その1 黒い悪夢
後味の悪い夢を見て、眼が覚めた。
俺は暗闇の中で一人、大きな喪失感を抱えて佇んでいた。何かとても大切なものを失った。だが、その何かが思い出せない。
夢で聞いた言葉が、今も頭の中に残っている。「あの男を治療してはいけない!」
あの声には聞き覚えがあった。
俺が初めて愛した女、ライラ。高等部で同じ専攻を学ぶ中で知り合い、たちまち惚れた魔族の娘。優れた闇属性の治療士であり、患者の心に寄り添い、癒すことのできる稀有な力を持っていた。
あの声が、俺の前から消えた彼女を思い出させたのだろうか。
そうかもしれない。ライラは精神を病んで、他人との関りが難しくなってしまったのだ。
自分は真っ白で、俺は落ち着いた深い緑色だと言っていた。彼女によれば、闇属性は常に濃淡を周期的に変える鈍色で、光属性は眩しく輝く軽やかな山吹色なのだという。
患者の病変部位は黄色く脈動して見え、邪な意思は濃い赤でやってくるそうだ。
そして、俺に抱かれた喜びは、弾ける空の色だとも言っていた。
病状には波があると聞いていた。調子のよい時には、顔を見て少し話もできた。そうだ、今度の治療院の休みの日に、見舞いに行ってみようか。ライラは、ここから少し離れた魔族の山里の実家で、療養生活を送っていた。
◇ ◇ ◇
起きて顔を洗う。台所ではミルカが、揺れる尻尾も楽し気に、朝餉の用意をしていた。俺はそっと近寄り、後ろから優しく抱きしめる。毛皮をまとった体は、抱き心地がとても素敵だ。
「あらカズラ、起きたのね、お早う!」元気な声が返ってきた。
カレン母様と同じ里の獣人族。竜騎士を目指してサホロの学校に進学したが、すぐに勉強に飽きて、知り合いだった俺の家に住みついてしまった。
歳は俺より二つ三つ上で、背も俺より高い。カレン母様みたいな筋肉と造形美には及ばないが、それでも獣人族特有のしなやかで美しい体を持ち、優雅な動作を見せる女だ。
俺とライラの共通の友人でもあり、ライラを失って落ち込んでいた俺を見ていられないからと、むりやり同居を迫ってきた。押し掛け女房ってやつだ。
俺の治療師としての腕が確かで、生活力があるところに惚れたとか。案外と現実的なことを言う女でもある。
慰められ抱かれてみれば、もう俺はこの女の虜になってしまった。スベスベ、チクチクの抱き心地が素晴らしく、そしてライラとは違う情熱的な愛で俺を満たしてくれた。そして今では、治療院でも俺を助けて働いている。
薬士の技術は、俺の生みの母サナエ母様に師事して今も勉強中だ。四元素の生活魔法がそこそこ使えるので、簡単な治療には重宝している。だが本格的な回復魔法は、まあ俺の方が上手い。両親ともに人族の俺だが、ある程度の魔法が使えるのは、賢者であるオヤジの血のせいだな。
このオタルナイの治療院は、半年前に開業したばかりだ。
俺とミルカで引っ越してきたこの港町は、サホロの街から徒歩だと四日ほどかかる。オヤジたちが運営するサホロの治療院の分院としては、ここは三番目になる。
ちなみに分院第一号はカレン母様の故郷にあって、オヤジの二番弟子ヨシユキ先生が今から十数年前に開業したそうだから、俺がまだガキだった頃だ。ヨシユキ先生は獣人たちに溶け込み、尻尾が綺麗な奥さんを貰って、沢山の子供に恵まれて暮らしている。
そして分院の第二号は、弟のワタルが一年前にウスケシ市で開業していた。ここはサホロからずっと南にある海辺の街で、魔動機で飛んでも数時間かかる。
弟と言っても俺とは同い年、ワタルはクレア母様の長男だ。
聖母として名高いクレア母様の子だから、二十歳で既に賢者の域に達している。魔素量も俺なんかより断然多いし、治療士としてばかりか魔法剣士としても魔導士としても腕は確かな奴だ。
そのほかにも、技術連携している治療院はいくつかある。すべて、オヤジの生き物係の知識に支えられ、光属性と闇属性の両方の回復魔法が使える治療師を置いて、タローのボットで結ばれているのだ。
◇ ◇ ◇
さあて、朝飯が済めば開院の準備だ。今日は快晴で、窓から吹き込む海風が心地よい。治療院の入口には、もう数人の順番待ちの患者の列ができている。
今日も忙しくなりそうだ。台所で後片付けを終えたミルカが、白衣に着替えて治療院のドアを開け、患者を招き入れはじめた。
(続く)




