7月22日(木) 1学期終業式
「柊くん、おはよ」
「おはよう」
教室に入ると、何故か柊と昂輝の席に座って会話している2人の少女が、声をかけてきた。
「おはよー」
気の抜けた柊の返事にクスリと微笑みながら薫子は柊の机に座って椅子を空ける。
「いや、机に座んなよ」
「夏休みみんなで遊びに行きたいねって話してたんだけどさ、柊くんどこか行きたいとこある?」
「……花火とか?」
基本的にこの少女たちが柊の抗議に聞く耳を持つことはない。柊も諦めて会話に参加することにした。
「お、柊にしてはまともな案出すじゃん」
「ほんと。というか柊くんって花火のこと『炎色反応見に行こうぜ』とか言う人かと思ってた」
「いや、だから俺なんだと思われてんの」
「……物理オタク」
ぴったりと声を揃えられては、反撃の余地はなかった。
「おーし、HRやるから席つけー」
入ってきた担任をみて薫子と椿が席を立ち、重要なことに気がついて顔を見合わせる。
「昂輝きてなくない?」
結局昂輝が来たのは、校長先生のありがたい話と生活指導担当のいつも通りの注意を聞き終え、教室に戻るタイミングだった。
「終業式の遅刻って通知表に載らないから、親にバレないじゃん?」
と晴れやかな笑顔で語ってクラス中から大バッシングを受けていた。
「良いんだよ。俺どうせ推薦向いてないから一般受験だし、遅刻とか関係なくね」
そう嘯く親友に頭を抱えているうちに、本日2度目の担任の登場と相成った。その手に持たれていたのは、通知表の束。
「じゃあ通知表くばるぞー」
そう声を抱える担任に、クラス中から「えー」「いりませーん」という声が響き渡る。
「返されてこまる成績取る方が悪いんだよ。名前呼ぶから取りにこーい。相坂ー!」
「はい」
柊の出席番号は2番。相坂が通知表を受け取っているタイミングで、自分も席を立ち教壇へ向かう。
「浅宮、今回もよく頑張ったな」
返された白い紙には、予想していた通りの順位が記されていた。
「次、伊東」
返された通知表を確認しつつ、クラスメイトが通知表を受け取るのを眺める。
「姫川、頑張ったな。次もこの調子だぞ」
激励の言葉とともに受け取った紙を見て、薫子の顔が凍りつく。なぜか抗議するような視線を柊に向けてきたので、とっさに窓の外へと視線を逸らした。
「お前ら、夏休みだからって羽目外しすぎるなよー。何か問題起こしたら停学や退学もあり得るからな。危ないことはしないように、それからSNSの使い方にも気をつけるんだぞ」
夏休みの注意を簡潔に述べた担任が教室を出るや否や、薫子が席を立って詰め寄ってくる。
「ねえ、私が1位になってるんだけど、どういうこと?」
確かに答案返却日に点数勝負をした時点では、柊は薫子よりも1点高かった。しかし――
「――柊は美術がゴミみたいにできないからねー」
辛辣な口調でフォローらしきものをしてくれたのは、椿だった。
「なんせ柊、中学のときも美術と体育でどうしても5が取れなくて推薦諦めたもんね」
「まあな。体育は球技じゃなきゃ普通にできるけど、美術は4すら取るの難しかったし」
薫子は、柊と椿のやりとりをぽかんとした顔で見ている。桜高では、音楽・美術・体育等の副教科は期末の成績に算入して順位が出される。美術で学年下から1桁にランクインする柊が、薫子に勝てる道理はなかった。
「むしろ、美術その点数で学年2位ってどういうことだよ」
隣の席から昂輝が割り込んでくる。
「主要教科がよっぽどぶっちぎりだったってこと?」
「まあ、体育が筆記だったっていうのは大きいな」
そんなやりとりをしてる間に薫子は漸く状況を飲み込んだ様子で
「じゃあ、期末試験、私の勝ちってこと……?」
と呟いている。
「そりゃそうだろ、学年1位さん」
それを聞いて、呆けていたような彼女の顔に歓喜の色が広がってゆく。
「で、どうする?」
「ほぇ?」
コテン、と首をかしげる薫子は、未だ完全に状況を理解していないようだった。
* * *
「で、いいのか」
「良くはないけど、どうしようもないっしょ」
しんとした教室の中、目も合わせずに会話する2名の生徒を西日が照らしている。
「今度こそ上手くいっちゃいそうだよな」
「たぶんね。あんただってその方が嬉しいんじゃないの」
「そりゃな」
少女は突き放すような淡々とした口調で応答する。
