身代わり交渉
降り続く雨が沈黙を埋めていなかったら、意識はきっと遠のいていただろう。すべてが夢であってほしいと願ったところで、雨の匂いも男の微笑みも、なにも変わらない。
(この人が、神……)
狐狸妖怪の類でないことは一目瞭然だった。
その佇まいに見え透いた虚飾やあからさまな媚はなく、ただただあるがままの神々しさを備えた美があった。夜闇の中ですらそう感じるのだから、昼の光の下でなら目を焼かれていたかもしれない。にもかかわらず男は、目の前のおなつを見下すことはなく、暖かさすら感じさせる眼差しを向けてくる。だからこそおなつは、絶望を抱かずにはいられなかった。
此の神は、自らの要求がはねのけられることを、爪の先ほども案じていない。目の前の女中が逃げたり、声をあげて人を呼んだりするのを、一切気にかけていないのだ。それどころか、呼吸すらままならない女中が落ち着くのを待つ余裕さえある。そんな相手に、どう立ち向かえというのだろうか。こちらは満足に声を上げることすらできないというのに。
傘を持つ指は震えている。秋雨は容赦なくおなつの体温を奪っていく。それなのに雨に打たれている神は、顎や髪に水を滴らせながらも平然としている。人の身なら、とても耐えられないだろう。
短くも長い静寂を打ち破ったのは、おなつでも神でもなく、部外者の濁声だった。
「そこにいるのはだれだ!」
反射で体が動く。
屋敷から人の影が見えた。提灯の明かりがゆらゆらと揺れている。さきほどとは違う男衆のようだ。廊下の端に立っていて、今にもこちらにやってきそうだった。
「おや、ちょうどいい」
神の涼やかな声が耳朶を打つと同時に、おなつの体を縛っていた恐怖の鎖が外れた。
(このままだと紀代子様の元へ行ってしまう!)
男が神の侵入に気付けば、たちまち大騒ぎになって人が集まるだろう。人々が押し寄せ、神に矛を向けるだろう。そうなった場合、倒れ伏すのは人間のほうだ。
どちらかが行動を起こすよりも早くと、おなつは男に向けて叫んだ。
「女中のなつです! 庭の鯉に餌をやっておりました!」
「なつ? ああ、お前か!」
男衆の声から警戒の色が消えた。神の反応が気になるが、恐くて顔を向けられない。そもそも、一緒にいる男はだれかと言われたら、おなつには答えようがないのだ。
しかし、おなつの懸念が現実のものとなることはなかった。
「紛らわしい、なにもこんなときに餌などやらんでもいいだろう。さっさと部屋に戻れ、一人では危ないぞ!」
「え……」
予想していた問いがこなかったおなつは仰天する。
(神が、見えてない?)
人為らざる力で姿を消しているのだろうか。そう勘ぐりかけたおなつだが、後ろの神が小さく笑ったことで理由に思い至った。
今夜は庭の灯籠に明かりが灯されていない。顔も識別できない暗がりで男衆がなつの存在に気付けたのは、傘という目印があったからに違いない。そして、男衆と向き合っているおなつの背中から笑い声が聞こえたということは、神はちょうど真後ろに立っていることになる。傘が神の姿を遮っているのなら、この大雨のなか、男衆が存在に気付けないのも無理はない。
合点がいったおなつは、安堵の息を吐きそうになりながら言葉を整える。
「餌をやり終えたらすぐに戻ります。お気遣いありがとうございます!」
「なにかあったら呼ぶんだぞ!」
「はい!」
もう遅い。神はすでに降臨している。
提灯の明かりが見えなくなったところで振り返ると、神はさきほどと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。神の存在をないがしろにしてしまったが、気を悪くしてはいないらしい。
二人きりに戻ってしまったことでまたもや意識が遠のきそうになるが、惚けてはいられない。見張りを遠ざけたことで覚悟は決まったのだから。
「その顔は、道案内する顔ではないね」
