第1幕 作られし仮面と秘めたる刃
この作品は、フィクションです。
実在する国名などは出てきますが、史実には全く基づいておらず、人物・出来事は全て架空のものです。
中華戦国時代の末期――
列国はそれぞれの覇権をかけて争い、各国の内部でも権力闘争が絶えなかった。強国がさらに勢力を拡大する中で、燕国は衰退の一途を辿っていた。かつては知将を輩出し、外交と戦略によって列国の間で一定の地位を築いていた国。
しかし今は、魏や秦、そして隣国の趙といった強国に囲まれ、列国の中でも最も弱い国の一つと見なされている。
燕王の治世の下、国の内では「戦を避け、国を守るべき」とする穏健派と、「強き燕を取り戻すべき」と主張する過激派が対立し、政治の均衡は崩れかけていた。
その混沌の中に、私はいた。
燕国の宮廷――
絢爛たる装飾に彩られた広大な空間。
列国からの使者や貴族、官僚たちが集い、華やかさの中に政治の思惑が渦巻く場所。
しかし、そこはただの檻にすぎなかった。
燕王の娘、蕭玲。
宮廷では「国の至宝」と称され、数多くの貴族や官僚たちの視線を集めてきた。
漆黒の長い髪は絹のように滑らかで、陽の光を浴びると柔らかに光る。白磁のような肌には瑕一つなく、しなやかな体つきは女性らしくありながら、内に秘めた強さを感じさせた。深い琥珀色の瞳はどこか神秘的な印象を与え、多くの男たちは、微笑み一つで心を奪われると言う。
彼らが求めるのは「美しき王女」であり、「一人の人間」としての存在ではない。虚しさを感じつつも、役割としての「王女」を演じ続けてきた。
自らの容姿を利用しなければ、意志が国政に届くことはないと理解していた。だからこそ、自らを武器とし、それを戦場に立つ剣のように使うことを選んだ。華やかに笑い、慎ましくふるまい、貴族たちの懐に入り込む。そして、彼らをひとり、またひとりと取り込んでいく。
◇
心から尊敬し、誇りを持てるのは、剣と知略だ。
剣術の師・李承は、幼い頃から剣を教えてくれた唯一の存在だった。
彼は、まさに絵に描いたような美丈夫であった。背は高く、鍛え抜かれた体は無駄な肉の一切ない引き締まった筋肉に覆われている。その肩幅の広さと厚い胸板は、戦場でも頼れる男の証でありながら、しなやかさを併せ持ち、まるで鋼で作られた狼のように俊敏さを感じさせた。彼の瞳は深い墨色をしており、いつも冷静で揺るがぬ意志を感じさせた。彼は決して無駄な言葉を口にせず、的確な指導と鋭い洞察力で私を鍛え続けた。
彼に淡い恋心を抱いていた。
訓練の合間に、彼が滲ませるわずかな微笑み。私が成功した時、無言のまま僅かに頷くその仕草。彼の背を追いかけ、彼の声に耳を傾けるだけで、胸が高鳴った。
剣を交わすたびに、煌めく汗が眩しく、射抜かれるような鋭い視線に釘付けになる。
そんな雑念に気づいたのか、李承は剣を軽く構え、攻撃を受け止めながら静かに言った。
「玲、お前の剣筋は美しい。だが、余計な感情が刃にのれば、それは隙となる」
歯を食いしばる。何度挑んでも、彼の剣には届かない。
「強くなりたい」
それが、幼い頃からの願いだった。男たちに媚びることが役割ならば、それを覆すための力がほしかった。
李承は、意志を知ることはなかった。だが、剣術を極めようとひたむきに向き合う私を、誰よりも真剣に鍛えてくれた。容赦のない指導も、厳しい言葉も、すべては成長を願ってのものだった。彼の目の前では、ただの王女ではなく、一人の剣士として扱われた。そのことが、何よりも嬉しかった。
剣を振るうたび、心は自由になれたのだ。
もうひとつ、ひと知れず打ち込んでいたこと——それは戦略や政治思想の学びだった。