「悪いけど、私まだあんたと付き合う気になれないから」
「見りゃ分かる」
少女は返事をする素振りがない。それを見て、少年が再度口を開く。
「しゃあないから、諦めがつくまで待つわ」
「……諦めついたって、あんたと付き合うとは限らないけど?」
「まあ、そのときはそのときじゃね? いずれにせよ他の女と付き合う気もないからな。問題はない」
「そういうのキープっていうらしいけど?」
「知ってるし、別にいい。我を何とも言はば言へってね。代わりに怒ってくれる可愛い後輩もいないしな、幸か不幸か」
「……そ、勝手にすれば」
彼女は吐き捨てるようにそういうと、鞄を持って立ち上がる。最後まで目は合わせもしない。
「じゃあな」
背後から聞こえてきた挨拶に「じゃあ」と返して教室を出る。目を見られないよう、気をつけながら。
「最後まで、カッコいいことで」
少女の後ろ姿を見送りながら零した呟きは、教室の沈黙の中をしばらく漂ってから、溶けていった。
* * *
「ねえ、ほんとに乗るの?」
「そりゃな。期末で俺に勝ったら誘ってくれるつもりだったんだろ」
「そうなんだけど。そうなんだけど! 心の準備が!」
「俺は心の準備できてるけど」
「柊くんは気づいてたんでしょ! 私が勝ってたってこと!」
焦る薫子の様子に嗜虐心が煽られて、さらにからかいたくなってしまう。薫子の手を引いてたどり着いた観覧車の下には、制服姿のカップルがずらりと並んでいて、私服やスーツ姿の大人カップルもちらほら見えた。
「ねえ、周りみんなカップルばっかじゃない?」
「そうだな。あそこの2人うちの制服だけど、先輩かな?」
「あ、ほんとだ……」
指さしたカップルの方をよく見てみれば、手がしっかりと絡み合ったいわゆる恋人つなぎ。顔を赤らめた薫子が慌てて話題を転換した。
「あっちの2人はどういう関係だろう?」
薫子が見つめる先には、恰幅の良い中年の男性と、妙齢の綺麗な女性が腕を組んでいた。
「パパとデート的な感じじゃないかな?」
「そうだよね。親子連れかぁ」
しんみりと呟く薫子と、会話がかみ合っていない気が若干したが、それ以上は触れない。突っついて何が出るか分からなくて怖い。
そんなやりとりをしているうち、彼らはだんだんと観覧車に近づいてゆく。それに呼応して、心臓の鼓動も激しくなっていった。
ついに回ってきたゴンドラに、一瞬顔を見合わせた後、2人で向かい合って乗り込む。
「……」
「……」
柊の方を向いて、口を開こうとするものの、直前で目を逸らして外を眺めるという奇行を繰り返す薫子。その仕草も可愛いらしくて、笑みが浮かびそうになるのを堪えながら眺める。気づけば観覧車は一周の1/4を消化していた。角度で言うとπ/2だ。
「俺さ、こういう円いもの見ると三角関数思い出すんだよね」
「三角関数? 円なのに?」
「うん。円周上の点のx座標とy座標って、cosとsinで表せるんだよ。円関数って呼び方の方が良いんじゃないかなって個人的には思ってる」
「……そうなんだ」
柊の言わんとしていることが理解出来ていない顔だ。というか、ここまでの説明で理解出来ている方がおかしい。
「前さ、微分と積分って話をしたの覚えてる?」
「えっと、微分は変化で積分は積み重ね……?」
「そうそう。それでさ、sinって微分するとcosになって、cosは微分するとsinが出てくるんだよね」
「はぁ……?」
薫子の頭の上には未だクエスチョンマークが浮かんでいる。観覧車はそろそろπにさしかかろうとしていた。
少し覚悟を決める時間が欲しくて、外の眺望に目を移す。
眼下には美しく整った街並み。スーツを着た社会人が忙しげに行き交っている。そしてそこから少し視線をずらせば、黒々とした海の上をかき分けて進むタンカーたち。
この街で、こんなにもたくさんの人の営みが繰り広げられていることを、実感させられる。
「柊くん?」
目の前で首を傾げるお姫様に視線を戻す。彼女に、柊の言い方は通じるだろうか。
伝えるのが怖い。こんな言い方でしか、気持ちを表現できない自分の思考回路を、これほど恨めしく思ったことはない。
それでも、伝える。誰かに借りた言葉じゃない。この気持ちは、自分の言葉で伝えなければ意味がない。
「sinはcosを変えて、cosはsinを変えるんだ。お互いがお互いを変化させながら、いつまでも一緒に円周上を回っていくんだよ」
