水責めの刑
「今年の生贄はこの子よ!」
校舎の外れに位置する水入れ前のプールは、その周辺に立ち並ぶ銀杏と生い茂る草にさえぎられて、校庭の喧騒から切り離されている。校庭で午後の部活動に励む生徒たちの声がはるか遠くから聞こえた。校舎側とは時間の進み方が違うような錯覚がある。
C中学校水泳部では、6月のプール水入れ前に、ある儀式を行うのが慣例となっていた。水入れは2年生が行う。その際に新入部員から一人生贄を選んで、水責めの刑なるものを行う。
「生意気で鼻に着くのよね。小学校の頃に水泳教室に通ってたんだって? 少しぐらい泳ぎが上手だからって、調子に乗っちゃって。部活の厳しさを思い知らせてやらなきゃね。」
ジャージ姿の京子は8レーンあるスタート台の真ん中の1つに足を組んで座り、茶髪のショートヘアーをなで上げながら、プールの真ん中を見下ろしていた。プールサイドで腕を組んで立つ、同じく2年の同僚、茜もポニーテールの黒髪を揺らしながら、賛同した。
「そうそう、かわいそうだけど、伝統だから守らないとね。あんたみたいな、先輩から目を付けられた奴が犠牲になるって、相場が決まっているのよ。皐月もなんか言ってやりなよ。去年はつらい思いしたんだからさ。」
皐月はプールサイドの隅の金網を背にして、膝を組んで縮こまっていた。去年は自分が生贄にされた。同学年の部員の中では大人しかったため、断り切れないと踏んだのか、多少、陰気なところが癪に障ったのか、先輩たちは彼女を抜擢した。あのときの苦しみと恐怖を思い出すと、これから行われようとする儀式を直視できなかった。プールの真ん中から叫び声が聞こえた。
「やめてぇー! 先輩、お願いです! 水、止めてください!」
一人だけ水着に着替えさせられた、新入部員の雅子が、プールの中央で足掻いている。水かさは次第に増していき、今はプールの半分ほどの水位、しかし、彼女は上を向いて顔を出すのが精いっぱいという様子。
それもそのはず。彼女の左手には手錠がはめられ、手錠のもう一端がプール底に固定されているのだ。だれが何のために作ったのか、プールの底に何カ所か、凹みがありその中に横棒が通してあった。そこに紐を結べるようになっており、手錠だってかけられる。
だから、彼女が起き上がろうとしても、手錠の鎖の長さの制限で、プールの際までは顔を出せない。したがって、プールが満水になれば、彼女の体は完全に水面下だ。
「溺れちゃいますよ、お願い、勘弁してください!」
プールの水は、雅子が顔を出せるすれすれのところで止まった。京子はスマホのカメラをプール中央に向けながら言った。
「じゃあ、こっちに向かってこう叫ぶのよ『わたし、本当は泳げないんです。』って。」
雅子が言い返した。
「もう、こんな愚劣なことやめましょうよ!」
京子は目を見開き、口元に笑みを浮かべて言った。
「わかった。じゃあ、水出して。」
水を入れる役割は、2年生の男性部員の洋平と将司が担った。洋平が言った。
「おい、ほどほどにしとけよ。」
洋平は、そう言いながらも、水道の蛇口をひねった。
雅子は必死に顔の向きを変えながら、口を水面の上に出そうとする。水が口に入ったのか、せき込みながらも必死に足掻いている。京子は容赦なく急かした。
「はやく、言いなよ。よっぽどプライド高いのね。はやく、はやくぅ・・・」
洋平の隣に付き添っていた、将司が言った。
「おい、洋平、止めろ。これ以上はやばい。」
雅子は顔の表面をかろうじて水面上に出している状態で、静止している。京子がしびれを切らした。
「黙ってないで、なんか言えよ!じゃあ、一晩こうしてな。私たちは筋トレ行こう。」
雅子は立ち上がって出ていった。2年生部員たちは5人全員がプールサイドを後にした。
*
それから、30分ほど経過した頃だった。校庭でランニングしていた皐月は、顔に当たる水滴に気付いて、空を見上げた。
「ねぇ、雨降ってきたみたい。あっ、プールいかないと!」
2年生部員5人はプールに駆け出した。
皐月は異変に気付いた。目を見開いて上を向く雅子の口元は水につかっていた。
「ねぇ、彼女、息してないんじゃない!」
洋平がジャージを脱ぐとプールに飛び込み、手錠を外して、動かなくなった雅子を担いでプールサイドに仰向けに寝かせた。急いで心臓マッサージをした。
「だめだ。手遅れだ。」
そのとき、背後から声がした。
「おい、何してんだ。」
