7月18日(日) やっと分かったよ。
いつ謝ろう、どう謝ろう。
今日は朝からそんなことばかり考えてる。なんなら昨日の夜から考えてるし、寝てる間も夢の中で考えてた気がする。
「あーーー」
今も、甘えてくる飼い犬のライラプスの頭を撫でながら、気づけば深い深いため息を付いていた。
――なんだ、誰でもいいんじゃん
――真剣に悩んでた私が馬鹿みたい
自分の放った言葉が脳裏をちらついて仕方ない。馬鹿「みたい」じゃないよ正真正銘、完全無欠の馬鹿だよ気付けよそのときの私。
「ああ、死にたい」
こうやって呟くのもたぶん10度目くらい。別にほんとに死にたいなんて思っちゃいないんだ。でも、死んだらみんな可哀想に思って赦してくれるんじゃないかな、なんてつい想像しちゃう。
それか、急な病気で突然倒れて入院するとか。魔法陣が現れて異世界に召喚されちゃうとか。なんでも良いから、何か起きて私の言ったことなんてなかったことになれば良いのに。
…………分かってる。そんな都合のいいこと起きるわけない。もう高校生だもん、自分のやらかしたことの尻拭いは自分でしなきゃ。
でも問題は、柊くんが謝られて嬉しく思うのかってこと。結局謝りたいなんて私の自己満足で、柊くんのためを思うなら、私はこの死にたい気分を抱えながら彼の目に入らないところで生きていくのが一番なのかもしれない。
ああ詰んだほんと死にたい。それか入院か異世界転移か……だめだ、さっきと同じ思考に入ってる。
「薫子」
突然背後から声をかけられてビクッてなった。
「ご飯よ」
そう声をかけられて時計を見ると、確かに昼時。どうやら無心のうちに2時間もライラプスの頭をなで続けてたみたい。
お母さんと2人でボロネーゼのパスタを食べる。姫川家では食事中はしないというのがルールというか、子どもの頃からそれが普通だと思って育ってきたので、ただ黙々とパスタを口に運ぶ。
「ごちそうさま」
それだけ言って部屋に戻ろうとしたんだけど、
「薫子、ちょっと待ちなさいな」
そう言ってお母さんに引き留められる。てか、お母さんのパスタ、まだ半分くらい残ってるんだけど。いくらなんでも食べるの遅くない?
「…………」
お母さんが掬い取ったパスタをくるくるとフォークに巻き付け、口に運ぶ。その所作は洗練されてるというか、いっそ芸術的ですらある。でももう少し掬うパスタの量を増やすと、食べるスピードも上がるんじゃないかな、なんて考えちゃうから私は多分上品な大人になれないんだろうなぁ。
「ごちそうさま」
お母さんがそう言うのを見届けて、何の用か、と視線を向けたら、まあまあ、みたいな感じで手で制された。
座ってる私を尻目におもむろに席を立ち、しばらくするとポットとティーカップを持って帰ってくる。何の匂いだろうと思って、くんくん、と嗅いでみる。
「ハイビスカス?」
「そうそう。ハイビスカスとカモミールのブレンド」
どうやら半分しか当たってなかったらしい。どうでもいいけどカモミールとカシミールって似てない?
流れるような動作でいれられたピンク色の液体を口に含んでみる。思ったより酸味がきつくなくて、良い香り。
「カモミールはね、神経を落ち着かせる効果があるのよ」
そう言われてみると、確かに興奮してた神経が少し落ち着いてくる気がする。わかんない、気がするだけかも……って、え?
「お母さん、なんで」
嫌なことがあったなんて一言も言ってないのに、なんでばれてるの?