言葉に、視線に、全てに薫子への気持ちを込めて。
「俺は変わったよ、ここ最近で。それは全部君のためだった」
合わせた視線に、ハッと気づいたような色が浮かぶ。
「もし俺が、君を変えることができてたとしたら、俺たちは2人並んで歩いて行けると思うんだ」
cosとsinはオイラー公式に寄って指数関数に結びつく。当然指数関数は正則だから、コーシー・リーマンの方程式でがっちりと手を繋ぎ、共にリーマン面を駆け上る。
そんな小難しいことは、流石に伝わらないだろう。だから、代わりにもっと簡単な言葉を、目の前の少女に贈る。ゴンドラの位置は3π/2にさしかかろうとしている。残りπ/2。それが柊に与えられた、残り時間。
「俺も、完璧な人間じゃないからさ。学ばなきゃいけないことも、成長しなきゃいけないこともきっとたっぷりある。そのとき、君が傍にいてくれたら、怖くない、絶対間違えないって確信が持てる。だから――」
そこまで言った柊の唇を、人差し指で塞ぐ薫子。
「今回は、そこから先は、私に言わせて。」
そう言ってにっこりと微笑んだ。
「柊くんが私のために変わってくれたというなら、私こそ、柊くんのお陰で変われたことがたくさんある。となりに柊くんがいてくれたら、私はもっと、変わっていける」
息を吸い込みながら背筋を伸ばして、はっきりと口に出す。
「だから、私と付き合ってください」
* * *
「梨紗ちゃん、お待たせ-」
「いえいえ、急にお呼び立てしてすみません」
梨紗ちゃんに呼び出された地元のカフェ。ストローから口を離して返事をしてくれる梨紗ちゃんの眼は、ちょっと赤い。まあそりゃそうか。たぶん私の眼だって同じくらい赤い。
「今日は、どうしたの」
二人で失恋を慰め合う会かと思いきや。
「いや、先輩と姫川先輩を別れさせる方法について千歳先輩からもアドバイスを頂けないかと思いまして」
なんて宣う梨紗ちゃん。え、梨紗ちゃん意外と黒い子?
「2学期も定期的に家庭教師には来て頂くことになると思うんですよね。なので、そこで先輩の愚痴とか引き出しつつ、クリスマス前後を目処に別れさせたいと思ってるんですよ。でまあ、別れた後は私と千歳先輩もライバルになるわけですが、現状利害は一致してるので、共闘できないかなと思いまして」
なんか立て板に水を流すようにすらすらと話してるけど、結構すごいこと言ってる自覚はあるんだろうか。
「いや、かおるん意外と執念深いから、一度捉えた獲物はなかなか放さないと思うんだけどな」
「それは、分かってます。難攻不落なんですよね?」
そう言う意味のあだ名ではないんだけど。でも、守りが堅いのはたぶん間違いない。
「正直先輩を攻略するより、姫川先輩を陥落させる方が難しいと思います。だから、先輩のご協力を頂きたいんですよ」
「え、でも親友を陥れるようなことは……」
突如バシン、と可愛らしく握った拳で机を叩いた梨紗ちゃんにびっくりして、言葉が中断される。
「良いですか、千歳先輩。恋愛と戦争は、あらゆる戦略が許されるんですよ!」
勢いよく言ってからちょこっと舌を出しつつ付け足す梨紗ちゃん。
「あ、でもNBC兵器は使っちゃダメですよ」
使わないわ! どこの世界に恋愛でNBC兵器を使うやつがいるんだよ!
「千歳先輩だって、まだ諦めてないって顔ですよね?」
畳みかけられると、流石に首肯せざるを得ない。
「ってことで、作戦会議を始めます!」
そんな後輩の勢いに押されて、気づけば相談し始めていた。
愛すべき、私の親友。難攻不落のかぐや姫の陥し方を。
最終話にして、一番物理(というか数学)ぽくなってしまいました。でも元が「sinとcosってなんだかロマンチックだな」って思って書き始めてお話でしたので、この流れもある意味必然と言えます。
あ、途中のオイラー公式とかコーシー・リーマン方程式云々は香り付けなので、ぜんっぜん気にしなくて大丈夫ですよ!
さて、このお話をもって、『難攻不落系お姫様の落とし方(※ただし重力加速度は9.8m・s^-2とする)』は完結となります。
ここまで読んで下さった皆様、感想やレビューを下さった皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
また他の作品にて皆様とお会いできることを心より願っております。