おなつに神の顔がはっきりと見えているように、神もおなつの表情がわかるようだ。それでも楽しそうに笑う神に、おなつは唇を引き結んだ。
力で適わないのなら、言葉でどうにかするしかない。紀代子を諦めてもらうには、代わりになるものを差し出さなければならないだろう。そしておなつが差し出せるものなど、ひとつしかなかった。
「ぶしつけであるとは承知ですが、お願い申し上げたいことがございます。――どうか、私を代わりに連れ帰ってはいただけないでしょうか……!」
深く、深く頭を垂れる。震わせまいと思っていたのに語尾が揺れてしまった。
「私にお嬢様ほどの器量があるなどとは、口が裂けても言えません。ですが、私の命で、どうかご勘弁を……!」
使用人としてではなく、一人の人間として頭を下げる。
おなつにとって、本田家は光だった。
本田家にとってはおなつなど数いる使用人の一人にすぎないだろう。だが、ほかの使用人と分け隔てなく接してくれた彼らの優しさは、おなつの救いになっていた。嫁のもらい手もない傷物として送り出された身としては、居場所をくれた本田一家にはなんとしても報いねばならない。自らの命でお嬢様を救えるのならば、安いものだろう。
「命? それはどういう意味で言っているんだい?」
頭を下げているせいで、神の表情は確認できない。どんな感情がこめられた言葉なのかは、声音で判断するしかない。しかし声音に変化はなく、おなつはただ、ありのままに心根を語った。
「私の命を貴方様に捧げます。なんでもします。煮るなり焼くなり、ご随意に。ですからどうか、お嬢様だけはご勘弁いただきたいのです……!」
「……ふむ」
神の視線が全身を辿ったのが感覚でわかった。
供物にふさわしいか検分しているのだろうか。図体は大きいから、それなりに食いではあるはずだ。
「まず、顔を上げてもらえるだろうか。声が聞き取りづらい」
「っ、失礼しました!」
顔を跳ね上げると神と目が合った。今まで獲物を狙う目で見られていたのかと思うとゾッとするが、怯んでもいられない。品定めされやすいようにと腕を広げると、ああ、と神が声を漏らした。
「いや、肉を食べようとは思ってないよ。見た目の通りに、ここ最近は人の食すものばかり口にしていてね。料理というものはそれこそ八百万で、飽きがこなくていい。
それに――人間を嫁に迎えようとしている者がその同族を食べるのも、おかしなものだと思わないか?」
最後の言葉にはわずかながら非難めいたものを感じた。
食われずに済むという安堵よりも軽率なことを口にしてしまった羞恥が勝り、おなつは再び頭を垂れる。しかし声が聞こえづらいと言われたばかりであることを思い出して、おずおずと視線を戻した。まっすぐに見据えられ、身の置き場がない。
(どうしよう、機嫌を損ねてしまった)
神の食料にはなれず、不興まで買ってしまった。こんな状況では、交渉が受け入れられはしないだろう。流れる沈黙に、思い出したように神が頭を揺らす。
「そうだ、ちゃんとした返事をしていなかったね。さて、なんと答えようか」
困ったような笑みがそのまま答えを示していたが、おなつは罪人の面持ちで沙汰を待つ。
「私は人の願いを叶える神ではないから、願い事を言われても困ってしまうな。願うのなら、社を構える神に祈るべきだ。対価なしというのもあれだね、うん、あまりよろしくない」
「……返す言葉もございません」
頭を垂らせないぶん、肩を落とす。穴があったら入りたいが、ここにあるのは池だけである。身を投げたところで、膝丈ほどしか入れないだろう。おなつがあまりにも縮こまっているからか、和ませるように神が微笑んだ。
「なに、そこまで反省する必要はない。神と会うのは初めてなのだろう? 次から気をつけなさい」
「……はい」
