6月26日(土) 期末試験2週間前
雨の日は、朝からテンションが上がりづらい。歩くときに濡れるのが嫌というわけではない。ただ、雨の日の満員電車は、柊がこの世で一番嫌いなものの一つだった。
ホームに滑り込む電車が満員だったときの絶望感、濡れた傘と接触してしまう不快感。荷物を下に置きたくないので腕も疲れるし、雨の日特有のまとわりつくような湿った空気も嫌いだった。
そんなわけで、電車から解放され、教室のドアの前に立ったときも、柊は機嫌の悪さを引きずっていた。意味もなくため息を付いて、ドアを一気に開ける。その瞬間、教室にいた姫川と一瞬視線が繋がったように感じた。すぐに逸らされてしまったが、どん底のテンションが少し上向く。己の単純さには柊自身苦笑するしかない。
せっかく気分が回復したので、昨日できなかった勉強を少しでも進めようと席につく。しかし、およそ朝の教室ほど、落ち着いて勉強するのに不向きな場所はないようだ。
「柊、おはよう」
教室に入ってきた昂輝が声をかけてくる。
「おはよう」
勉強の邪魔はさせまいと、最低限の応対で済ます。
「朝から勉強してんな」
「2週間前だしな」
「浅宮先生がいよいよお忙しくなる頃ですね」
「人に頼らず自分で勉強しろよ。俺だって自分の勉強したいんだよ」
「人に教えると自分でも勉強になるって言うじゃん?」
「それは俺が言う台詞であってお前が言うのは図々しいだけだ」
分かっていたことではあるが、昂輝相手に最低限の応対で済むはずがなかった。
「浅宮、おはよう! テスト2週間前だね」
唐突に会話に加わってきたのは千歳椿。中学校が同じだったため、比較的仲良くしている友人の1人だ。一方的に当てにされているとも言えるが。
こうなると勉強に戻れる気もせず、柊はこれ見よがしにため息をつきながら問題集を閉じる。
「今昂輝とその話をしてたとこ」
「そっか。また分からないところがあったら教えてもらうね」
「別に良いけど、何も分からないとか、何が分からないかすら分からないとか言うのはなしで」
「えぇ、ひどい。そもそも物理なんて分かる方がおかしいんだよ。なんで浅宮は理解できるわけ?」
「それは普段から教科書読んだり問題集解いたりしてるからね。2週間前にもなって分からないところが『あったら』って言ってる時点で、日頃全然勉強してないってことじゃん」
「だって授業が全然分からないんだもん問題集なんて解く気にならないよ」
「でもテストまでには解けるようにならなきゃいけないんだからそれじゃ先延ばしに過ぎないだろ。中間試験終わってから今まで、俺に勉強聞きに来たのって、数Iで自分が当たるときだけだよね。中間のときに試験前に詰め込もうとして失敗したのに、どうして期末でも同じことをしようとするの? 同じことを繰り返して違う結果を求めるは狂気の沙汰だってアインシュタインの名言にもあるよ。まあ、実際には言ってないらしいけど」
「確かにそうかもしれないけどさ……」
ふと気づくと、椿がなぜか今にも泣きそうな顔をしていた。当たり前のことを言っただけなのにどうしてだろう、と首をかしげながら昂輝に顔を向けると、友人は無表情ながらも少しいらだちを帯びた声で柊に言い放つ。
「柊さ、言ってることが正しいのは分かるけど、もう少し言い方に気つかってやろうな。人間正しいことばっかはできないし、苦しいことから逃げることなんて誰だってあるんだからさ。勉強がどれだけ楽しいとか苦痛とか、そんなのも人によって違うわけだし」
まるで自分が間違っているかのような言い方をされると腹が立つ。自分だって勉強は嫌だが頑張ってやっている。自分だけ苦労していないような言い方は理不尽だ。そう反駁したくなる気持ちを、ぐっと飲み込んだ。議論をしたところで、水掛け論にしかならないのは目に見えている。
「ごめん、ちょっと言い方きつかった。俺も頼られるのは吝かじゃないし、他人に勉強を教えることも好きだよ。ただ、自分で勉強にとり組む意志がなきゃって言いたかっただけ」
目を潤ませたままの椿をなだめるために、なるべく声を柔らかく、明るくして、謝罪の言葉を紡ぐ。
「過ぎたことを言ってもしょうがないし、これからでも頑張って、期末試験も乗り切ろう」
目を伏せたまま、うん、と椿は小声で返事をする。担任が入って来るまで五分ほど、気まずい沈黙が三人の中心に鎮座していた。
今日のホームルームは期末試験2週間前のため、試験時間割発表という一大イベントが発生する。試験期間は土曜に始まり、日曜を挟んで水曜までの計4日間。そのため、科目ごとに日曜より前か後ろか、ということにより、勉強計画の立て方が大きく変わってくる。そして発表された時間割は以下のようなものだった。
7月10日(土) 数I/古典/コミュニケーション英語
7月12日(月) 現代社会/生物基礎/現代文
7月13日(火) 数A/地理/保健体育
7月14日(水) 物理基礎/英語表現
口頭でしか発表されないので、手帳に書き写す。とはいえ、どうせ誰かがクラスの全体チャットのノートに貼ってくれるので、自分の手帳に写す意味はあまりないのだが。
土曜日は授業が午前しかなく、12時半には放課になる。少し急ぎ目に家に帰り、着替えて昼食を掻き込んだ後、約束の時間ちょうどに天利家のチャイムを鳴らす。待ち構えたように家から出てきたのは、昔から見慣れた後輩・天利梨紗だった。