「あら、娘が2時間も犬を撫で続けてるのに、何も思わないほど鈍感ではないつもりだけど」
それは確かに、おっしゃる通りで。
「話せる範囲で構わないから、話してごらんなさい。私だって、伊達にあなたの3倍も生きてるわけじゃないんだから」
その言葉に、はっとした。椿ちゃんにも柊くんにも相談できなくて、一人ぼっちだなんて思ってたけど。話を聞いて、味方をしてくれる人がいた。
「うん……」
気づけば私はそう答えてた。でも、何から話せばいいんだろう。どこまで話していいんだろう。
「あのね、私、『好き』って言われて。柊く……クラスメイトの男子から、4日前くらいに。それがね、嬉しかったんだ……」
そんなことから、いつの間にか私は起こったことを洗いざらい吐き出していた。梨紗ちゃんという女の子がいたこと、柊くんを幸せにできる自信がなくて、断ったこと。それなのに昨日、梨紗ちゃんと一緒にいる柊くんに、酷い言葉を投げつけてしまったこと。口からこぼれ落ちる言葉に呼応するように、頬を涙がつたい落ちるのを感じる。
お母さんはうんうんと頷きながら、起こったことと思ったことを全部聴いてくれた。
「私って最悪だよね」
そう呟く私の頭を、お母さんはよしよしと撫でてくれる。
「私としては、少し嬉しい部分もあるのよ」
ちょっと何を言ってるのか分からない。お母さんの顔を見つめながら、続きを待つ。目を覆う涙の向こう側に見えるお母さんは、私の頭に手を置いたまま、言葉を継ぐ。
「だって、あなた今までそんな必死になったことなかったじゃない。感情的になった薫子なんて、見たことないわよ」
言われてみると、確かにそうかもしれない。昔から何をしても良くできたし、周りの期待にも全部答えてきたつもり。だけど、嬉しいとか、悔しいとか、嫌だなとか困ったなとか。感情が動かされるようなことは、何一つなかった……彼と出会うまでは。
「あなたは、どうして柊くんにそんなひどいことを言いたくなっちゃったのかしらね」
「……そんなの私が知りたい」
「ほんとに、分からないの?」
いや、分かるよ。たぶん、ちょっと前から、分かってた。プレゼントをもらったのは嬉しかった。放課後に公園に寄ったのは楽しかったし、告白されたら幸せな気分になった。梨紗ちゃんと一緒にいる柊くんをみたら、動揺したし胸が痛かった。
たぶんそれは、自分のことでさえなければ、ごくごく簡単な方程式。小学生の目にだって、明らかな解。解けてしまえば、なんで分かんなかったのかと、腹を抱えて笑いたくなる。
やっと分かったよ。私は、柊くんのことが――
* * *
ようやく大きな謎が一つ解けた。だけど、気づいてしまった「本当の気持ち」が、却って苦しい。
今もぼーっとしてただけなのに、気づいたら私の手は勝手にスマホを操作して、遠足の写真を開いてる。池を背にして佇むのは、微妙に遠目の距離感でぎこちなく笑う、2人の男女。椿ちゃんと武井くんは、どこまで分かっててこの状況を作ってくれたんだろう。
……なんて、余計なことが気になっちゃうから、スマホは投げ捨てておいた方が良さそうだ。
謝るべきかな。今の気持ちを、伝えるべきかな。そんな悩みが1つまた1つと、胸の底から湧いてくる。沸騰してるお湯みたいに、ぼこんぼこんと、鬱屈した感情が泡になって浮上してきて、私の心は吹きこぼれてしまいそう。
伝えたら、喜んでくれるかな。怒らせちゃうかな。それとも、とっくに梨紗ちゃんの方が大事になってて、私のことなんかもう気にしてないのかな。うん、それが一番嫌だな。
……あ、そっか、梨紗ちゃんと柊くん、もう付き合ってる可能性もあるのか。水族館のときもすごい距離感近かったし、あの後告白して付き合ったりとか。うん、私ならそうする。
てことは、今頃2人は、楽しく電話に興じてたりするのかもしれない。
ほんとだったら、その立ち位置には私がいたはずなのに。チャンスの神様の前髪、完璧に掴み損ねたなぁ。私って、ほんと馬鹿。
私のソウルジェムには、黒い靄みたいな穢れが溜まっていく。そんな嫌な感覚を、突然切り裂いて聞こえてきたのは、スマホの着信音。椿ちゃんが心配して電話をくれたんだろうか。もしかして、柊くんだったりしないかな、しないよね……。
「えっ」
努めて期待を抑え込みながら見た画面。そこに表示されてる名前は、ちょっと意外かも知れない。
『もしもし、姫川先輩、こんにちは』
「こんにちは、梨紗ちゃん」
どうして梨紗ちゃんが電話をしてくるのだろう。昨日の水族館で罵倒し足りなくて、わざわざ続きを言うためにかけてきたのだろうか。
まあ、それくらい失礼なことを言った自覚はあるし、仕方ない。
『姫川先輩、昨日は失礼なことを言ってしまって、すみませんでした』
「…………」
……あれ、なんか思ってたのと違うんだけど? なんて返す? 「あなたが謝ることじゃないよ」でいいかな。それはちょっと上から?
