魏宣は、王を事実上の傀儡とし、今や国の実権を完全に握っているのだ。



 ◇



 魏宣は、玲の沈黙を楽しむように、杯の酒を口に含んだ。

「まあ、お前にとっては幸運だったな。まさかこの宮廷に舞い戻ってくるとはな。おかげで、私の計画も大きく進むというものだ」


 私の眉がぴくりと動く。

 魏宣は、わざとゆっくりとした口調で続けた。

「燕は趙との戦争に入る」


 玲の目が大きく見開かれる。


「燕はもともと中原に覇を唱える大国。だが近年、趙が台頭し、我が国の影響力が揺らぎつつある」

「今のうちに趙を叩き、燕の力を列国に示すのだ」


 私の頭の中で、一気に思考が駆け巡った。


 魏宣は、燕王の許可を得ず、独断で戦を進めようとしている——

 いや、もしかすると、既に戦の準備は整えられ、彼の手によって進められているのかもしれない。


 私は、震える拳を強く握りしめた。

「やめてください!」

「燕と趙が戦えば、どれだけの血が流れるか分かっているのですか!?」


 魏宣は、私の必死の訴えを鼻で笑った。

「戦争になれば、血が流れるのは当然だ」

「だが、燕は勝つ」


 私は、鋭い眼差しで魏宣を睨んだ。

「——燕は、趙には勝てません」

 魏宣の笑みがぴたりと止まる。


 私は確信をもった目で訴えた。


 私は、趙の軍事力も、燕の軍事力も、その戦術も、戦場の兵の動きも熟知している。

 燕が趙に全面戦争を仕掛けたとして、勝ち目はない。


 趙には韓烈がいる——

 それだけで、燕の戦局は決して楽観できるものではない。


 じっと魏宣を見つめたまま、ゆっくりと訴えた。

「このままでは、燕は滅びます。お願いです、考えを改めてください」

 

 魏宣の目が、冷たい光を帯びる。


 その瞬間——

 パァンッ!!

 鋭い音が響いた。


 玲の顔が、強く横に弾かれる。

 鋭い痛みとともに、頬が熱を持つ。


 魏宣は、手を振り下ろした姿勢のまま、忌々しげに私を見下ろしていた。

「思い通りにならぬ女だ」


 私は、頬を押さえながらも、目を逸らさなかった。

 魏宣の顔に、冷ややかな怒りが浮かぶ。


「いいだろう。ならば、少し考える時間をやる」

 魏宣は、手をひらりと振る。

「こいつを地下牢に繋いでおけ」



 ◇



 魏宣の冷酷な命令が下された瞬間、腕を乱暴に掴む手があった。

 その力強い手に、私は抵抗しようとした——だが、次の瞬間、その手の主を見て、息を呑んだ。


「李承……?」

 かつて、燕王に忠誠を誓い、兄を補佐していた重臣。

 王宮に仕える家臣たちの中でも、李承はとりわけ忠義に厚い人物だったはずだ。


 なぜ——彼が、魏宣の命に従っている?

 私は、信じられない思いで李承を見上げた。


 しかし、彼の目はかつての温かさを失い、ただ冷え冷えとした光を宿していた。

「行きますよ」


 私の問いを封じるように、李承は強く腕を引いた。

「待って……!」

 必死に抵抗し、李承の顔を見据えた。


「なぜ、あなたが魏宣の側についているの?」

 李承は答えない。

 信じられない思いで李承を見つめ続けた。


 彼は、父王や兄の側近だったはずだ。

 穏健派であった兄を支え、常に燕国の未来を考えていたはず。


 それなのに——なぜ?

「父はどうなったの……?」

 震える声で問う私に、李承は何も答えなかった。

 ただ、強く腕を引き、暗い地下への階段を降りていく。


 冷たい石の壁が並ぶ地下牢。

 灯りは薄暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。


 鉄格子の前で足を止められた。

「ここに入ってください」


 李承の言葉は冷たい。

 私は、彼を見上げたまま、じっとその目を探る。

「李承……あなたは、父を見捨てたの?」


 一瞬だけ、李承の眉が動いた。

「……」


 しかし、彼は何も答えなかった。

 胸の奥に、鋭い痛みが走る。


 幼い頃、李承は私に優しく接してくれていた。

 私の初恋の人。

 まるで家族のように、彼を信頼していたのに——


「あなたが魏宣に従う理由を教えてほしい」

 私の声は、静かに震えていた。


 李承は、しばし沈黙した。

 そして、ほんの少しだけ目を伏せると、短く答えた。

「……今は話せません」

 玲は息を呑んだ。


「……父と兄を、見捨てるの?」

 静かな問いかけに、李承の手がわずかに動いた。

 目の前で、鉄格子の扉が音を立てて閉じられる。


「李承!」


 鉄格子に駆け寄り、必死に彼を呼び止めた。

 しかし、李承は振り向かず、冷たい足音を響かせながら牢を後にする。

 私は、呆然とその背中を見送ることしかできなかった。


 静寂が、体を包む。

 暗く、冷たい牢獄の中。

 滴る水の音だけが、かすかに響いている。


 私は、ゆっくりと拳を握った。


 失敗したのだ。


 戦争を止めることも、父を助けることもできなかった。


 地下牢に繋ぎ止められた私は、悔しいほど非力だった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