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新興宗教インタビュー:とまりぎ会

作者: 相浦アキラ

 ベッドタウンの外れ。瓦屋根の家々が軒を連ね、色あせた空色の車道を挟む。どこか古風で閑静な住宅街。ゆっくりと見渡しながら歩いていると、その施設が姿を現す。施設は長屋の和風建築で、田舎の小さな公民館と見紛うほど素朴な作り。「宗教法人 とまりぎ会」とのアルミ看板が立っていなければ公民館だと思って素通りしてしまっていた事だろう。様式としては神道系とも仏教系とも取れぬニュートラルな雰囲気であるが、止まり木のシンボルが建築の随所に意匠されているあたりは教会を思わせる。……果たしてとまりぎ会とはどのような宗教なのだろうか。入口の引き戸には「ご自由にお入りください」との標識がぶら下がっているので遠慮なく玄関に入り込む。薄暗く短い廊下を抜けて観音扉を開くと……そこにはガラス戸から自然光をふんだんに取り込んだ殺風景なフローリングが広がっていた。部屋の奥で止まり木の祭壇を座禅で見守る中年男性の影。彼が教祖だろうか。他に信者の姿も無かったので話を聞いてみるとやはり彼がとまりぎ会の教祖を務めているという。ごま塩の顎髭を湛え紺の外套を羽織った彼は思ったより気さくで人当たりが良く、インタビューを申し込んでみたところ、小説投稿サイトへの公開を含めて快諾して頂けた。


相浦:本日はお忙しい中ありがとうございます。よろしくお願いします。


近藤氏:とまりぎ会会長の近藤です。よろしくお願い致します。


相浦:早速ですが、どういった経緯でとまりぎ会を設立されたのでしょうか。


近藤氏:少し昔話になってしまいますが。


相浦:どうぞどうぞ。


近藤氏:私は裕福な家に生まれましてね。大企業の御曹司という奴です。子供の頃から甘やかされて育ち、同級生におもちゃを自慢したり配ったりしては悦に浸っていましたね。我ながら嫌味な子供でしたよ。大学に入ってからはもっと酷くなって、ろくに勉強もせず毎晩毎夜悪友と酒を飲み交わすばかりの毎日を送っておりました。……お恥ずかしい限りです。ただ一つ言い訳させて頂くと、この消費社会の中で私が積極的に経済を回していく事で社会全体が潤う筈だという思惑もあったのですが。まあそれはともかく私は自堕落な日々を送っておりました。しかし、ある事件をきっかけに私の人生は大きく変わる事になったのです。


相浦:事件ですか。


近藤氏:事件と言っても、人から見ればちょっとした事でしょうが……私にとっては人生が変わる重大事でした。というのも、喫煙所で友人たちが私の悪口を言い合っているのを耳にしてしまったのです。随分と楽しそうに話していましたね。金を何度も無心してきたKは私の事を「七光りの馬鹿坊ちゃん」と罵っていましたし、会計の時私がブラックカードを取り出す度に「よっ! 日本一の太っ腹」だのなんだの囃し立てていたSは「金だけのクズ野郎」と私を嘲っていました。……衝撃でしたね。あの時は。浅薄な私は金さえ出せば無条件で慕ってもらえると、金で人の心を買えると無意識に思い込んでいたのですが現実は違ったのです。金の絡まない人間関係というものを知らなかった私は誰も彼も信用できなくなって、友人全てと縁を切りました。あの時は本当に辛くて、暗闇の中で上下も分からず手探りで何とか立っているような気分でしたよ。


相浦:それはお辛かったでしょうねえ。


近藤氏:それから音楽活動をやって金の絡まない名声を追い求めたり、快楽に没頭して現実から逃げようとしたりもしましたが結局虚しくなって長続きせず、引きこもって本ばかり読むようになりました。手当たり次第にいろんな本を読みましたね。そうしているうちに考えるようになったのです。人が本質的に孤独だとしたら、何のために生き死んでいくのか。そういう事を考えていく中で、ぼんやりと精神というか道徳というのがテーマとして浮かんできました。切っ掛けとしては現代社会に対する反感というのもあったと思います。ある自己啓発本に「自分の周囲は変えやすいが、自分の遠くは変えられない。政治や法律など自分の遠くは無視して家族や友人などの自分の周囲に関心を持とう」なんて事が書いてあって、その一文には特別反感を覚えましたね。


相浦:どのような反感を覚えたのですか?