宮廷の書庫に忍び込み、歴史書や兵法書を読みふけることが、唯一の楽しみだった。
「知略は武力と同じく、人を導く力となる」
書物をめくるたびに、自らが戦場に立つ姿を思い描いた。強大な敵を前に、兵を巧みに動かし、計略を巡らせ、予測不能な一手で戦局を覆す。その瞬間の高揚感、勝利の歓喜、そしてすべてを見通す冷静な視線——それらを想像することが何よりの喜びだった。
宮廷の書庫に忍び込み、夜が更けるのも忘れ、ろうそくの灯りの下で兵法書を読みふける時間は、魂が自由でいられるひとときだった。紙の上に描かれた過去の戦の記録に目を走らせるたびに、心は鼓動を速めた。もし自分がこの戦の指揮を執っていたら——そう考えるだけで、胸の奥が熱くなった。
剣と知略。
この二つを極めれば、ただの飾りではなくなる。
──そう信じていた。
◇
しかし、それはあくまで隠された時間だった。
宮廷では、私はただの王女だった。豪奢な衣装を身にまとい、宴の席では詩を詠み、楽を奏でる。称賛する男たちは後を絶たなかったが、彼らが見ているのは外見だけだ。
「玲、今夜も実に美しいな」
腹違いの兄・蕭瑾が酒を手に微笑む。その目は深い執着と支配欲に満ちていた。
彼は幼い頃から、私に対して異様な愛情を向けてきた。まだ幼かった頃、彼はよく私にいじわるをし、少しでも他の者と親しげにすると機嫌を損ねた。そして、成長するにつれ、その関心はより粘着質なものへと変わっていった。
ある日、書庫で書物を読み耽っていると、扉が開き、兄が静かに近づいてきた。
「またそんな難しい本を読んでいるのか。お前に必要なのは兵法ではなく、美しさを磨くことだろう?」
完璧な微笑みを兄に向け、本を閉じる。
「兄上、私も教養を深めなければ、あなたの名を輝かせる機会を逸してしまいます」
それは、兄のご機嫌を取るための、精一杯の演技だった。彼の機嫌を損ねれば、無駄に長い小言を聞かされるか、あるいはもっと厄介な戯れに付き合わされることになる。
彼は私の頬にそっと手を伸ばした。
「お前は私の誇りだ、玲。誰にも渡したくない」
彼の手が頬に触れた瞬間、背筋に冷たいものが走る。肌に絡みつくような感触に、無意識に逃れようとする衝動を抑え込む。振り払えば、余計に絡め取られることを知っている。
静かに微笑みながら、何事もなかったように身を引いた。
◇
宴の席では、多くの男たちが群がり、口々に世辞の言葉を投げかけてきた。
「蕭玲殿は、まさに月のごときお美しさですな」
「この世に、これほどの才色兼備な方がいようとは」
彼らの視線は、外見だけを評価するものだ。中には露骨に全身を舐め回すように眺める者や、遠くから穴が空くほど凝視する者もいた。その視線に不快感を覚え、すぐにでもその場を離れたい衝動に駆られたが、役目を果たすため、完璧な微笑みを浮かべ続けた。
現在の燕国は派閥争いが激化し、内政も不安定である。父と兄が権力を維持するためには、敵を作るよりも味方を増やすことが不可欠だった。
宴の場で琵琶を披露し、自室へ戻るため廊下を歩いていると、暗がりから現れた男性とぶつかった。
「おっと。これはこれは」
宰相の魏宣だった。彼は父や兄に次ぐ権力者であり、過激派の筆頭でもある。
魏宣は腰に手を回し、右手首を強く掴んだ。
「痛っ」
思わず声を上げると、魏宣はいやらしく微笑んだ。酒精の匂いが鼻をつき、思わず顔をそむける。疲れで上気した頬を見て、何を勘違いしたのか、劣情を込めた目で見下してくる。
「近くで見ると、より一層そそりますな」
彼の顔が近づき、舌先が鎖骨を伝った。
「!!!!」
