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鉄火散る  作者: 石川織羽
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前編 不幸の元になったその女は朱里という。

 神田黒門町、七平長屋の大五郎といえば、不幸者で知られていた。


 細面の痩せた男。人嫌いの陰気な性格で、飲みもせず打ちもせず買いもしない。浮世をコケにする明るさもなく、この世は味気ないと決めてしまっているような男だった。親兄弟と順番に死に別れてからは、棟割長屋に篭もって傘張りの居職ばかりしている。

 周囲は「不幸せな野郎だ」と嘲りもし、気の毒がりもした。


 こんな大五郎なので、この世に未練は無いのも同じである。

 しかし未練の無い浮世にまだ足を繋ぎとめる存在が、二つだけあった。繋ぎとめていたのではなく、逆に大五郎が地面に足をつけることを遠ざけていたのかもしれない。それでも兎に角、この『二つ』だけは大五郎の目にも、味気ない浮世で尚美しく輝いて映った。


 一つは、大五郎の集めていた『宝物』。集める品は統一されていない。格式高い書画骨董などとは遠く、ただ大五郎の好みに叶う品が選ばれた。少年だった頃、近所のご隠居から譲られた蒼い硝子ギヤマンの器から始まった収集癖である。


 高麗ものという虎の皮。阿蘭陀オランダの遠眼鏡。生きていると見紛う自在の銀色蟷螂。天竺から来たとされる滑らかな錦の織物。可憐な桃色の水晶や、輝く孔雀の羽。少しずつ集めたそれらの『宝物』を葛篭から取り出し、差し込む日の光に当てながら恍惚と眺めるのが大五郎の楽しみだった。


 そしてもう一つは仲間に連れられ、江ノ島弁天までお参りをした際に出会った。

 若い頃に、『女嫌い』を治してやれという迷惑な理由で連れて行かれたのである。


 嫌々ながら大五郎が連れられて行った先には名物の、妙音弁財天の裸体像があった。

 鎌倉期に作られたという名品。半眼の優しい眼差し。顔立ちはふっくらとし全身は肉付き良く、優美で豊満な胸。白い肌と極彩色のお姿が、嫣然と座っていた。薄暗い屋内に浮かび上がる様は、生身の人間よりも活き活きとして今にも微笑みかけてくるかと思わせる。大五郎はこれを見て震えるほど衝撃を受け、興奮でのぼせたようになってしまった。後はもう、目的だった門前町の精進落としも何も放り出し、弁天様に夢中になってしまう。


 この日以来、大五郎には江ノ島の弁天様より他は女ではなくなった。

 女と喋るのも容易ではない。話したい女は弁天様だけで、遊郭さえ近付かない。近所の娘や長屋の女房連中などは、呼びたくもなかった。声をかけられれば、まるで凶悪な獣に狙われた小動物のように青褪め、要領を得ないことをぐすぐす言って退散してしまう。大五郎には世にも美しい弁天様と、その辺でうろついている不恰好で姦しいのとが同じ女であることさえ苦痛だった。


 でも弁天様が狭い裏店にいないのは、大五郎もわかっている。江ノ島のあれは所詮作り物だった。


 自分に才があれば、あの美しさを文字や絵で形にして抱擁し、やるせなさを慰められたろうがそれも出来ない。だから愛撫も睦言も叶わなくて良い。やはりこの世は諦め、胸に秘した弁天様と生涯を共にしようと悲しい覚悟を決めていた。周囲に打ち明けはしないので、ますます内へ篭もる。大五郎を「ようは偏屈なんだ」と罵る、悪い者もいた。


 この大五郎が、後に嫁を貰った。

 それもとびきり上等で、大五郎の本当の『不幸』の元になった女である。

 名を、朱里あかりといった。


 * *


「大五郎さん、いるかい?」

 格子戸を叩く音と共に、外から声がした。


「一寸法師か、今開けてやるよ」

 滑舌の悪い男の返事があった後、半纏に三尺帯の男が戸を開ける。家の前には大五郎の半分くらいの背丈をした子供が立っていた。


 子供に見えるが、歳はもう十五である。眉の太い顔立ちは大人の男に近かった。十歳ほどの背丈しかなく、胴体に生えた腕と脚も伸びきらずに短くて、その先についている手指は更に幼児のように小さい。これ以上身体は大きくならないから、縞の筒袖は同じものを年中着っぱなしで黒光りしている。『一寸法師』と呼ばれた少年には清二せいじという名があるのだけれど、ほとんど誰も呼ばなかった。