近藤氏:身の回りだけ考えて自分の関与できな部分は社会の流れに従属するというのは、全く資本主義的で現代的で実利的で、一見正しい事のように思えます。しかしこの思考にはあまりにも道徳が欠如している。社会はどうせ変えられないから服属するというなら……例えば国家権力に大量殺人を強制された時、何の疑念も抱かずに言われたとおりに殺人に加担するのが正しいという事になってしまいます。そして権力に歯向かって拒絶する行為はただの無駄な足掻きという事になるでしょう。現に道徳を喪失した今の日本はそういう社会になってしまっているのです。


相浦:現代の日本で殺人を強制される事はまず無いと思いますが。


近藤氏:今のところ殺人を強制される事は無いでしょうが、似たような事は起きていますよね。例のアイドルグループの件もそうでしょう。どうしてここまで大きなことが起こっているのに今までテレビでロクに報道されなかったのでしょうか。簡単な話です。テレビがそんな事をしても得にならないどころか、自分が損するからです。テレビ局にも責任が行くのは目に見えていますからね。そりゃあ隠したいでしょうよ。権力に歯向かって道徳を貫いて大損するより、権力に媚びへつらってダラダラと甘い汁を吸っていた方がずっと楽で得でコスパが良いですからね。道徳が無い社会というのはそういう事なのです。そういう社会に私達は生きているのです。


相浦:なるほど。あなたはこの社会に道徳を取り戻そうとなさったのですね。


近藤氏:当時はそこまで考えていませんでしたが、私に何かできる事がないかというのは探っていましたね。親の脛齧りながらではありますが。そんな時に出会ったのが新約聖書でした。切っ掛けはただの気まぐれというか、どんなもんだろうという程度ですが、実際に読んでみて、先述の事件よりずっと大きな衝撃を受けました。


相浦:どのあたりが衝撃でしたか?


近藤氏:イエスの道徳は地に足がついていて、とことんまで実践的なんですね。神のもとに分け隔てなく接し、当時忌み嫌われていた職業の人も差別しなかった。既存の価値観や権威に囚われることなく、時には反抗してまで道徳を貫く姿もまっこと美しい。そして何より、自らの命まで捧げるという……これ以上ない究極の道徳実践ではありませんか。そんなイエスの生き様に触れて私は気付いたのです。私も彼のように生きたいと。金の為でも名誉の為でも快楽の為でもなく、道徳の為にこそ生き、死んでいきたいと。この身を道徳に捧ぐ事が叶わなくとも、せめてこの人生を捧げたい。私はそう心から願うようになったのです。しかし、それでも私はキリスト教に帰依する事は出来ませんでした。


相浦:どうしてですか?


近藤氏:イエスが偉大な人物である事には賛同できるのですが、聖書の全てに賛同できるかというと……。これは持論ですが、キリスト教という宗教はイエスが天に召された時点で解散すべき類の宗教ではなかったかと私は思うのです。私はイエスは人間として生き、人間として死んでいったと思っていますし、そう思いたいのです。つまり、イエスの人間としての生そのものがキリスト教だったのではないかという事です。イエスを神格化するあまり道徳を硬直化、形式化させてしまっては、それこそイエスに反する事になるのではないかと。生きた道徳の実践こそがイエスの本質の筈です。……それにしたって、本当に哀しい事です。欧州は同じキリスト教同士で散々戦争をやってきて、21世紀になっても未だにやっているのですから。イエスが知ったら、一体どれほど嘆かれるでしょうか。


相浦:ほかの宗教も試されましたか?


