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目に見える不和

 足が地面につくと同時に、身体を覆っていた水が徐々に水位を下げていく。水から解放されるとともに身体に重さが戻り、水を吸った着物が肩にのしかかった。


「ほら、ついたよ」

「……っ」


 しばらく息を止めていたせいで、呼吸がままならない。水を飲まずにすんだのは幸いだ。雇い主の前でみっともなく咽せるわけにはいかない。

 無礼をさらさないようにと息を吐き出し、丸まりそうな背筋をしゃんと伸ばす。するとようやく目の前の光景に意識をやることができた。


(ここが神の住み処……)


 おなつがこれまでに見たことも聞いたこともないような、荘厳な屋敷だった。今まで勤めてきた屋敷の令嬢、加代子の持っている絵巻ですら、ここまで大きな屋敷は描かれていない。まさに殿上人の住まいである。


 屋敷の入り口までは灰色の敷石が敷かれているが、着物の裾から垂れ落ちた水のせいで、おなつの足下だけが黒く染まる。澱んだ池に飛び込んだはずなのに、清流の水の匂いがした。


 おなつが落ち着いたのを見計らって、神が屋敷へと歩き出す。おなつもその後に続いた。草履も池で落としてしまったようで素足になってしまったが、敷石の表面はなめらかで具合がいい。植えられているのは松の木ばかりで、二人の足音だけが静寂に響く。


 ふと気になって振り返ると、そこには巨大な門があった。門は木製で、白い壁はよくよく見ると凹凸があり、扇を連ねたような模様になっていた。神の身長よりもずっと高いので、向こう側はどうなっているのか見当がつかない。そもそも、ここは地上にある場所なのだろうか。空にいたときは屋敷の外まで頭が回らなかった。


 屋敷の入り口には人影があった。古めかしい衣裳に身を包んだ、老年の男性と二人の少女。


(……人、なのかな)


 神の後ろで、ひっそりと目をこらす。神のような人間離れした容姿ではないが、風貌にどことなく違和感があった。白地に紺色の柄の入った着物の子供二人は、おなつと目が合うと怯んだように老人の後ろに隠れてしまった。驚かせてしまったようだ。

 黄土色の着物を着た恰幅のよい老人が神に対して深々と頭を下げ、それからその背後にいたおなつに目を向けた。そして無言のまま、物問いたげに神の顔を見る。


「ああ、新しく屋敷に迎える娘だよ。……ん? 格好?」


 そこでおなつは、神の着物が乾いていることにようやく気がついた。

 池に飛びこんだのに、いや、あんなに雨に打たれていたのに、神の衣服も毛髪もまるで湿っていない。そうなると濡れ鼠の自分がひどく情けなくなって、おなつは大きな身体を小さく縮めた。なにせ、足袋すら履いていないのだ。


「着替えたほうがいいね。ハヤ、連れていっておあげ」


 神が声をかけると、二人の少女が老人の背中からおずおずと顔を出す。その顔はどちらもそっくり瓜二つで、同じようにおなつを見上げていた。二人とも身を寄せ合ったままで、前に出ようとはしない。


「緊張しているようだ。すまないね」

「い、いえ……」


 彼女たちもどこか人でない雰囲気を纏っている。老人と同じく、神の眷属なのだろう。


「私が案内してあげたいところだけど、客人を待たせていてね。さて」


 仕切り直すように神はおなつの肩に手を置いた。


「ハヤ、この娘はこれからお前たちと一緒に働く女中だ。このままの恰好だと、人は体調を崩してしまう。連れていってくれるね」


 有無を言わさない口調に、二人が顔を見合わせる。その様子からすると、ハヤというのはどちらかの名前を指し示すわけではないようだ。女中を務めていたおなつが知らない単語なので、役職名でもないだろう。

 神の圧力に負け、二人が観念した顔で前に出てくる。そしておなつに目を配りながら、手を取り合って庭へと足を進めた。ついてこいということだろう。廊下を濡らす心配をしていたおなつは、ひそかに安堵の息をついた。


「では、失礼させていただきます」

「ああ、のちほど。なに、そんなに時間はかからないよ」


 そう言って神は白魚のような指を振った。


 二人は外廊下に沿って歩いていたので、追いかけるのは容易だった。ときおり振り返っては身をすくめるので、おなつはあまり距離を詰めないようにと気を配る。彼女たちの正体が人間でないのならば、その反応には心当たりがあった。