なんてテンパってる間に、気づけば梨紗ちゃんが続きを話し始めてた。
『姫川先輩と浅宮先輩の間の話だったのに、無関係な私が話をややこしくしてしまいましたよね。昨日は頭に血が上っていたのですが、今日落ち着いて浅宮先輩と話してみたら、やっぱり私が悪かったなって気づきました』
またも涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。さっき流しておいて、よかった。
携帯を顔から離し、小さく深呼吸。気にし過ぎてない感じで、なるべく先輩然として。だけど、誠意をこめて言葉を吐き出す。
「こっちの方こそごめん。私こそ、冷静じゃなかった。『誰でもいい』なんて、柊くんにもだけど、梨紗ちゃんに対してものすごく失礼だったよね。傷つけるようなこと言っちゃって、本当にごめんなさい」
数秒の間があいて、怖々と返事が返ってくる。
『じゃあ、昨日のことはお互い様っていうことにして頂けますか?』
梨紗ちゃん、ほんとに良い子。私がうじうじ悩んでた1日の間に、自分を見つめ直して、こうして電話までかけてきたんだ。
声に滲みそうになる敬意も自己嫌悪も、今は押し殺す。この感情を伝えたところで、きっと誰も得るものがない。
だから代わりに、はっきりとした声で、梨紗ちゃんに返事をしよう。
「うん、梨紗ちゃんさえ良ければ、だけど」
『ありがとうございます!』
声を弾ませる梨紗ちゃん。彼女の声には、重苦しい雰囲気を弾き飛ばす明るさがあって、元気づけられる。
「ところで、なんだけどさ」
『はい?』
今なら、言える気がする。私と同じ気持ちを抱く、彼女になら。ううん、言わなきゃ私は、前に進めない。
「私ね、柊くんのこと好きだ」
返答はない。さすがにびっくりさせちゃったよね。
少ししてから、受話器の向こう側で、一度吸った息を吐き出すような音が聞こえた。
『気づいちゃったんですね』
やれやれ、みたいな感じでもう一度ため息をついてる。いや、ちょっと待って。
「え、梨紗ちゃんは私が柊くんのこと好きなの気づいてたの?」
『当たり前じゃないですか。たぶん気づいてなかったの浅宮先輩と姫川先輩だけですよ』
何それ、何ですかそれ。本人が気づくより前に他人が気づいてるって何?
『まあでも、今更気づいたところで、私の方が2歩も3歩もリードしてますからね』
そんな意地悪を言ってくる梨紗ちゃんだけど、その言葉は私にとっては思わぬ収穫でもある。
「リードしてるってことは、まだ付き合ってる訳じゃないんだね」
再び返事が消える。だけど今度は、返事は待たない。
「だいぶやらかした自覚はある。けど、負けるつもりはないから」
『……そうですか』
言ってしまった。宣戦布告なんて、小説の中だけのお話かと思ってた。だけど、宣言してしまえば、失うものがなくなって、むしろ清々しい。言わば無敵状態で、気分の高揚が抑えきれない。
悩んでたのが、馬鹿みたい。彼にもさっさと、謝っちゃおうか。
怒らせるかもしれない。何も思ってくれないのかもしれない。でもそんなこと、構うもんか。勝負はまだ、始まってもいない。
「赦してもらえるのかなぁ」
誰にともなくそう呟く。通話の切れたスマートフォンを、握りしめる。これから何するかなんて、決まってる。だけどその前に、ほんの少し、時間が欲しい。
流しきったはずなのに、悲しいことなんてもうないはずなのに、なお止めどなく溢れてくるものがあるから。
それを全て流しきることができたなら、そこからが私の勝負だから。
目を軽く拭えば、画面に映る彼の笑顔は、はっきりとした輪郭を取り戻す。
負けたりなんかするもんか。私は1人、自分自身に誓いを立てた。