身動きできずにいると、魏宣の後ろから力強い声が響いた。
「魏宣殿」
兄だった。
腰の剣に手を添え、冷ややかな視線を魏宣に向ける。
「はは、ちょっと琵琶の感想をお伝えしていただけですよ。それではこれで失敬」
執拗な腕から解放され、ふっと力が抜ける。
「大丈夫か?」
「ええ。ありがとうございます」
部屋まで送るという兄に、一人になりたいと告げ、自室に戻る。
自分の非力さに嫌気が差す。
もっと、強くなりたい。
誰にもあんな態度を取らせず、
国も、この身も、守れる存在になりたい。
こみ上げる悔しさに、枕がひそかに濡れた。
夜は、静かに、そして容赦なく更けてゆく。
◇
夜明け前、宮廷の空気は張り詰めていた。
昨夜、燕国の国境沿いに築かれた堅牢な城が、一夜にして落ちたのだ。
この城は、趙国の侵攻に耐えられるよう、特に厳重に作られた城だった。何重にも張り巡らされた堀。配置された兵士も先鋭揃いだった。
そんな城が落とされた。
信じがたいことに、わずか一晩で。
「韓烈——」
その名が、宮廷内で静かに囁かれていた。
趙国の若き将軍。戦場において敗北を知らぬ男。彼の名を聞くだけで兵士たちが震え上がるほど、苛烈で容赦のない戦術を振るうことで知られている。
彼が、わずか数千の精鋭兵を率い、瞬く間に城を陥落させた。
この知らせは、燕国宮廷に激震をもたらした。これまでの均衡が音を立てて崩れ始めたのを、誰もが肌で感じていた。
宮廷では、さまざまな意見が飛び交った。
「すぐに第一将軍に軍を率いさせ、城を奪還すべきだ」
「いや、韓烈の意図が分からない限り軍を動かすべきではない。相手の出方を見るのが先だ」
「いま燕が弱みを見せれば、趙はさらに強気に出る。隣国に助けを求め、圧力をかけるべきだ」
重臣たちの議論は尽きなかった。
しかし、驚くべきことに、韓烈はその後の1ヶ月間、一切城を動かなかった。
その静けさは、不気味なほどだった。焦りを募らせる燕国の宮廷。だが、それが狙いであるかのように、趙軍は動かなかった。
そして、ある日——。
使者がやってきた。
趙国は、この勝利に乗じて燕国へ無茶な要求を突きつけてきたのだ。
その内容はまだ明らかにされていない。しかし、王と重臣たちは沈黙を貫いたまま、言葉を発しない。これは、到底受け入れられぬほどの屈辱的な条件なのか、それとも——。
「蕭玲様、王が御前にお呼びです」
侍女の声が静かに響く。
背筋を伸ばし、深く息を吸った。
嫌な予感がする。王が私を呼ぶ時、それは私自身のためではない。国のための決定事項——つまり、私の未来を決めるものだ。
長い回廊を抜け、大広間へと向かう。その間、心を無にする。どんな話が待っていようとも、決して揺るがないように。
◇
大広間に足を踏み入れた途端、冷たい空気が肌を刺した。整然と並ぶ柱、精巧に彫り込まれた龍の紋様、天井には黄金の装飾が輝いている。それはまるでこの場が神聖なものであると錯覚させるが、どこか檻のようにも見える。
父——燕王は高座に座っていた。彼の表情は常に変わらず、鋭い瞳がこちらを見据えていた。その隣には、兄・蕭瑾が座っている。
蕭瑾の表情は、普段私に向ける余裕たっぷりの嗜虐的な笑みではない。僅かに眉間に寄る皺、握られた拳の力の入り方。そのすべてが、彼が今、何かに強く苛立っていることを物語っていた。
「蕭玲、座れ」
父の声は冷ややかで、感情のかけらもない。私は指示に従い、低い椅子に座る。広間には重々しい沈黙が落ちる。
「お前の婚姻について話す」
心臓が跳ねた。嫌な予感はしていたが、いざ言葉にされると身体が固まる。
——父が、私を手放す?
