後編 焼け跡で見つかった男は大五郎という。
「鳶のカシラの話しだと、火の出所は七平長屋だったそうだよ。昼の竃から火が出たんだ。大五郎さんと、朱里さんは一緒に焼け跡で見つかったってさ。病人を抱えて動けなくて、火に巻かれたんだろうってみんな言っているよ。大五郎さんは命まで朱里姐さんに絞り取られちまった、不幸者だとさ」
日本橋にある、水油屋の庭先。手足の短い一寸法師が、縁側に座って滑々と語っている。さっきお内儀にもらった紅梅焼を、幼児のまま成長しない小さな指が、器用に摘んで口へと投げ込んでいた。
大五郎と朱里が、火事で死んだ。
今、巷では
『女房の色に狂った亭主が焼死』
と評判になっている。火事の後、競うようにバラ撒かれた一枚刷りの読売や瓦版には、命を捨てるほど亭主を狂わせた女房の妖艶な美しさと、図々しさと気味悪い毒婦ぶりが、絵付きでこれでもかと書かれていた。
「何てことだろうね。いくら悪だって、蛇か魔物のような扱いじゃないか。朱里ちゃんがこんな言われようになるなんて……」
近所で一寸法師が拾ってきた紙切れを読み、水油屋のお内儀であるお菊は、艶やかな黒い鬢を撫でては溜息をついた。
生前から、朱里が美貌と名声で羨望と妬みの的となっていたのは、お菊も知っている。
この江戸という場所で名を知られるとは、そういうことである。
有りもしない性癖や、根も葉もない病癖まで、朱里はあれこれ塗りつけられていた。死人となった今では、言い返す事も出来ない。書く側は文句を言われる気兼ねが無く、毒婦の悪行ならばお上にも叱られないので好き勝手に面白おかしく書ける。お菊は見るのも腹が立ち、悔し紛れに紙切れを握り潰した。
江戸の春は短くて、あっという間に過ぎていく。晩春の風が、庭の梢を揺らしていた。
主人は店表で、今日も油を売っている。妻のお菊は基本的に表には出ず、家事と奥向きの仕事をしていた。小店や料理茶屋などと違い、中堅以上の商家で、妻や娘はまず店先に出ない。武家風に倣っているのだが、危なくて出せないのもある。
雑菓子屋のおかみが、店先で立膝をするらしいと噂になっただけで、それ見たさに客が来るのが江戸だった。雪隠覗きや部屋覗きは犬の糞ほど多くて、数え切れない。婦女が参詣に行けば、知らない男が群がってきた。女達は尻を叩かれ撫でられつねられ、帰る頃には下半身が痣だらけになっている。着物の裾から手を突っ込まれたり、刃物で尻を突いてくる者までいた。
茶屋でも薬屋でも、店先に美女さえ置けば人が押し寄せる。風紀が乱れるとして、店頭に女を置いてはならないと触れも出た。それではと店側は今度は美しい若衆を置いたが、それも騒ぎになって禁止された。そもそも客が来るという、呑気なものではない。隣の奴の声が大きいの、足を踏んだの踏まないので怒鳴り合いの喧嘩になり、血の雨が降るのである。気がすむまで殴り合いたい、喧嘩をしたいがために歩き回っているのが、少なからずいた。
それでこそ江戸であると張り切って歩いた彼らは、良く言えば威勢が良く、悪く言えば荒んでいる。
「おれは、朱里さんは悪くなかったと思うよ」
水油屋に拾われてきた一寸法師は、春の薄緑色に染まる庭を眺めて、思案気な声で呟いた。主人の家内に対する、下男の言葉遣いではない。しかし、ここでは誰も咎め立てしなかった。
この子を亭主が拾ってきたときには、お菊も驚いた。けれど夫は、御参詣の帰りに拾ったのだから縁起が良かろうと、熊手を片手に笑っていた。
――打出の小槌を運んでくるかもしれんぞ?