「頼まれ物、持ってきたよ。それとこっちは、お内儀かみさんからだ。食べとくれ」

 するりと屋内へ入り込んだ一寸法師は話しながら、抱えてきた風呂敷を框へ置く。小さな手で器用に風呂敷を解くと、女物の襦袢や腰巻を出してみせた。

「すまないな。うちのやつも喜ぶよ」

 答えた大五郎は、竹の皮に包んであったぼた餅を受け取る。


 一寸法師は日本橋の、とある水油屋の下男だった。

 親の顔もよく覚えていない歳に、豆蔵の大道芸に売られた。更に五年前、気紛れに道端へ捨てられてしまった。これを酉の市の帰りがけ、通りかかった水油屋の主人が見つけた。


 ――お前、悔しいなら働いてみろ。腹をくくって奉公するなら、飯は食わせてやるぞ。


 そう言って引き取った。旦那も酔狂だと毒吐く声はあったが、拾われた『一寸法師』は力があって機転も利く少年。今では主人夫婦に可愛がられ、手先、足先となって働いていた。


「朱里さん、悪い風邪だそうだね?」

「喉や腹が痛いと言うんだ。目眩がひどくて熱もある。食べても吐いてしまうんだよ」

 声を潜めて薄暗い部屋の奥を見た一寸法師が尋ねると、大五郎は溜息と共に言う。


 水油屋の内儀お菊と、朱里が幼友達で、その縁からこちらの二人も知り合った。大五郎は人と対すると、いつもむっつり陰気に黙り込むのだが、一寸法師には口を開く。饒舌になる事さえあった。それで今回も、この少年が使いに出されたと言って良い。


 その時、枕屏風がごそりと動く。寝ていた朱里が起き上がり、湿気た夜具の間から這い出そうとしていた。


朱里あかり姐さん、加減は少しは良くなったかい?」

「一寸法師に、ちょいとお使いを頼んだのだよ」

 振り向いた二人が声をかけると、病人は首を伸ばし顔を上げる。


「あ……せ……」

 掠れた声で言いかけて、朱里は片手で胸を押さえた。力が抜けたように、身体が突っ伏してしまう。


「ああ、無理に動くんじゃない。横になっていろと言ってるだろう」

「姐さんいいんだよ、大事にしてくれ」

 夫は慌てて膝を摺り寄せ、抱きかかえた妻の青白い頬を撫でてやっていた。一寸法師は同じ場所で腰掛けたまま、横目で夫妻の様子を眺めている。


 天窓から射しこむ光りで照られた六畳一間には番傘が並び、傘張り道具の他に火鉢と煙草盆と茶箪笥といった生活道具があった。葛篭があって、中には大五郎の宝物である七色のビイドロ玉や遠眼鏡が入れてある。傍らには万病に効験ありという『牛黄丸』と書かれた紙の袋と、油紙の薬包紙があった。

 一寸法師はそっと油紙を手に取り中身を覗いていたが、大五郎夫婦はそれどころではない。


「さあ、こいつを飲んでおとなしくしてるんだ。砂糖で甘いだろう?」

 妻を優しくあやして、大五郎は枕元にあった茶碗を取り、薬と白湯を交互に飲ませていた。朱里は細い喉を鳴らし、注がれるまま飲み込んでいる。


 ――回向院裏の弁天様。


 そう誉めそやされる女だった。


 今も唇には鮮やかな紅を引き、首筋まで薄く白粉をはたいている。しかし弁財天と仰がれた美貌は黄色くやつれ、白粉と交じり合った肌は蝋のような色をしていた。乱れた長い黒髪が肌を這う様は、凄いような色香がある。長い睫毛で一層黒々とした目は、うつろに宙を見ていた。