内政に利用し、どんな有力者からの求婚があっても、決して手放そうとはしなかった。それが今、こうして決定事項として語られる。
これはつまり、それほどの事態が起こったということ——。
「お前は趙国の将軍、韓烈へ嫁ぐことが決まった」
その名を聞いた瞬間、冷たい汗が背筋を伝う。韓烈——戦神と恐れられる男。冷酷無比な将軍。その名を聞けば、敵兵は震え、味方すら畏怖する。
「燕と趙の同盟の証として、お前を差し出す」
淡々とした口調に、胸の奥が締めつけられる。私にとっては人生を決定する話であるのに、父である燕王にとっては、駒の一つを盤上に置くのと変わらないのだろう。
「婚姻は、三ヶ月後に趙国の都で執り行われる。それまでに花嫁としての心得を身につけよ」
下を向いて唇を噛んだ。反論しようにも、この場では何も言えないことがわかっていた。
「お前の美しさは、趙国の宮廷でも評判になるだろう。これで燕と趙の関係もしばらくは落ち着くであろう」
兄・蕭瑾はその顔に引きつった笑みをたたえていた。その笑みは、嬉しくないことを無理に飲み込もうとするような、不快げな表情にも見えた。
まるで、長年愛玩してきた宝物を手放すことを強制された子供のようなその視線の先には、蕭玲がいた。
「……ありがたき幸せにございます」
そう答えるしかなかった。
広間を出て、廊下を歩く。耳に残る父の冷たい声、兄の歪んだ視線。今聞いたことを頭では理解していても、まだ心が追いつかない。
燕での公務の引き継ぎ、婚礼の準備の段取り……そんな実務的なことを考えようとするたびに、ふと手元を見下ろしてしまう。
——剣術の練習は、しばらくできそうにない。
いや、それどころか、趙国に嫁いでしまえば二度と剣を握ることさえ許されないかもしれない。まさか王女が剣術をたしなむことを、将軍が許すはずがない。
そのことが、目の前を暗くするような気がした。まるで、自分の存在が、この瞬間から色を失っていくように——。
ふとその時、低く押し殺した声が耳に入ってきた。趙国の使者の謁見に同席した者だ。
「燕国は、蕭玲様に救われました。本当にありがとうございます。将軍はこう仰せでした……『蕭玲を差し出さねば、城十個を一月で落とす』と」
足が止まった。心臓が一瞬、動きを忘れたように固まる。
——城十個。
あり得ない。そのような大きなものと私一人を天秤にかけるなんて。
私はただの王女なのに、なぜ——?
他国で、なんと噂されていたかは知っていた。
「月宮の仙女」、「百合の姫」、「天女の化身」——。
どれも私の外見を例えたものだった。
それは、私自身の価値ではなく、ただの装飾品としての評価。
政略結婚が当たり前のこの時代、美しい王女が外交の駒として扱われるのは珍しくもない。
だが、韓烈ほどの男が、ただその理由だけで私一人を求めるとは考えにくい。
戦国の世において、王族の娘が国を繋ぐための「贄」となることは常だ。
国と国との和平のため、または同盟強化のため、多くの王女が遠く異国の地へ嫁がされた。
彼女たちの婚姻は、戦争を回避するための取引であり、時には一族の存続をかけた最後の切り札となる。
それは理解している。
しかし、今回の婚姻には、何かが引っかかる。
燕と趙の同盟——。
もし、この婚姻が本当に国と国との和平のためのものなら、もっと穏やかに交渉が進められるはず。
それなのに、韓烈は「蕭玲を差し出さねば、城十個を一月で落とす」と迫った。
この強硬な姿勢は、単なる政略結婚の範疇を超えている。
彼は何を企んでいるのか?
ただの戦利品として私を手に入れようとしているのか、それとも——。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます❤︎
ブックマークしていただけますと、泣いて喜びます!