近藤氏:もちろんです。仏教を始めとして、古今東西の宗教を手あたり次第に調べました。実際に宗教家の方に話を聞くこともありました。しかし、どうにも腑に落ちないというか。光り輝く断片に巡り合う事はありましたが、宗教と言う大きな枠組みで見てしまうとどうしても引っかかって躓いてしまう。宗教というのは人が何を為すべきかを指し示してくれるいわば道徳の止まり木のような側面があると思うのですが、思考を続けている限りどうしても一つの道徳に安住する事はできません。例えば大量虐殺にしても、環境保護という視点からは善行と取る事もできます。もちろん直感的には反対したいですが、論理的に完全否定できるかと言うと難しいのです。そうなると道徳も何もないただのニヒリズムになって何も出来なくなってしまいます。かといって道徳を絶対化し固定化してしまえば、道徳は生命を失い形式的なものとなってしまう。


相浦:ジレンマという奴ですね。


近藤氏:そうなんです。どうやったらこのジレンマを解消できるのか。ニヒリズムから脱却し、なおかつ生きた道徳を実践できるのか。私は考えに考えました。そして、やっと悟ったのです。道徳を求めて思考し活動し続ける営みこそが、道徳と言えるのではないか……と。思考の果てに、私はやっと止まり木に止まる事ができたのです。


相浦:しかし、止まり木に止まって思考を止めると言う事は、あなたが批判していた道徳の絶対化になってしまうのではありませんか?


近藤氏:そうですね。やはり私は道徳に向かって思考を続けなければならない。思考が止まれば、道徳は命を失ってしまいますから。しかし、道徳を求めて思考し活動し続ける私のこの営みは、道徳と言えるのではないでしょうか。


相浦:……ああ、なるほど。思考がそこに回帰していくのですね。


近藤氏:まさに回帰です。思考を大空に羽ばたかせながらも、新鮮な驚きを伴って止まり木に回帰して羽を休め、やがてまた飛び立っていくのです。頭の中に一本の止まり木を描く事で、思考している状態と道徳を信じる状態を同時に矛盾なく成立させる事ができるのです。


相浦:だからとまりぎ会なのですね。


近藤氏:そうです。とまりぎ会自体には特定の教義はありませんし、献金や信者獲得が目的でもありません。他の宗教に移籍される方がいても引き留める事はありません。私がとまりぎ会を設立したのは、迷える人々の思考と実践道徳をお手伝いする為にこそなのです。具体的にはボランティア活動や植林活動、様々な宗教の概要を解説する講習会や思考を手助けする個人面談等を行っています。もちろんノルマは無く、押し掛け勧誘の類は行っておりません。


相浦:最後に一つお伺いしたいのですが。


近藤氏:何でしょうか。


相浦:失礼を承知で申し上げます。例えばの話ですけど……今から私があなたを監禁して徹底的に拷問にかければ、あなたに「道徳なんて必要ない」と言わせることも可能だと思うのです。そう考えるといかに偉大な思想も道徳も結局上辺だけなのではないかとニヒリズムに陥ってしまうのですが、あなたはどうお考えでしょうか。


近藤氏:確かに可能でしょうね。私にそう言わせる事は。なるべくは耐えたいですが、いつか私の心が折れる時も来るでしょう。しかし、仮に私が道徳を否定する時が来たとするなら、その時すでに私は死んでいるという事なのです。例え心臓が動いていて、脳や遺伝子が全く同じでも、心があったとしても、もうそれはこの「私」ではありません。道徳というのは存在と結びついて切っても切れない関係を構築しているからこそ道徳なのです。そうでなければ意味がありません。暴力で私を殺す事は出来ますが、私は死によって道徳を守る事が出来るのです。……もちろんこういった考えも大空を駆って見つけた一つの断片に過ぎず、絶対的に正しいとは言えませんが。


相浦:なるほど。


近藤氏:もしよかったらあなたも如何でしょうか。


相浦:え?


近藤氏:とまりぎ会に入会されませんか?


相浦:いえ、結構です。


近藤氏:そうですか。


相浦:では、本日はどうもありがとうございました。


近藤氏:ありがとうございました。




※このインタビューはフィクションです。

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