「こんにちは。お久しぶりです、先輩。いつも来てくださってありがとうございます」
「こんにちは、久しぶり。お邪魔するね」
「はい、どうぞ上がってください」
栗色のポニーテールを跳ねさせながら、梨紗は柊を案内する。リビングで梨紗の両親に挨拶をした後、2人で梨紗の自室へ向かった。相変わらず小物の多い部屋だ。学習机の上など、ストラップにテディベアに、いろいろなものがひしめきあっている。
初めて通されたときは、女子の部屋というだけで緊張していたが、今はそれほど意識もしない。とはいえ、扉を開けた瞬間にフワリと漂う匂いには、未だに若干の動揺を抑えきれない。
椅子に腰掛けた彼女が、まず取り出したのは数学のワーク。細い付箋が十数枚ほど、丁寧に貼り付けられている。
「まず、ここの問題なんですど、模範解答をみたら一応答えは納得できたんですけど、自力で解ける気がしないんです。この問題を見たときに、どう考えたら良いんですか?」
前置きも雑談も一切なく、いきなり勉強に入る。時間あたりで料金が発生しているのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。時間を無駄にしないように、という意識を持っているのを感じる。
「あ、この手の問題を解くときにはね、ルートの中は絶対に0以上じゃないといけない、っていうのをまず覚えておいてほしいんだけど、それはどうしてか説明できるかな?」
こちらもお金を頂いている分、きちんと教えなければ、という責任感がある。分からないところを説明するだけではない。問いかけ、ヒントを出し、自分で考えて答える経験を積ませる。他人から解法を教わるのと、自分で解くのは全く違う。自転車を他人がこぐのを眺めるよりも、補助輪付きでも、自分でこぐ体験をする方が遙かに効果的なのと同じだ。横から支え、後ろから背中を押すことはしても、決して代わりにこぐことはしない。それが梨紗に対する柊の方針だった。
集中して取り組むこと2時間あまり、梨紗のお母さんがジュースとお菓子を持ってきてくれたので、いったん休憩時間とした。当然休憩時間は給料の計算にはいれない。だからこそこの時間は思う存分雑談ができた。
「先輩、桜高の話聞きたいです」
ストローでオレンジジュースを吸い上げつつ、後輩は柊の通う桜川高校の話をねだってくる。県立のトップ校や並み居る中高一貫校を抑え、県下トップの実績を出している進学校であり、梨紗の志望校でもある。
当然入るのも大変で、推薦を狙うためには部活や生徒会活動等で積極的に活動しながら、オール5の成績をキープするのが必須と言われている。それがこうして柊を家庭教師に招いている理由である。
「桜高の話って言ってもな。どんな話聞きたい?」
「えっと、じゃあ学生の話とか聞きたいです。やっぱり桜高になると変わった人とかもたくさんいるんですか?」
「いや、大体は俺みたいな普通の高校生なんだけどね、」
「え、先輩って自分が普通だと思ってるんですか?」
「え? 俺って普通だよね?」
「え?」
「え?」
「……まあ、続きを聞きましょう」
「そういうことにしておきましょう」とでも言いたげな梨紗の表情に釈然としない気持ちを抱きながらも、話を続ける。
「同級生に変な女子がいてさ、『かぐや姫』ってよばれてるんだけど」
「かぐや姫? 竹から生まれたんですか?」
「いや、竹は関係ない。ものすごい美人で男子からも人気あるんだけど、いくらアプローチされても黙殺するんだよね。それが竹取物語みたいって言う話で」
「あ、蓬莱の玉の枝」
「そうそう、そんな感じ。むしろ物語のかぐや姫は会話してくれる分まだ優しい感じ」
「そんなにですか」
「そんなに。その態度の理由聞いたら、『私が苦手なのは私のこと好きな男子なんだよね』だってさ」
「あれ、先輩は話してもらえるんですか?」
「うん、俺は向こうのこと好きじゃないと思われてるから」
「へえ、好きじゃないと『思われてる』んですね」
失言に気づいたときには、梨紗の眼が豹のように爛々と輝き始めていた。
「まあ、実際好きじゃないし」
「へえ、好きじゃないんですね」
咄嗟にごまかそうと試みるが、柊をじいっと見つめる梨紗の眼は心の奥底まで見通しているようで、冷や汗が流れる。蛇ににらまれた蛙の気分をしばらく味わった後、突如として柊は彼女の視線から解放された。その顔には、微笑ましげな笑顔が浮かんでいた。
「先輩」
「はい、なんでしょうか」
つい敬語で返答してしまった。
「先輩には、みんなから大切にされるお姫様みたいな女性は合わないと思いますよ。先輩は自分を大切にするのが下手なんだから、むしろ先輩のことを大切に、幸せにしてくれるような女性を選ぶべきだと思います」
「選ぶも何も、候補が1人もいないからね。っていうか姫川のことはそんなふうに思ってないから」
「ふうん、先輩の意中の方は姫川先輩って言うんですね」
「いや、だから違うって」
「はいはい、分かりました。じゃあそういうことにして、勉強再開しましょうか」
見事に後輩に手玉にとられた柊は、促されるように時給2000円の指導を再開するのだった。