雨七日の神隠し
気付いたときには降っていた、そんな雨だった。音のない雨はいつのまにか土の色を塗り替え終えている。頭上を見上げると、薄暗い雲が空を覆い隠していた。
今日は雨など降らないはずだった。そんな雲行きではなかったし、いつもの予兆もまったくなかった。
初めての事態に戸惑いながら右手を撫でる。ざらざらとした手の甲に、痛みはない。
(お嬢様が、拗ねなければいいのだけれど)
庭遊びが好きな屋敷の三女の顔を思い浮かべながら、おなつは繕い終えた服を両手に抱えた。この雨が、おなつの運命を大きく動かす前触れであることなど、露ほども考えずに。
__
「あーあ、いやになっちゃうわ」
習い事からの帰路に就くなり、加代子はそう言って石を蹴り上げた。黒い小石がコロコロと転がる。
「昨日も一昨日もその前もずーっと雨。鯉に餌をやれないし、毬もつけないし、お部屋でお手玉ばっかり。いやになっちゃう!」
憤慨しながら両腕を振って歩く加代子は、着物の色も合わさってまるで金魚のようだ。腕を振るたびに赤い裾が揺れている。
本来ならば行儀の悪さを窘めなければならないが、おなつは曖昧に微笑んだ。
むっつになったばかりの女の子が、来る日も来る日も部屋に閉じ込められているのだ。唯一外に出られる機会が琴の稽古だけとなれば、その帰り道くらい、大目に見てもいいだろう。 下駄を踏み鳴らして歩くから、後ろから見えるおかっぱ頭が大きく左右に揺れている。
「雨、早く止まないかしら。お姉様もお母様もとっても悲しそうな顔をなさるのよ。それに、みんな元気じゃないから、私まで元気じゃなくなっちゃう」
ここ数日、本田家の屋敷内は水を打ったように静寂に包まれている。
いつもなら朗らかに響く女中仲間の笑い声もすっかり鳴りを潜めていて、喪中のような空気が屋敷を覆っていた。なにも説明されていない加代子でも、よくないことが起きようとしている雰囲気は感じ取れただろう。
「昨日は美代子様がお顔を見せに来てくださったではありませんか、お嬢様」
加代子の機嫌を取ろうと嫁入りした長女の名前を出すと、加代子は勢いよく振り返った。
「そうだわ! 美代子姉様が帰ってきたんだった! きれいな櫛もくれたのよ!
それにそれに、雨があがったら舞台にも連れてってくださるって!」
約束したときの嬉しさを思い出したのか、加代子の頬が真っ赤に紅潮した。おなつは笑みでそれに応えようとしたが、口元はうまく上がらなかった。
加代子の笑顔は好きだ。あどけない笑みは胸の奥を優しく温めてくれる。
そのはずなのに今、胸を満たすのは刺すような痛みだけ。その笑顔が明日には陰るであろうことを、おなつは知ってしまっているのだ。
「お嬢様、そろそろ」
「はーい」
端的に呼びかけると、加代子は素直に立ち止まった。
差し伸べた手に視線が注がれるのを恥ずかしく思いながらも、おなつは腰をかがめて加代子の頭上に傘を広げる。ぽつぽつと鳴り始めた雨音に耳を澄まし、加代子が頭を揺らした。
「どうして加代子のおうちばっかり雨なのかしら。先生の家は全然降ってないのに」
おなつはただ、黙って傘を傾けた。
__
この地方で伝わる民話に、雨七日の神隠しというものがある。
神は類稀なる才を持った娘を嫁に選び、娘の家に七日七晩雨を降らせる。そして七日目の晩、娘を天界に攫ってしまうという伝承だ。
娘のいなくなった家はその後、百年の栄華が訪れるというが、その娘の家族にとっては、百年の栄華よりも娘のほうが大事である。ゆえに七日目には、屋敷内に女たちのすすり泣く声が響き渡った。
「どうして紀代子様がそんな目に。いくらお美しいからって、あんまりです」
「お嬢様が攫われてしまうのなら、私たちもお供します。お嬢様に不自由はさせませんわ」