振り返ると、水泳部顧問の小田先生が顔を青くして立っていた。
「お前らまさか。まだ、こんなことしていたのか?」
京子が弁解した。
「ここまでするつもりなかったの。これは事故なのよ。」
茜が便乗した。
「そうよ。事故。彼女が、足を滑らせて、プールに転落、一人でおぼれたのよ。」
小田先生が言った。
「さすがに無理があるだろう。本当は何があったんだ。」
京子が目を背けながら言った。
「例の儀式をやっていたら、トラブルで・・・。でも、正直に言ったら、私たちみんな人殺しだよ。みんなも嫌だよね。先生だってただじゃすまないよ。先月、子供が生まれたばかりだったよね。」
茜が賛同した。
「そう、そもそも死なせるつもりなんてなかったし、私たちは伝統に従っただけ。雨のせいよ。だから事故なの。私たちは何も悪くない。」
小田先生は苦悶の表情を浮かべた。
「とりあえず、救急車を呼ぼう。彼女は一人で練習中におぼれた。俺たちが見つけたときにはすでに息がなかった。それでいいか。」
*
それから1週間後、雅子の容態についての情報を耳にした。彼女はかろうじて命をとりとめたものの、もはや意識を取り戻す可能性は低いという。
彼らの目論見通り、指導を無視して単独で練習していた最中の事故として片づけられた。小田先生は監督不届きとして注意を受け、半年間謹慎となった。さらに、プールを使うときは二人以上で、というルールが徹底された。
万が一、雅子が息を取り戻して本当のことをしゃべったら、という不安も頭を過ったが、6人で口裏を合わせて押し切ればよい、と彼らは考えた。
*
それから1年後の6月。あの事故のショックで、水責めの刑の伝統など部員たちの頭から消えていた。
プールの水入れの時期が迫っていたある日、3年生になった皐月たちの前に2年生のある女性部員からスポーツドリンクの差し入れがあった。筋トレの疲れと相まって次第に気が遠くなるのを感じた。
*
背中が冷やされる気配を感じて、皐月は目を覚ました。濃い青空に橙色の雲が浮いている。夕暮れの時間帯のようだ。すぐさま異変に気付いて、上半身を起こした。水を吸い込んだジャージが体にまとわりつく。プールの底にいるようだ。水が20センチほどたまっている。左手が動かせないことに気付いた。手錠がかけられている。
手錠から伸びる鎖はプール底のひっかけ穴を通って、別の一人の左手にかけられた手錠につながっていた。
これはいったい・・・
水責めの刑。ただの水責めではない。プールが満水になったときに、二人のどちらかが、立ち上がれば、立ち上がったほうは顔を出せる。当然もう一人は、完全に水中だ。そうなるように手錠の鎖の長さを絶妙に調整してあるようだ。
向こう側に同様の状態に置かれている二組が見えた。京子と茜、洋平と将司がそれぞれつながれている。似たような体形と力の二人同氏は、力尽きるまで争った結果、どちらかが生き残る、そんなことを想像させた。しかし、皐月とつながれているのは小田先生だ。華奢な女性である皐月が筋肉質の小田に適うはずがない。
嘘でしょう・・・なんて残酷な・・・、皐月は涙目になって、小田を見つめた。
水かさが少しずつ、増していく。京子の叫び声が聞こえた。
「誰がこんなことを!出てきなさい!」
その時、プールサイドにから声がした。
「こんばんは、久しぶりね。」
雅子の声だ。声の方に目を向けると、夕日を逆光にして立つ黒い影が見えた。
「これが今年の水責めの刑よ。文字通り、私の人生を台無しにした奴らに刑罰を下すの。」
洋平が言った。
「雅子なのか? 俺たちが悪かったよ。だからもうこんなことやめよう。」
影が言った。
「何を都合がいいこと言ってんの。こんな楽しいことやらずに死ねるわけないもんね。それにね、先輩たちの絆を見せてもらいたいなって。どっちかは助かるんだよ。せっかくチャンスをあげたんだから、がんばってよ。ふふふ。」
水面は見る見る上昇し、座り込んでいる6人の首のところまできた。立ち上がるほかなくなったが、二人同時に立ち上がると、それぞれが中腰になるぐらいが限界であった。茜の声が聞こえた。
「ねぇ、命までは取らないよね。あなたのあれは事故だったのよ。」
影が言った。
「ふざけんな!何が事故だ。雨が降る前に私はおぼれてたんだよ!いい加減に覚悟を決めろ、雌豚ども!」
中腰の姿勢の彼らの口元まで水面が迫り、影にかまっているどころではなくなった。
