6月25日(金)夜 お兄ちゃん、将棋しよう
柊の通う高校から柊の住む家まで、片道40分ほど。夕方まで勉強して家に帰ると、すぐに夕飯の時間になる。今日のおかずは肉じゃがだ。もっとも、弟の楓が肉ばかり食べてじゃがいもが余るため、柊にとっては「肉じゃが」というより「ほぼじゃが」であるのだが。
「柊、明日学校終わった後、何か用事ある?」
貴重な肉を弟の魔の手から救うべく確保している柊に、母が話しかけてくる。
「何もないけど、どうしたの?」
「家庭教師」
「ああ、そろそろ定期試験か」
お隣の天利家には、中3の一人娘がいる。それが部活の後輩で、しかも彼の通う桜川高校を志望しているとのことで、テスト前の時期に家庭教師をする約束になっていた。時給2000円という、高校生としては破格の待遇である。
「14時からってことで先方には連絡しておくから、遅れそうになったら梨紗ちゃんに直接連絡してもらえる?」
「はあい」
自分のテスト勉強もしなければいけないのだが、時給2000円の魅力には逆らえない。仕方ないので、その分勉強を進めておこう。そう思って部屋でノートを広げたその瞬間、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうしたの?」
柊の家族はノックの仕方に性格が出るので、音を聞けば誰なのか分かる。コン、コンとゆっくり、確かめるように2回ノックするのは妹の梓だった。実のところ、用件も聞かずとも分かっている。
「お兄ちゃん、将棋しよう」
現在小4の梓は1年ほど前に2歳上の楓から将棋を教わり、みるみるうちにのめり込んでしまった。ついには近所の将棋教室にまで通い始め、今では梓の相手が務まるのは家族で柊だけになっていた。弟の楓など、6枚落としてもらった上でぼろ負けして
「青は藍より出でて藍より青しっていうやつだね」
などと言っていた。偉そうに腕組みしていた割には、少し目が潤んでいたように見えたのは気のせいではないだろう。
「しょうがないな、1局だけだよ」
ちなみに柊は、弟には厳しいが妹にはダダ甘である。当然断るという選択肢はなく、結局梓が眠くなるまで3局ほど付き合うことになってしまった。
梓が自分の部屋に戻った後、ようやく勉強に取りかかろう、というタイミングで今度はスマホが震えて邪魔をしてくる。一瞬覚えた苛立ちは、画面に表示された名前を見て一気に吹き飛ぶ。
「もしもし」
『もしもし、こんばんは。今日はちゃんと起きてたね』
「いや、普段は起きてるからね。昨日はちょっと疲れてただけ」
『あはは。分かってるって。今日も別に用があるわけじゃないんだけど、ちょっと話付き合ってもらえないかなと思って』
「ちょうど暇してたところだし全然大丈夫だよ」
当然のように相手の都合に合わせてしまう。ついさっきイラついてたじゃねえか、と無粋なツッコミを入れる自分はとりあえず黙殺する。
『ありがと、嬉しい。気兼ねなく話せる友達って、あんまいなくて』
「あ、俺友達認定されてんだね」
『え、違った?』
「いや、ううん。俺ら友達だよね。ズッ友だよ」
『いやキモいんだけど。浅宮くんちょっとキャラ違わない?』
「ごめん忘れて」
友達認定が嬉しくてテンションが上がり過ぎてしまったので、一旦落ち着くことにした。
冷静に考えると、学校で常に女子グループの真ん中にいる姫川に、友だちがいないという発言は少し不思議に思える。
「友だちいないってどういうこと? 姫川っていつも友だちに囲まれてんじゃん。俺じゃあるまいし」
『うーん、そうなんだけどね。けど、男子相手だと仲良くして勘違いさせたくないし、女子相手でもいろいろと気遣っちゃうことって多くて……』
わずかに翳りを帯びた口調から、日頃の苦難が忍ばれる。
「人気者って楽じゃないんだな」
『他人事みたいだね』
「他人事だからね」
『それはそうなんだけどね』
「もっと親身になって聞いた方がいい?」
『いや、浅宮くんにはそういうの求めてないからいいや』
「ばっさり言われるとそれはそれで傷つくんだけどな」
『あはは、ごめん。でも、他人に興味の薄い浅宮くんだから、気負わずに話せるのかも』
正しくは「他人(ただし好きな人を除く)に興味がない」である。もちろん、今それを主張するわけにもいかないが。
『ていうか、人気者って言ったら浅宮先生だってそうなんじゃないの。よくみんなから頼られてるじゃん。友だちいないなんてどう考えても嘘でしょ』
「いや、あいつらは生徒だから。嫌われてはいないと思うけど、でも打算みたいなものを感じちゃってあんまり友だちって感じがしないんだよね。あ、昂輝は別だけど」
『武井くん仲いいよね』
「まあね」
『ズッ友なんだ?』
「ま、まあね」
『浅宮くんも照れることってあるんだね』
「照れてないから」
照れることがあるというか、むしろ彼女の前では照れていなかったことがない。
『まあ、武井くんだけじゃなくて、私だって友だちでしょ?』
その一言に、柊の耳奥で何かがストン、と落ちる音がした。あ、俺今落ちたわ、などと考える冷静な自分がいる一方で、通話している柊は頭が真っ白になっていて、言うつもりのないことを口走っていた。
「そんなこと言っちゃうから、いろんな男子から好意を集めちゃうんだよ」
『別に誰彼構わず言ったりしてないもん。浅宮くんだからこんなこと言うんだよ』
立て続けに、2回目の落下音が聞こえる。もちろん、柊は恋愛に興味がないから何を言っても好意を持たれる心配はない、という意味なのは分かっている。だからといって勘違いせずにいられるというわけではない。
「そんなこと言ってて俺が姫川のこと好きになったらどうするんだよ」
それまで小気味良いペースで来ていた返事が一瞬止まった。流石にやり過ぎたか、と激しい後悔に襲われる。このまま通話を切られてしまうんじゃないか、という不安にかられたが、次の瞬間帰ってきた返答で全て吹き飛んだ。
『浅宮くんに好きになってもらえるなら、他の男子よりは嬉しいかな』
歓声をあげそうになる。どうにかそれを抑えて、心の中でゆっくりとガッツポーズを作った。どんぐりの背比べかもしれないが、他の男子より1歩リードしているのは間違いない。
とはいえ、これ以上会話を続けるのは心臓に良くない。
「あ、冗談だからね、一応言っとくけど」
『あはは。分かってるよ』
「じゃあ、そろそろ勉強するから切るね」
『真面目だね。私はもうお風呂入って寝ようかな』
「そっか。おやすみ」
『おやすみー! また明日!』
「また明日ー」
昼も言ったな、と思いながら電話を切って、ベッドに倒れ込む。姫川には格好つけて勉強するなんて言ったが、こんな会話の後で勉強に手がつくわけがない。今日は諦めて早めに寝ることにした。