この屋敷の上空に雲が留まって早七日。最初は小雨だったが、七日目には近隣の音をかき消すほどの土砂降りになっていた。
「みなさん、落ち着いてください。まだそうなると決まったわけではないのですから」
上女中たちが嘆きをあらわにするなか、次女の紀代子は気丈にも背筋を伸ばしていた。しかし、ついに七日止まなかった雨に、普段の嫋やかな笑みが幾分か強張っている。
「いいえ、見染められたのは紀代子様に決まってます! 紀代子様の琴の素晴らしさはこの国一ですもの!」
「貴族の方からも縁談の申し込みがあとを絶たないほどですし、お嬢様以外にいらっしゃいませんわ。今日だって、話を聞きつけた勇気のある殿方たちが、屋敷の外を警備してくださっていると聞きますし」
「まあ、頼もしい。屋敷の男衆も屋敷内を警護しておりますし、私たちもいざとなったら、身を挺してでもお嬢様をお守りします」
屋敷で働く女中には、紀代子と同じ年頃の娘も多い。なかには自分から身代わりを買って出た者もいたが、それは本田家当主と奥方とに押しとどめられた。いくら使用人といえども、我が子可愛さに人の娘を贄に捧げるような真似はできないとのことだ。
とはいえ、むざむざ愛娘を神に差し出すわけもなく、屋敷内には警備が敷かれ、娘のいる部屋は女中たちに守られている。昼間は奥方も一緒だったけれど、この七日ですっかり憔悴してしまい、奥方付きの女中に支えられながら部屋に戻っていった。
「なにをしている」
ふすま越しの声を聞き取っていたら、廊下の端で見張り番をしていた男衆に声をかけられた。手に持っているのは、暴漢撃退用の棍棒だ。盗み聞きを見咎められたおなつは、身を縮こまらせて反対側の廊下の端へと歩を進める。
下女中のおなつは、末娘の加代子の部屋にいるようにと言いつけられている。なのになぜ廊下に出ているのかというと、そのほかならぬ加代子に、鯉の餌やりを命じられていたのである。
加代子は池で買っている鯉が大層お気に入りで、なかでも白地に赤の斑点がついている鯉には、並々ならぬ愛情を抱いていた。雨を理由に習い事以外では部屋から出してもらえずにいたせいで、日課だったはずの鯉の餌やりすらできず、加代子は大いに不貞腐れていた。そして今夜、とうとう不満を爆発させたのである。
庭に出たいと騒ぐ加代子をなんとか宥め、おなつが餌やりと意中の鯉の様子を報告することでようやく納得してもらったのだ。そのついでに紀代子の様子も見てきてほしいと女中仲間に頼まれ、おなつはこうして廊下に出てきている。
(鯉が寂しがってないか見てきてほしい、か。私じゃ役目は果たせないのだけど)
おなつはどの鯉が加代子の意中の鯉なのかを知らない。庭に出ることはあれど池にはできるだけ近づかないようにしていたし、ましてや池を覗いたことすらなかった。近づいたらどうなるかわかっていたからだ。
こんな日だからか、あるいは雨のせいか、庭の灯籠には火が灯されていなかった。それでも屋敷の明かりで、池に続く石畳まではかろうじて照らされている。水溜まりにできる波紋が雨の強さを物語っていた。
足袋は脱いでしまったほうがいいだろう。だれもいないのを確認してから、足袋を懐にしまう。それから縁側に置かれていた傘を手に草履を履き、足を滑らさないよう、ゆっくりと歩を進めた。あっというまに足が水浸しになっていく。
そうして辿りついた池を見下ろしたおなつは、想像していたとおりの光景に息をついた。
「顔を見なくても、私とわかるのね」
水面に浮かぶのは雨粒による波紋のみ。逃げ場のない鯉たちが、水中で息を殺しているであろうことがありありと伝わった。そう、わかりきっていたことなのだ。