京子がもがいて必死に顔を出そうとする。
「あたし、死にたくないよ!」
茜も抵抗する。
「あたしだって死にたくないよ!」
京子が茜の頭を押さえつける。
「あんた、沈んで、お願い!」
茜が顔を出す。
「ふざけんな!」
暴れる二人の周辺に、水しぶきが上がっている。
影が甲高い笑い声を発した。
「くくくくく、いいね、いいね、ほんと期待を裏切らない。」
洋平が言った。
「おい、お前ら、冷静になれよ。争ったら、奴の思うとツボだぞ。」
そうはいってもどうしようもないだろう。死への恐怖で何も考えられなくなっている。しかも、相手を犠牲にしないと、自分が死ぬしかないのだ。人は殺せない、かといって、自分がみすみす死を選ぶほどの犠牲心もない。
皐月の目の前で、小田は苦悶の表情を浮かべて言った。
「ごめん、先生、今死ぬわけにはいかないんだよ。家族を路頭に迷わすわけにはいかない。」
皐月は目に涙を浮かべて言った。
「先生、嘘でしょう・・・」
影が言った。
「そっちは、ちょっと不公平だったかしら。皐月先輩はただの傍観者だしね、ハンデよ。これ使いな。」
皐月のほうに投げられたのはナイフだった。水中に沈んでいくナイフを右手でつかみ、小田先生のほうをにらんだ。
*
「醜い女たちの争いにも決着をつけてもらいましょう。早い者勝ちよ。」
京子と茜のところにも影からナイフが投げられた。茜がいち早く反応し、ナイフを取ろうと、水中にもぐった。そこを京子が体重をかけて押さえつけた。
「このまま、くたばれ!」
京子は茜の顔面に膝蹴りを何度も食らわせて息の根を止めた。と思った刹那、水中が赤に染まるのが見えた。
「ぎゃーーー。」
京子は水中に沈んでいった。二人が水面から消えたその地点に静寂が訪れた。
影は男性2人のほうへもナイフを投げ入れた。
「あんたたちもこれ使いなよ。わかってるよね。相手を倒さないと自分が死んちゃうんだよ。」
洋平が叫んだ。
「くそー!だれがお前の思い通りになんか・・・」
しかし、将司はナイフを握って、洋平の喉元に突き付けた。
「洋平、ごめん。」
「おい、おせ。」
洋平はナイフを素手でつかみ、奪い取ると、影に向かって投げ返した。影は笑った。
「へぇーー、そうくるかぁ、面白いねぇ。」
洋平は将司の肩をつかみ、耳元でささやいた。
「将司、気を確かに持て。いいか、これ以上水面が上がると、二人同時に顔を出すのは困難になる。だから今言っておく。一人が顔を出して、20秒数えたらまた潜る。それを繰り返せば、しばらくは耐えられる。」
「しかし、いつまで持つか・・・」
「いまはそうやって時間を稼ぐしかない。」
「わかった。」
*
「うああああ!」
皐月は叫びながらナイフを小田の胸に突き立てたが、感触はなかった。腕を難なくつかまれ、ナイフを奪われてしまった。小田はナイフを水の中で握っている。
水中に赤い血が広がるのが見えた。絶望とともに気が遠のく中、影の声が聞こえた。
「ああ、つまんないの・・・。皐月先輩、ほんとどんくさいね。残念。さてと、あとは、男性陣か、いつまでもつかなぁ・・・」
*
皐月が目を覚ますと、星のない暗い夜空が見えた。体を起こすと、プールサイドに灯す明かりが目に飛び込んできて、その眩しさに目を細めた。聞き覚えのある複数の声が耳に入った。
「これは一体・・・」
「なにが起こったんだ・・・」
「警察、いや、まず救急車を呼べ・・・」
惨劇の記憶が蘇った。自分はかろうじて命を取り留めたのだろうか。
目が光に慣れてくると、異様な光景が浮かび上がってきた。
水の抜かれたプール、その底に倒れている二人の女性、へたり込んで荒い息をしている二人の男性、それぞれの手首を繋ぐ手錠。プールサイドには、ナイフを胸に刺されて倒れている一人の女性。金網に寄りかかって動かない男性、その左手の手首より先がなく、そこから赤い液体が流れ続けていた。
皐月は手首のない男性のところへ行った。
「先生、なんてことを・・・」
「先生、人殺しになっちゃったな。ぜんぶ、俺のせい、自業自得だよ。」
「そんなことありません。私の命を救ってくれたんですよね・・・」
*
翌日、皐月は水泳部を辞めた。その夏、プールに入ることはなかった。
事件は気の狂った女生徒の単独犯として扱われ、小田先生は正統防衛により殺人罪を免れた。水責めの刑の風習については明かされることなく、部員たちの記憶に仕舞われたまままである。