そんなことを、おどけて言う。昔から変わり者だが、陰湿さは無く風通しの良い人でもあった。
今ではお菊も、こんな小さな身体に生まれ持った重荷もどこ吹く風と元気に走り回る一寸法師を可愛がっている。
「お前もそう思うかい?」
縁側に座る少年の言葉に、お菊は味方が出来た気になって微笑した。
朱里とは梅若町の家で、隣同士に育った幼友達だった。京人形のようなお菊と、勝気な朱里では違いすぎたけれど、朱里が良い子だったのはよくわかっている。
母子二人の、貧しい暮らしをしていた。病気がちの母親のため、朱里は煮売り屋の手伝いや、お針子などして日銭を稼ぐ。「おっ母さんが一人になっちまう」と、嫁入り話しがあってもすぐには頷かず、断わっていた。孝行娘だと、隣近所では評判だったのである。お菊が縁を得て、水油屋へ嫁入りしてからは疎遠になってしまったものの、お互い息災だろうかと気にする間柄は保っていた。
それが母親が病で死ぬと、心の拠り所が無くなってしまったのだろうか。
朱里は箍が外れたみたいに、周囲に祭り上げられるまま、回向院裏の弁天様となってしまったのである。お菊も遠くから心配していた。だから大五郎と夫婦になると聞いた時には嬉しさに、朱塗りの角樽を贈ったものだった。
「火事になる前に、朱里さんは死んでいたかもしれない」
「よほど病が重かったからね」
一寸法師が言い、項垂れたお菊は再び溜息をつく。
朱里が病に伏したと聞いて、お菊も見舞いに行かねばと腰を上げかけた。しかし大五郎が、ひどい女嫌いだったと気がついた。病人に気を使わせてはと、あの偏屈な亭主も親しく接する一寸法師を代わりに行かせたのである。今となっては、会わず仕舞いになってしまったのを、重く後悔していた。
「ねぇ、お内儀さん。今さら言ったって、仕方のない事なんだがね。お弔いの代わりと思って聞いておくれ」
言い出した一寸法師が、折り畳んだ懐紙を取り出して縁側へ置いた。
「こいつはおれが最後に長屋へ行った時、くすねてきた朱里さんの薬なんだ。こいつをねずみに食わせたら、すぐ死んじまったのさ。たぶん『石見銀山』が入っているよ」
慎重に開いた紙の上には、濁った褐色の粉末が一つまみ乗っている。『石見銀山ねずみ獲り』と言えば、鼠殺しの毒だった。
「ええ、何だって? くすねてきたって……清二、どうしてそんな真似したんだい」
「朱里さんの顔色や具合が、どう見たって風邪じゃなかったからだよ。でも大五郎さんは、風邪だと言って迷わないんだ」
お菊は面食らって、粉末を覗き込んだ。子供の身体に大人の頭が乗っている一寸法師は、首を竦めて答えている。朱里の容態を見て不審を嗅ぎ取った一寸法師は、長屋の二人の目を盗んで、薬の中から少量を持ち出していた。
「へえ? ……お前も、それと何故わかったのかね?」
「広小路で豆蔵をしていた時に、見物していた与力の旦那に教わったよ。もし間違えて人が飲んだら、一体どんな顔色になるんだい? と聞いたら、コレコレこうだと教えてくれたのさ」
狭い肩の上にある真面目なすまし顔で、一寸法師は言う。
『豆蔵』は、曲芸や手妻、道化万歳で歌い踊って客を喜ばせる芸である。一寸法師が卑しい大道芸の銭貰い役をしていた折、町方の探索で立ち寄ったと思しき、与力の殿方に教わったという。『石見銀山』は歌舞伎や怪談にも頻出する。そのとき興行していた豆蔵の芸の中に織り込まれていたのだろうかと、お菊は思った。