おなつは動物に好かれない。いや、動物に忌み嫌われているといってもいいだろう。
幼少のみぎりからそれは顕著で、牙や爪のある獣には襲いかかられ、武器のない獣には逃げ惑われる。身体には獣に襲われた際にできた傷跡がいくつも残っていて、それは呪いのようにおなつを蝕んでいた。
(……こんな身体じゃ、身代わりになったって神様に八つ裂きされるだけか)
――嫁の貰い手もないだろうこんな傷物の娘を雇ってくれた旦那様と奥方様に、御恩返しがしたかった。
――同じ年頃だからと声をかけてくださる紀代子様の憂いを取り払いたかった。
――分け隔てなく接してくださった加代子様の笑顔を守りたかった。
しかし、おなつは無力だった。
(永遠に、明日なんて来なければいいのに)
不安が立ち込める夜でも、空虚な朝よりはずっといい。
叶いもしない願望を抱きながら、おなつは枡をひっくり返した。本来は鯉に向かって少しずつ投げてやるものなのだろうが、鯉の姿がないのだから仕方がない。人が寄ればすぐに群がるという鯉はしかし、餌を投げ入れられても水面に顔を出さなかった。
(お嬢様には鯉は元気でしたとお伝えしよう。せめて、加代子様には安らかにお眠りいただかなければ)
加代子が寝たら、おなつも眠らなければならない。使用人は主人よりあとに寝て、主人より早く起きねばならないのだ。どんなときでも、それは変わらない。
黒いだけの水面から顔を上げようとしたそのとき、その声は響いた。
「ほう。神の遣いに畏れられるとは」
後方からかけられた声に、危うくおなつは枡を落としそうになった。あわてて振り返る。
長身の男がそこに立っていた。この雨のなか傘も差さず、涼しげな顔でおなつを見下ろしている。
月も雲に隠され、障子越しの明かりがかろうじて輪郭を映し出すだけの夜闇なのに、なぜかその男の顔はおなつの目にくっきりと映った。ほっそりとした美丈夫である。
(さっき聞いた、警護に来てくださった方?)
服装を見れば相手の格はわかる。間違いなく位の高い方だ。服の色味は判別がつかないが、羽織の下は無地の着物で袴を履いている。値の張りそうな恰好なのに、着物や髪が濡れていくのにも一切注意を払っていない。その目はただ、おなつを見つめていた。
観察するような面白がるような瞳に、おなつはおずおずと頭(|こうべ)を垂れる。
「畏まらずともよい。……いや、畏まらなくてもいい、か。畏れるのは鯉だけで充分だ」
そう言って顔を上げさせ、男は池のほとりまで足を運んだ。そして楽しげな顔で池を覗きこむ。
「本当に、一匹たりとも出てこないのだな。私を前にしてずいぶんと薄情なものだ」
前にも来たことがあるのだろうか。まずは屋敷内へと導こうと傘を差し伸べかけたおなつだが、その出で立ちのあまりの優美さに腕を止める。
(……この人、なにかおかしい)
神に狙われたこの屋敷の庭で、こんなにも伸びやかに振る舞えるなんて。それに彼は、一度も屋敷のほうに目を向けていない。紀代子の身を案じてやってきたのなら、池の鯉など見向きもせずに紀代子の様子を尋ねるべきだろう。紀代子に懸想しているのならば、なおさら。これではまるで――
わずかに後退ると、男の黒い瞳がおなつを捕らえた。
その瞳に得体のしれない不気味さは隠されていない。むしろ慣れ親しんだ、なくてはならないなにかが広がっているように感じられた。生まれる前からずっと、当たり前のようにそこにある、お天道さまの光のような。
「貴方は――」
か細い声は雨音に掻き消された。だが男は目元を緩め、意図せず答えを口にした。
「今日で七日目だ。私の嫁のもとへ、案内してもらおうか」
まるでそれが自然の摂理とばかりに、神は嫁を求めた。