夏のある日 (1)
「夏といえば休暇。バカンスだよ!」
がたん、といすを蹴っ倒して立ち上がり、少女はこぶしを握りしめる。
「暑い日にはかき氷とかアイスで心を癒すのもいいけど、仕事ばかりしてちゃ休まるものも休まんないよ。世間様はもう夏休みなんだからこんなに一生懸命仕事している勤労意欲の塊である私が、休暇を取ったとしてもだれも文句は言わない。いや寧ろ、君はもっと休むべきだ、働きすぎだって口を揃えて言うだろうね。ね、そう思うだろう?水無くん」
水無と呼ばれた、こちらも少女が、グラスをふく手を止めて得意げに熱弁を振るう少女に視線を向けた。
熱弁を振るっていた少女の見た目は16,7歳だろうか。金色の髪にサファイヤのような青い瞳。全身黒で統一した服からは、細い手足が伸びている。快活そうな目は、今は獲物を見つけた猫のようにらんらんと輝いていた。
「思いません」
水無はそれを冷めた目で見やり、ばっさりと切り捨てる。
「えー、どうしてさ。水無だって働いて疲れているだろう?仕事は休むことも必要なんだよ。じゃないと効率が悪いし、何よりいい仕事ができない。これでも私は水無のことを考えて言っているんだよ?」
セレナはにっこりと笑うと、水無の肩をポンポンと叩く。水無にはその手がずっしりと重く感じられた。
「…誰の所為で休みが取れないと思ってるんですか。休みが取りたくても取れないのは、あなたが毎日仕事もせずぐーたらとしているからでしょう。私のことを考えてくれているのなら、少しは仕事をしてください」
「しているじゃないか。私は勤労意欲の塊だよ?」
「今月になってからまだ一回もしてないじゃないですか。店の仕事も全部私に押しつけて…。それでも、もしあなたが勤労意欲の塊だというのなら、完全に意味をはき違えています。無為徒食の間違いなんじゃないんですか?」
「そんなことはないさ。仕事が来ないのだから、したくてもできないだけだよ。ああ、私はこんなに働きたいと思っているのに…!世の中はなんて不公平なんだろうね」
少女はしれっとした顔で大袈裟にため息をついて、カウンターの席に座り直す。
水無はカウンターを挟んで目の前に座り、大量の旅行パンフレットを熱心に読んでいる少女を見て小さくため息をついた。
少女の名前はセレナ=レヴィン。一見17歳ぐらいの少女にしか見えないのだが、その実年齢は三百歳を超える天使なのだ。何でも天使なのに翼が黒かった所為で殺されそうになり、天界からこの人間界に逃げてきたらしい。
天使にも人間と同じように社会があり、仕事もある。そしてそのおもな仕事というのが悪魔退治というおとぎ話のような仕事だった。
「悪魔退治といっても、人間のエクソシストがするのとは少し違うかな。魂を回収することを目的としているからね。正確には悪魔の定義も違うんだけど、まぁそこはいいかな。とにかく魂を回収して輪廻転生をさせること。これが天使の仕事だよ」
悪魔退治について水無が聞いたら、セレナから返って来た答えだ。
だから別に天使といったって、人を助ける存在じゃないのだと。そう言っていた。
水無は小さい頃に両親を亡くしたのだか、その時偶然か必然か悪魔に襲われたところをセレナに助けられたことがある。
その時のセレナは、今目の前で仕事もせず旅行パンフレットを楽しそうに読んでいる彼女からは想像もできないほど神々しく、とても綺麗に見えたのだ。
漆黒の翼でも天使に見えるほどに。
だからその時勝手に口が動いてしまったのかもしれない。弟子にしてください、と。
今考えれば何を血迷ったことを言ってしまったんだと頭を抱えるほどの発言なのだが、当時の水無は本気で言っていた。どうせ身寄りもなかったし、何よりセレナの能力に完全に魅入られてしまっていたから。
水無は丁寧に拭いたグラスを片づけながら店内を見回す。
店内は三十人は余裕で入れるぐらいには広い。机や椅子も雰囲気がいいものばかりで、水無が毎日掃除しているので店内は綺麗だ。
そして驚くことにここの経営者はセレナで、セレナの家でもある場所だった。
例え中身が三百歳で天使だとしても、外見は少女にしか見えないセレナがどうやってこれだけの店を手に入れたのか水無は不思議に思う。そう簡単に手に入れられるとは思えないからだ。
…世の中はそんなに甘いものじゃないと思う。
「ねえねえ水無はどこ行きたい?暑いから私は涼しいところがいいんだけど、暑いからこそあえて暑いところに行くっていうのもいいかもしんないよね。例えば……ハワイとかグアムか。エジプトやインドにも行きたいと思ってたんだよね。ね、ね、水無はどう思う?」
水無は目の前にあるグラスを投げつけたい衝動をどうにか抑え込みながら、努めて淡々となるように言葉を紡いだ。
「師匠…いったいどこにそんなお金があると思っているのですか…?」
「え?ないのかい?」
セレナはさも驚いたというように目を丸くする。
「無いに決まっているじゃないですか!外国どころか国内旅行だってしている余裕はありませんよ。それどころかこのままじゃ、日々の生活すら危ういんです。そんな戯言ぬかしている暇あったら、仕事をしてください!」
水無の剣幕に、セレナは首をすくめる。
「わかった、わかった。そんなに怒らないでよ。冗談だよ冗談。海外なんて行かないって。やっぱり暑い時に暑いところに行くのは得策じゃないよね。だからさ、北海道なんてどうかな?涼しいし、名産品は多いし。なによりラーメンが美味しいらしいしね。一度食べてみたかったんだよね。ね、いいと思うでしょ?」
「…………」
言いながらセレナは「北海道」とでかでかと書いてあるパンフレットを水無に見せ、説明をし始める。
……全然人の話を聞いてない。
水無は強いめまいを覚え、目元を押さえた。
思えば初めて会った時から、セレナはあんまり人の話を聞いてなかった気がする。しかも悪魔退治というお客が来るんだかどうかも怪しい仕事すらせず、毎日だらだらと過ごしている始末だ。そのくせ何かというと休暇だの旅行だの言って、遊びに行こうとする。
その常識を遺脱した性格は、天使だからなのか元からなのか。
…まったく、昔弟子にしてほしいと言った自分自身を呪ってやりたい。
水無は再度ため息を漏らすと、諦めたようにセレナを見やる。
「…分かりました。休暇を取ってもいいことにしましょう。師匠は一度言いだしたら聞かないですから」
「本当かい?やったー!じゃあ――」
「ただし、――今日一日だけです」
午後の日差しが照りつけるお昼時の「喫茶店セレナ」の店内で、パンフレットが床に落ちるバサッという音が、やけに大きく響いた。