 朱里は色の白さと後姿の柳腰、そして足首の美しさが格別と言われていた。目が合って微笑まれれば男はみんな、俺に気があると思い込んで元気になる。


 大五郎も、その中の一人に過ぎなかった。

 広小路で偶然に朱里を発見してしまった大五郎の一目惚れだったと、一寸法師も聞いている。


 湯上りの肌も露わに、緋縮緬の褌と襦袢一枚羽織って道を行く朱里に出会って以来、傘張り職人は夢に浮かされてしまった。惚れたのは過ぎて心酔に近かった。長屋で篭もりきりだったのが、外へ出て朱里を追って歩き、賭場にまで迷い込む。朱里の方も、大五郎はおどおどしていても、他の男たちと違ってやかましくない。そこが良いと言っていた。関わっているうちに夫婦になってしまう。


 どうして大五郎みたいな青白いだけのつまらねぇ野郎とくっついたのだと、やっかむ男は多かった。朱里が本気のはずはない下男代わりだと、悪態をつく者もいた。それは的外れではなく、大五郎は朱里の尻に敷かれるどころではない。


『江戸の恐妻』は有名で、江戸の女は驕り昂ぶっていると珍しがられる。武家や商家は別だった。町方の下、『しつけ』は犬の餌と思っている、裏店に住んでいるような身分の者達の話である。急ごしらえで造成された江戸の都。田舎村から始まり、ただでさえ女は少数で、良い女がいればすぐ評判になった。そして武士もそうではない者も、独り者が多く夫婦者は少ない。上流階級が女を独占していた。


 そのため、女は羽振りが良い。吉原遊郭は言わずもがな。置屋をやれば金が集まる。女郎や夜鷹になれば銭を稼げる。全く江戸の女は恵まれていると、男たちは羨ましがった。恐い妻たちは水汲みなど勝手のことを亭主にさせ、自分はこたつで大酒と煙草をのんでいる。『夫を疎かに扱ったり、物見遊山を好む女房とは離縁せよ』と、わざわざ町触が出たりもした。おちゃっぴい、と言って江戸の女はよく喋り口が立つ。「女房に着物一枚買えなくて何が亭主だ」と噛み付くほどには、気も風俗も荒っぽい。男の格好をしたり、尻からげで道を歩く女もいた。


 朱里もその系譜にいる『姐さん』だった。これ見よがしにうなじを見せ、博打場へ出入りして強請りもすれば仲裁もする。人を驚かせてはそれを売りに、一層派手に振る舞って名を知られた。夫婦になっても、朱里の後を、恋の熱に浮かされた大五郎がよろよろ追って歩く。妻に愚痴を言えば


 ――男に似合わず、焼餅深い野郎だね!

 ――浮気しないだけありがたいと思いな!


 と逆に悋気を朱里に叱られる。夫婦喧嘩をしても到底勝てなかった。朱里を欲しがる男ならいくらもある。大五郎が涙ながら詫びて、女房の膝に取りすがる。大方の予想通りだった。


 けれど結局、朱里は他所に男をつくり逢瀬が頻繁になった。これが壁や障子の耳目が知るところとなり、新たな人の噂になる。惨めさと悋気に苦しみ、亭主が死に物狂いで

「一緒に死んでくれ!」

 と懇願すると

「殺すならやりやがれ!」

 と、投げやりな朱里が啖呵を切る。

 周囲は他人事であるから、「惚れた弱みだ」「またやってるよ」と面白がった。


 そうこうしながら、一年が過ぎたのである。


 威勢の良かった朱里が、小さな風邪をこじらせたのを切欠に突然、ああも弱ってしまった。寝込んでいるとは聞いていたけれど、ここまでとは思っていない。目の当たりにして一寸法師も悲しかった。


