その1 実験船ソルマール1
「五次元座標の固定を完了しました。」ブリッジに、船の管理AI:ソルマールの人工音声が柔らかく響いた。
「指定位置に、超空間門球を開口しなさい。」オルが、指示を出す。
この実験船が浮かぶのは、母星の周回軌道。ここからこの恒星系を離れ、大きな渦状腕を三つ越えた先にある、短めの渦状腕。遥か8万光年ほどの場所に、ジローの住む太陽系が存在する。その太陽から11億kmほど離れた、巨大ガス惑星である木星と土星軌道のほぼ中間点に今、直径数メートルの漆黒の泡が出現した。
実験船の融合炉が、一瞬 稼働音を高めた。「門球を開口しました。」
「先方の恒星系との相対的位置を再確認しなさい。動揺はないかしら?」
「こちらからの観測では、安定しています。」
「じゃあ、ボットの投入を。」
「はい、観測ボットを射出、ボットは転移します。」
オルが見つめる観測装置の画面に、ポッと青い光点が灯る。
「観測ボットの、先方への到着を確認しました。ボットとの通信は良好です。」
ホウと、オルはため息を漏らした。ボットは瞬時に8万光年を飛び越えたのだ。
「そのボットから、改めて門球と恒星系内の位置関係を確認して。」
「開口の座標と、太陽、及び最寄りのガス惑星との距離を計測。門球は指定位置に正しく設営されています。」
「よろしい、では門球を直径1kmまで拡大しなさい。」
「はい、8秒を要します。5、4、3、2、1、拡大を完了しました。」
実験船の融合炉が、また少し稼働音を高めたのが判った。門球の拡大に、今 膨大なエネルギーが消費されたのだ。
「予定通りね。このまま一時間ほど、門球の安定性を観測しましょう。」
「了解しました。」
◇ ◇ ◇
栗色の髪に白い肌、茶色の目を持つオルは、制御・観測機器に向かっていた椅子をくるりと回すと、二人のクルーに笑いかけた。「ここまでは順調ね。」
浅黒い肌に黒髪碧眼の数学者ラダは、パシンと両手を合わせる。「これで、我が銀河系の向こう側と繋がったわけだ。あと一時間か、いよいよだな。」
「生き物係さんとの再会か、あいつ元気でいるのかな。」白い肌に金髪、ひときわ背の高いコリーンは、宇宙論と理論物理学を専攻している。
そして、今回のプロジェクト・リーダーを務めるオルは、応用物理学者であり重力工学と宇宙船の推進機構の専門家だった。
この三人は、今回が初めての試みとなる超空間転移:通称イオタ航法の実験船ソルマール1に志願したクルーだった。
学術探査船ゾラック16のクルーとして、超種族の助力を受けて難破を乗り越え、ジローの星から帰還して既に十年が過ぎようとしていた。
ジローの星:地球と、人類(人族、魔族、獣人族)の発見、竜族の存在、そして失われた魔人による魔素物理学の痕跡を母星に持ち帰った事は、大きな成果として評価を受けた。
そして、帰還した彼らを驚かせるものが、母星には待っていた。
彼らよりもかなり早くに帰還していた同型探査船ゾラック7が、母星文明を遥かに凌駕する人類文明との接触に成功し、新たな超光速航法を母星に持ち帰っていたのである。
それが、重力場位相幾何学により、任意に作り出した五次元泡を潜って移動する、超空間転移:イオタ航法だった。ちなみにこの名前は、九番目に発見された異星文明とその住人、イオタ星系人に由来している。
当時のゾラック艦が採用していた超光速航法は、母星文明の重力工学の粋と言えるリープ航法だった。融合炉から得られたエネルギーに脈動を与えて、精密にシンクロさせた連続ジャンプを行う。この航法で、宇宙船は数千光年を一跨ぎに出来るのだ。
しかし、この航法は、技術的には未成熟だった。
太陽風の吹き荒れる太陽圏内どころか、太陽の重力圏内からのジャンプができないからだ。
つまり自分たちの恒星から二光年ほど離れ、恒星の重力を振り払える場所まで抜け出たところで、ようやくリープ航法に移る事になる。
従って、恒星の重力圏を抜け出すまでに亜光速でも数年が必要だし、恒星系の重力井戸に降りていく場合には、星間物質の影響を避けるため更に速度を落とさねばならなかった。
深層睡眠を併用することで、クルーの肉体年齢の維持は可能であるにせよ、リープ航法探査船による宇宙旅行は母星の時間で十年余りを要するのだ。
ところが、この超空間転移:イオタ航法は、太陽圏内からの出発が可能であり、到着場所となる五次元球:門球も、太陽風や重力に影響されなかった。従って、長時間の飛行を克服するために、クルーに深層睡眠を強いる必要がないのだ。
もっともイオタ星系人からは、恒星に近い内惑星系に門球を置くことを、当面は禁じられていた。我が人類は、まだ信頼を得られていないのだ。
これには、オルも納得せざるを得ない。一歩間違えば、恒星系内に重大な擾乱を与えかねないことは、物理学者であるオルには痛いほど理解できるからだ。(続く)