「それでさ、こうして持ってきたけど。ためして飲んだら、おれが死んじまうかもしれないからね。ねずみを探して、団子にふりかけて食わせてみたんだ。そうしたら、やっぱり死んじまった。その間に長屋も火事になっちまった。もう確かめられないけど、朱里さんの薬にはねずみ捕りが入っていたと思うな。どこでも売ってるだろ。大五郎さんは薬や砂糖に少しだけ混ぜて、朱里さんに飲ませていたんだよ。どこまで殺す気があったかは、知らねぇや」
話しながら、一寸法師は薬が飛び散らないよう丹念に懐紙を畳み直した。
「お前、本気で言ってるのかい? 大五郎がそんなことするものかね。大事にしていた恋女房が」
包みを受け取り、お菊は半信半疑どころか嘘を聞いている心地で尋ねる。この毒が間違いで誰かの口に入っては大変なので、これは自分で捨てねばと更に懐紙を取り出して間に挟んだ。
「うん。おれも初めはそう思ったよ。疑っちゃあいけないかなって。でも考えるほど、大五郎さんに具合が良いんだ。病気になっている間は、朱里さんはおとなしくしているより仕方ないじゃないか。浮気も出来やしない。何でもかでも、大五郎さんに頼るしかないだろ? おれに話して聞かせてくれたときも、大五郎さんは随分と幸せそうだったのさ」
短い足をぶらぶらさせ、一寸法師は春の空を見上げる。
「幸せそう?」
「大五郎さん、気に入ったものは葛篭に仕舞っておきたい人だろう。虎の皮でも、ギヤマンでも。つれ合いも仕舞っておきたくなったって、おかしかないや」
一寸法師はそう言った。
大五郎の『宝物』が入れてあった葛篭も、火事で残らず焼けている。形が焼け残った物も無いではないが、誰かに欲しがられるほどの品はなかった。
「そういえば、そういう男だったね」
「そんでも、朱里さんは外へ行っちまう」
「当たり前さ」
「だからきっと、出来るだけ『病』を長引かせたかったんだろうよ」
「それで毒を盛ったっていうのかい」
寒気に青褪めたお菊は、瞼を硬く閉じる。改めて考え、一層ゾッとして身震いした。
朱里は大五郎よりも強く、亭主が泣いてもすかしても、どうにもならない女だった。鈴虫や鶉ではない。ましてや置物や硝子作りの玩具ではなかった。それが病を機に、大人しくなり動かなくなる。いきなり立場が逆転した。大五郎の匙加減で、朱里の何もかもを左右出来る。これまで恋の手練で大五郎を跪かせ、翻弄してきた弁天様。その目に映る男はただ一人になった。
倒錯した愉快を大五郎は逃さなかったのだ。黙っていてくれない弁天様。脚の生えている宝物が歩き回らないよう、快復しないよう調節し、弱らせて己の手中に閉じ込めた。
一寸法師の見た限り、朱里は病の身でありながら、床でも化粧をしていたという。おそらくは大五郎が好みの化粧を施して、好きなだけこねくり回していた。青紫色に爛れた愉悦。自らの手で一匙ずつ薬を飲ませるたびに、終わりは近付いた。大五郎はそれでも良かったのだろう。どの道、朱里は大五郎を捨てて他の男の腕へ行ってしまう。
復讐の愛撫に浸りきった男は、自らの手で女房を地獄へ引きずり込んだ。
「朱里さんが床に伏せった切欠も、『病』だったのかな」
ぽりぽりと紅梅焼を齧って少年が言った。
「それにしたって、お前もよくその薬を持ち出したもんだよ」
お内儀に言われると、一寸法師は顔をくしゃくしゃにして笑う。
「他の奴なら、こうはいかなかったろうね。『一寸法師』のおれだから、大五郎さんは気兼ねも無かったのさ。朱里さんが医者を嫌がっていたってのも、どうだろうね。勘付かれないよう、見舞いの人も誰も朱里さんに会わせなかったんだから。それが、おれだけは入れたんだ。侮っていたのだろうね」
舌でも出しそうな口調で言った。