「よほど悪いのだね。医者は?」

 朱里が落ち着き一段落した後、長屋の外へ出た一寸法師が訊く。

 遅い春の曇天の下、大五郎は普段に増して憂鬱そうな表情となり、弱々しく首を振った。


「アイツは医者も薬も嫌いなのさ。一度言い出したら聞きやしねぇ」

 無精ひげの生えた白い顎を指先で掻いて呟いた。「まぁそうだね」と、一寸法師も頷く。医者にかかれば治るという保証は無かった。誰でも医者になれるため、医書を読んだことの無い医者もいる。


「大五郎さんも、外へ出ないってね。木戸番の兼さんが気を揉んでいたぜ?」

「ありがたいが、朱里を一人にして行けないよ。出かけたって、どうせ何も手につきゃしないんだ」

 大五郎は、悩ましげに眉間へ皺を寄せて下を向いた。


 朱里が寝込んで十日。十日も寝込んでいられるのは贅沢でもあり、また「女房孝行」と評判も立った。大五郎は妻に付っきりで看病している。これまで以上に部屋へ篭もり、日光に当たらない男の顔色は青白く、目の下には隈が出来てこちらも病人のようだった。


「でも良い薬を飲んでいるから、きっと治るさ。ありゃあ京橋や本町まで行って買ってきたんだろう?」

「ああ、そうだが。よくわかったな?」

「家のお使いで、あの辺りはよく行くのさ。それくらい知ってらぁ」

「恐れ入ったもんだ。旦那に拾われるだけあって、お前は目端が利いて利口だな。片輪者なんぞ白痴ばかりと思っていたら」

「そいつはとんだ料簡違いだったね。手足の長い馬鹿の方が数も多いぜ」

「言いやがるなぁ」

 ずけずけ答える一寸法師の返答で、大五郎がほんの微かに苦笑した。


「朱里には、薬を飲んで養生すれば必ず治ると毎日言って聞かせているんだよ。気弱になって、隣近所が見舞いが来ても会いたがらないんだ。やつれた姿を見せたくないんだろう。女心かなぁ」

 俯きがちに呟いた亭主は、切なげな眼差しで閉じた格子戸を見つめる。戸の向こうから、篭もった咳が聞こえた。


「大五郎さんこそ、あんまり根を詰めるのは良くないよ。付きっきりで病人の世話は大変だろう」

「そうでもないさ」

「辛かぁないのかい? おれなら滅入りそうだよ」

 見上げてくる一寸法師の言葉に、大五郎は黙って足元の溝板を見つめる。路地木戸の向こうを、野菜売りが歌いながら過ぎて行った。


「いや、皮肉なもんだが、これが悪くないんだ。二人きりで静かに暮らすなんざ、所帯を持って初めてなのさ。惚れて拝んでくっついたのに、喧嘩ばかりで情けない。それが床に伏せったら、アイツは起きるのも飯を食うのも、俺がいないとどうにもならない。俺も今までアイツの無法に振り回されて、憎いようにも思ったが、ああして頼って枕元で『お前さん』と呼ばれれば、やっぱり可哀想だし何とも愛しい。それにあいつがいなかったら、俺は一日だって過ごせないんだよ。夫婦めおとの醍醐味はこういうものかと、身に染みているんだ」


 長々と語った後、大五郎は黙り込む。男の乾いた唇は、奇妙にひん曲がって笑っていた。地面に近い位置にいる一寸法師には、それがよく見えた。


「ふうん、そんなものかね?」

 少年は歯並びの悪い口で慰めるでもなく言って、短い首を傾げる。

「お前さんには、わからないだろうな」

 一寸法師を見下ろした大五郎は、再び笑みを覗かせた。


「そうだね。二、三日したら様子を見に来るよ。また何か用事があったら、おれに言いつけて構わないぜ」

 寸詰まりの手足を翻した小さな身体が溝板を蹴って飛びのくと、土埃が舞い上がる。

「ああ……」

 気の利かないぼやけた返事が、くすんだ春の風と混ざって消えた。一寸法師が草履の足でけんけんと溝板を飛び、路地木戸の辺りで振り返ると、大五郎は長屋の中へ引っ込んでもういない。


 七平長屋を含む辺り十軒が火事で焼けたのは、これより二日後だった。

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