次なんてないとわかっているのに、従順に頭を下げてしまう自分がいやになる。紀代子を連れ去ってしまう憎むべき相手なのに、一筋たりとも嫌悪感がわかない。それも神たる所以か。
暗い顔で俯いていると、神は不思議そうに目を瞬き、それからまた笑った。
「いけないいけない、また答えを言うのを忘れていた。はぐらかしているつもりはないのだけど、どうも私は結論が遅いみたいで。まあ、そういうのはおいおい慣れてもらおうか」
「……え?」
またもや次をほのめかす言葉におなつは戸惑った。そして、自身の思い違いに気付く。神はまだ、おなつの願いを拒むとも叶えるとも答えていない。ならば、まだ希望を持ってもいいのかもしれない。
「あの、神様――」
「さて、そろそろ雨も止みそうだ。とりあえず、手を貸してもらおうか」
おっとりとした口調でそう言いながら、神がこちらに向けて手を伸ばす。逆らえるはずもなく、おなつはすぐさま空いている左手を差し出した。
神の手がおなつの指を握る。ひんやりした感触は死人を思わせたが、握り方はとても優しかった。
「出会いというものは貴重だ。私が人と出会ったように、この子たちが君に出会ったように、そこになにかしらの意味を見出すのも悪くない。麒麟児には、酔狂と言われてしまうけれど。
ところで、私は贄よりも使用人のほうが欲しいのだけど、どうだろう?」
その一瞬、子供のように微笑んだ神に、おなつは目を奪われた。そして握られていただけの左手に力をこめる。
「……是非に!」
「そうか。ならば、交渉成立だ」
愉快そうな神に手を引かれるまま、池の縁石に足をかけた。真っ暗な水面が眼前に広がっている。雨粒が表面を叩かなければ、ぽっかりと空いたただの穴に見えただろう。
(いったいなにを……)
神を仰ごうとしたその瞬間、身体が大きく前に傾ぐ。神に手を引かれ、よろめいたのだ。
とっさに足を前に出したが、そこにあるのは水面だけ。揺れる水面をたやすく踏み抜いて、身体はあっけなく池へと落ちていった。弾みで傘を離してしまうが、沈んでいくおなつにそれを気にする余裕はない。膝下ほどの深さしかなかったはずの池は、今やおなつの身体をまるごと呑みこんでいた。
(足が……つかない……っ)
もがこうにも着物の裾が張りついて、思うように身体が動かない。水に潜ったことなどないおなつは、えもいわれぬ浮遊感にただ硬直するしかなかった。暗闇のなかでよすがになるのは、左手にある神の手の感触のみ。この手が離れたら、二度と地上には戻れないだろう。
水底に足がつかないまま、身体が前方へと流されていく。
最初は緩やかだった水流は徐々に勢いを増し、いつしかおなつの身体を遠くへと押し流していった。目と口を固く閉ざして耐えるおなつだったが、不意に、まぶたの裏に光がちらついた。
(松明の明かり? ……ううん、まぶしすぎる)
小さな光がいくつもまぶたを叩き、おなつは恐る恐る水中で目を開けた。そして驚きのあまり、口から一際大きなあぶくを吐き出した。
おなつがいる場所はすでに池ではなくなっていた。透き通るような水色に包まれていたが、その色は水の色ではない。見上げなければ見られないはずの――いや、雨が降り出してからは屋敷では一度も見られなかった、鮮やかな青空がそこには広がっていた。
(空を飛んで――ううん、違う! 空を泳いでる!)
さながら天の川を渡る織り姫と彦星――と例えられれば雅だが、彼女たちは天の川を流されたりはしない。空を泳いでいるという点では、皐月の鯉のぼりのほうが近いだろう。そして空の川は緩やかに天から地へと流れており、終点は見知らぬ屋敷の入り口へと続いていた。
(なんて広い……ここが神の御殿なのかしら)
水中にいるせいではっきりとは目視できないものの、奉公していた屋敷とは比べものにならない広さであることはわかる。しかし、屋敷の全容を把握するほどの時間は与えられず、おなつは神とともに門の前へと降り立った。