 おなつは生まれつき動物と相性が悪い。

 犬には吠えられ猫には唸られ、鳥や魚には逃げられる。それだけならまだいいほうで、幼い頃、山菜摘みについていったら野犬に襲われて重傷を負った。そのときの傷は今も残っていて、嫁のもらい手はないだろうと両親を落胆させた。奉公に出ることになったのも、それが遠因だ。本田家だけは、難色を一切示さずにおなつを迎え入れてくれた。


(……もう二度と会えないだろうけど、伝承が本当なら)


 雨七日の神隠しの伝承では、娘を捧げた家には百年の栄華が約束されると謳われている。この場合の家というのが実家になるのか奉公先の家になるのかわからないけれど、当主は慈悲深いお人だ。おなつが身代わりになったとわかれば、きっと実家に謝礼金を出してくれるだろう。

 身代わりを買って出たときには紀代子のことで頭がいっぱいだったけれど、今思えばおなつにとっても悪くない状況である。となると、割を食っているのは神だけということになる。本来なら、美しくたおやかな紀代子を嫁として迎えいれるはずだったのだ。


 俯きがちに歩いていたら、ふと前を歩く足音が変わった。二人が廊下に上がったのだ。続いておなつも上がろうとしたものの、足下に目をやってからハッとした。汚れた足で床を踏むわけにはいかない。


(雨で濡れないように懐に入れてたけど……やっぱり濡れてる)


 池に飛びこむことになるとは思っていなかったから濡れても仕方ないが、汚さずにすんだのは僥倖だろう。背を向けて足袋を絞るおなつを、少女二人は無言で見つめていた。


「お待たせしました」


 振り返ると、少女たちはふすまの前で膝をついていた。そして、まったく同じ動きでふすまを横に引く。合図もないのに、同時に。


 思っていたよりもこじんまりとした部屋だった。家具はなにひとつ置かれていないし、畳は新品でい草の匂いが一気に漂った。

 少女たちが新入りの女中を案内しろと伝えられたのは今し方のことだから、使ってない部屋に連れてこられたのだろう。本来なら、奥方用に用意された部屋があったに違いない。


(でも、大部屋じゃなくて個室……。人間の使用人はほかにいないのかも)


 恐々と部屋に入ると、少女は押し入れから着替え一式を取り出した。ありがたいことに、手ぬぐいも一緒だ。

 しかし、安堵するおなつとは対照的に少女たちは顔色を変えた。道案内ならばある程度の距離が取れるが、服を渡すとなると肌が触れるくらい近づく必要がある。着物を取り出してからそのことに気付いたようで、二人は完全に硬直してしまった。


(そんなにいやなら畳に置いていいのだけど……)


 座っている状態ならば畳に置けただろうが、いきなり座るのは不自然だろう。おなつが先に座ればいいのだろうが、膝をついたら畳を濡らしてしまう。かといって、投げ渡してもらうわけにもいかないし、こちらからはどうしようもない。

 避けられている側のおなつがあれこれ考えているうちに、少女たちが一歩を踏み出した。腰が引けた様子を見せながらも、無表情を貫いて着替えを差し出す。


「ありがとうございます。……あっ」


 おなつに渡すやいなや、二人は脱兎のごとく部屋の隅へと逃げた。手と手を取り合って震えているので、まるでおなつが無体を働いたかのような有様である。通りがかっただれかに見られたら、あらぬ誤解は避けられない。


(やっぱり、怯えられてるよね……)


 動物ならともかく、小さな女の子に怖がられるのはいささか堪えた。加代子と同じくらいの年頃だから、なおさらに。しかしここで無理に距離を詰めようとしても意味はないと、おなつは痛むほど知っていた。


「その、もうけっこうですので、お戻りいただいても。あとで外にいらっしゃった方に声をかけますので」


 刺激しないよう、なるべく柔和な声でそう伝える。すると二人は、壁を背に、這うようにして入り口から出て行った。瞬くまに小さくなっていく足音に、おなつは肩を落とした。


(こんな調子でうまくやっていけるかしら……。ううん、やらなきゃ)


 馴染まないからやはり紀代子をと所望されたらそれまでだ。なんとしても、奉公を果たさねばならない。

 弱気になりそうな心を叱咤し、帯を解く。身体にまとわりついている肌襦袢が肌にへばりついて、とにかく気持ちが悪い。


(脱いだ服はどうしよう。畳には置けないけど、ほかに置く場所もないし……)


 意味もなく部屋のなかを見渡してから、おなつは押し入れに手をかけた。

 家人の許可なく物色するのは気が引けるが、畳を水浸しにしてしまうよりはマシだろう。思っていたとおり、押し入れには用意してもらったものと同じ手ぬぐいがまだ数枚残っていた。その手ぬぐいの上に濡れた服を置いて、手早く着替えを済ませる。