この一寸法師は町方の与力までつり込ませる、話術の持ち主である。しかし背丈は平均の半分しかなかった。人々には前世の罪業だ因縁だと誹られる。成長は止まっているのも同じで、誰かを追い越すことはない。そういう少年を見る大五郎の眼には、軽侮と優越が入り混じっていた。大五郎にとって、一寸法師は朱里の簒奪者や競う相手の数に入っておらず、一寸法師の方もそこを知り抜いた上で利用したのである。
「そうまで承知していたとはね。お前、腹が立ったりしなかったのかい?」
「構いやしないさ。知らないふりをしているのが一番心安くていられるや」
水油屋の夫婦にしか見せない、無邪気な笑みが答えた。
お菊は、ぼんやり思い出す。
所帯を持ったばかりの朱里に会うために、お菊も一度だけ七平長屋へ趣き、大五郎にも挨拶した。たしかに大人しい男で、酒に溺れたり刃傷沙汰を起こしたりはしなさそうで、これは朱里にも良くしてくれるだろうと安堵した。だが、妻の幼友達であるお菊へ向ける大五郎の視線に何故か、虱でも見るかのような嫌悪と冷たさを感じた。おかしいな、とは思った。でも朱里が惚れた人なのだから悪い人のはずはない、少し気難しいだけだろうと考えていたのだ。
「あたしは、朱里ちゃんが好きだったのにねぇ」
助けてやれなかった無念を、お菊は掌で握り締めた。
「うん。おれも好きだったよ。こいつを証拠に取って、あそこから出してやりたかったんだけどな」
麗かな午後の縁側で語りながら、お内儀と少年は春に霞む薄青い空を見上げる。
まだ朱里が元気だった頃。大路で真っ白な肌も露わに、「斬れるものなら斬ってみろ」と一人で歩いてみせていた姿が蘇った。人々は無法だ威張っていると非難し、『おお、恐い』とからかった。だが朱里の鼻ッ張りに、お菊は健気のようなものを感じていた。泣き崩れていれば乳母や家来が駆けつける、お姫様ではない。朱里は守ってくれる家も家族も、傅いてくれる召使いもない身だった。吹きっ晒しの世間の風に打たれて、涙も媚びも見せなかったあれは、下賎に生きるしかなかった女なりの意地でもあったろう。夫婦になっても今さら、可愛い女房にはなれなかったのかもしれない。
「幸せになると思っていたのが、こんなことになるなんて」
「うまくいかないものだねぇ? 大五郎さんが女房に惚れ抜いていたのは、違いなかったのに」
お菊の呟きで、一寸法師は不思議そうに短い首を傾げていた。
大五郎にとって生涯一度の恋であり、無我夢中で惚れていたとは、お菊も思う。
自らの内に燃え盛る炎で身も心も焼きながら、宝物を撫で、常に甘く微笑み囁いてくれる極彩色の弁天様を懸想していた。長屋の外へ一歩出て、汚いカカア達を見るのも耐えられないほど、美しい夢を愛していた。底無しの血気と欲望に躍り、起きたまま夢を見ている男だったのだ。この江戸という都と、どこか似ていた。
今日という日を乗り切れれば御の字の者ばかり。火事と喧嘩の華の都は、夢を見せるだけの場所だった。都市というものの宿命で、周辺の田舎から一方的に、水や米や燃料を収奪する。人間さえも飲み込まれ、一瞬で使い果たされ消えていく。膨大な人口を抱えた都市が生み出すのは、芝居や読み本などの絵空事と、浮いては消える嘘談。打上花火のような刹那の夢で、何となく景気をつけている。
そこで生きざるを得なかった大五郎も、際限の無い夢で己の空虚を埋めていた。外向きではなく内に向いていただけで、根っこは他と然程変わらなかったろう。
その大五郎の前に舞い降りた、生身の弁天様が朱里だった。
燃える恋と言うには、無残な散り様だった。
「それにしてもこれじゃ、死んだ後まで大五郎にしがみ付かれてるみたいだね」
瓦版によれば、長屋の焼け跡で、亭主は女房に覆い被さって死んでいたという。
不幸はどちら、可哀想にと、水油屋のお内儀だけは後々まで語っていた。