 着物の色は今までおなつが着ていた着物と同じ紺色だったが、肌触りがまるで違う。綿で織られているのだろうか。帯の色は深緑色で、少女たちの帯と同じ色だった。これが女中専用の着物なのかは、ほかの使用人に会ってみないとわからない。


(そういえば物音が全然聞こえないけど、近くに人はいないのかしら)


 髪の水気を念入りに絞りつつ、周囲の気配を窺う。

 この部屋に来るまでも人の気配は一切感じなかったが、この屋敷にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。人ならばそれ相応の使用人を雇わなければ維持できないだろうが、なにしろここは神の住み処だ。人の常識と照らし合わせたところで、無意味に違いない。


 濡れた服を手ぬぐいで包み、部屋を出る。廊下の右側から歩いてきたのだったと記憶を反芻し、履き替えた足袋で歩き始めた。


(……あ、物音が聞こえる。ちゃんと人いるんだ)


 だいぶ小さかったけれど、人が動いている音が確かに聞こえた。この辺りは使用人の寝部屋で、昼は無人になる区域なのかもしれない。そう考えたところで、おなつはぴたりと足を止めた。


(……昼?)


 どうしてもっと早く疑問に思わなかったのだろう。いつのまにか時刻が夜から昼に変わっていた。

 時間が驚くほど早く過ぎたのか、それとも現世とは違う時の流れをしているのか。今さらながら異なる世に来てしまったのだと、空を見上げて立ち尽くす。しかし空を流れる雲は、おなつのよく知る秋の薄雲だった。


 しばらくそうして空を眺めていたら、かすかに衣擦れの音が聞こえた。ハッとして首を動かすと、思っていたよりもずっと近くに人の姿があった。足音はまったく聞こえなかったのに、あと数歩で手が届く距離である。


(また子供? それも、金色の髪――)


 その子供――少年は、一言で言えば、異様であった。

 輝く金の髪を首元に垂らし、異国の赤い衣裳を身に纏い、身体が宙に浮いている。なるほど、足音がしなかったのは、そもそも歩いていなかったからのようだ。

 平素ならば大いに取り乱しただろうが、ここは神の住む屋敷であり、少年も人為らざる雰囲気を隠すことなく振りまいている。そもそも、この屋敷に来るのに空中を漂ってきたことを思い起こせば、いちいち驚くのも却って無礼というものだ。


 そう結論づけておなつは口を開こうとしたが、動き出すのは少年のほうが早かった。床に足を下ろして片膝をついた少年は、深く頭を下げておなつに従順を示した。


「お初にお目にかかります。水名椎(みなづち)様の社へようこそ、奥方様。私は水名椎様の食客にございます」


 声は思っていたよりも低かった。見た目通りの年齢でないことはその佇まいでわかる。しかし食客という言葉に聞き馴染みのないおなつは、恐る恐る少年に問いかけた。


「あの、食客とはどういう意味でしょう……?」

「失礼いたしました。居候のようなものだと思っていただければ結構です」


 恭しく彼は応える。しかし居候と聞いたおなつは、すぐさま少年の目前で平伏した。


「先に名乗らず、申し訳ございません! 私は奥方ではございません!」

「……あ?」


 すごみのある声に思わず顔を上げると、少年が麗しい顔を歪ませておなつを見下ろしていた。鬼神もかくやの形相に恐れをなすが、彼が怒るのも当然だ。居候ならば、おなつを連れてきた神と親しい間柄であり、女中に頭を下げるような身分ではないはずだ。装いからして、彼もきっと神の一柱。おなつが顔を見るのも無礼に当たる存在だっただろう。


「わ、私は奥方様の代わりでこちらで働かせていただくことになった、おなつと申します。な、名乗り遅れたこと、ひらにご容赦を……!」


 額を床にこすりつけて許しを乞うが、返答はない。それほどまでに怒らせてしまったのだろうか。このまま無礼者として追い出されてしまうのではと震えていたら、聞き馴染みのある声が背後から響いた。


「いったい何事かな、これは」


 神の声だ。食客の少年が無言だったのは、神が来るのを見越してのことだったらしい。


「何事か、か。それは我が聞きたいんだが」


 自身をウォーと呼びながら、少年は忌々しげにおなつを見下ろす。


「こんなものを招き入れるなんて、いったいどういうつもりなんだ?」


 吐き捨てるようなその言葉は、おなつの存在を完全に否定していた。



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