6月25日(金)昼 運動方程式ってどこから出てきたの?
翌朝、ちらちらとスマホを確認していると、ようやく姫川からの返信が届いた。既読は後で付けることにして、通知で内容を確認する。
『ごめん、こっちも寝てた』
『別に用事があったわけじゃないから気にしないで』
少しがっかりした気持ちもあるが、同時に嬉しくもあった。多少なりとも好意のない相手に、用もなく電話をかけるだろうか。そんな考えが浮かぶと同時に、眠たげだった柊の心臓は鼓動のギアを1段上げた。
今日こそは何か違うんじゃないか。そんな予感と共に、柊は学校へと向かった。
柊の席は教室の最後列であり、当然後ろのドアから入った方が席に近い。しかし今日は、敢えて前から入ってみる。そうして姫川の近くを通りつつ、彼女の方へさっと視線を向ける。
ところが、今日も彼女が柊に気づいた様子はない。もちろん女子に囲まれた姫川に柊の方から挨拶する勇気もない。
仕方がないので席について、気分を落ち着かせる。
よく考えたら、姫川が昨日話しかけてきたのは、定期券を渡すという目的があったからだ。用もないのに大して仲良くもない男子に話しかけるわけはないのだ。
先ほどまでの浮ついた自分を思い出して急に恥ずかしくなる。机に伏せて虚しくふて寝をしていると、ポケットの中でスマホが震えるのを感じた。
「また教えてもらいたいところがあるんだけど、今日放課後少し時間もらえない?」
同じ教室にいては、既読を遅らせる意味もないので、二つ返事で了承した。今日も姫川と2人きり、と思うと、笑みが浮かんでくるのを抑えられない。
「柊、さっきから表情変わりすぎてキモいんだけど何があった?」
昂輝に言われ、慌てて真顔にもどる。
「いや、ちょっと思い出し笑い」
「それはそれでキモい」
大げさにどん引く動作をしながら、柊の隣に視線を向ける昂輝。つられて見れば、立っていたのは千歳椿、出席番号25番。鳶色のつぶらな瞳がトレードマークの少女だ。
「ああ、今日も数Iあるんだっけ」
「そ。で、今日は私の日だから」
「椿の日かは知らないけど、椿が当てられる日ではあるな」
同じ中学校から進学してきた椿は、クラスの女子の中では比較的気安く話せる人物でもあった。
「浅宮先生も毎日大変ですね」
「お前が言うな」
茶化す昂輝にツッコミをいれ、椿の方へ向き直る。そのとき一瞬だけ、姫川からの視線を感じたような気がした。
放課後、柊と姫川は約束通り教室に残っていた。
「それで、今日は何が分からないの?」
「えっとね、運動方程式って何なのかよく分かんなくて」
「何なのと言われてもニュートンの第2法則だけど」
「それは分かってるよ」
頬を膨らませて拗ねるような顔をする姫川。並の高校生だと子どもっぽくなるだけだが、彼女の場合はなんとも可愛らしくなる。
「ただ、あの式って唐突に出てきたじゃん。お前どこから来たんだよって思って」
「ああ、なるほど」
ここに来てようやく、彼女が躓いている部分が理解できた。
「それはね、実験事実だよ」
「実験事実?」
「そう。ニュートンの3つの法則って言うのは、何かから導き出されたものじゃない。むしろ、あれが出発点なんだ」
「出発点?」
姫川の返答がオウムのようで、少し面白い。
「実際に物を投げてみたら、物って運動するじゃん? だけど運動のしかたは、加わる力や物体の質量によって違う。だからそれを観察して、あらゆる運動を説明できるルールはないかって探してきたのが、ニュートンをはじめとする物理学者なわけさ」
「えーっと、つまり、演繹的な導出じゃなくて、帰納的に原理を探るっていうこと?」
出てくる語彙は、さすが国語で学年1位をとるだけある。オウム扱いしたことを内心で謝りつつ、会話を続ける。
「そう。その結果、当時調べられた物体の運動は、ニュートンの3つの法則さえ仮定すれば説明できる、てことが分かったんだよ。だから、これは正しいもの、出発点として、そこからいろいろなものの運動を調べましょう、というのがニュートン以来発展した古典物理学なんだよ」
「うーん」
少し抽象的な話だったためか、理解しきれていない顔だ。
「ほんとは実験事実が先にあって、そこから『帰納的に』導かれたものがニュートンの法則なんだよね。だけど、それが正しいって信じちゃうことにすると、実際の現象が『演繹的に』導出されることになるでしょ?」
そう言いながら柊は教科書にずらりと並ぶ例題を指さした。
「あ、そっか、出発点ってそういうことか」
ようやく得心がいったようで、満足そうな顔を浮かべる姫川。
「だけど、もしその法則が間違ってたらどうするの?」
「そしたら修正すれば良い。どうしたら説明ができるようになるかなって、もっと新しい法則を探さなくちゃいけない。そうなると、新しい物理学の誕生だね」
「なんか、ちょっと分かった気がする」
納得、と顔に書いてあるような満足げな表情の姫川だが、念のため釘を刺しておく。
「そっか、それは良かった。まあ、それが分かったところで試験の点数にはならないけどな」
「分かってるよ。でも、何やってるのか分かるのと分からないのとじゃ、勉強するモチベーションが全然違うから」
「そうだね、確かに」
言葉を交わし終えて、1人はそれぞれの机に向かう。かりかりとシャーペンを走らせるこの時間が、実は一番好きだった。
いつものように完全下校時刻の鐘を聞き、帰りの支度をはじめる。歩きながら姫川と話すのも、最近の楽しみの1つになっていた。
「浅宮くんって、なんでそんなに物理できるの? 私あの先生の言ってること1ミリも理解できないんだけど」
その質問は一見もっともだが、その実大きく的を外している。思わず苦笑をもらしながら答える。
「俺もあの人の授業全く聞いてないよ」
「はっ?」
姫川の顔が凍りつく。クラスメイトが見ていたら、翌日からあだ名が「氷姫」に変わってしまうのではないだろうか。
「じゃ、じゃあなんで物理できるの?」
「授業聞くのは時間の無駄でしかないからさ、その時間教科書読むのにあててるんだ。あとは図書室でブルーバックスとか借りて読んだりしてると、さっき話したような物理の『鳥瞰図』みたいなのが見えてくるんだよ。それを念頭においてしっかり教科書読めば、そんなに難しいことは書いてない」
「そうなんだ」
予想外の回答だったようで、姫川は暫く衝撃から立ち直れないようだった。
「っていうか、浅宮くんからしてもあの先生の授業って分からないの?」
「分からないっていうか聞く価値がない、かな。旧帝大卒だかなんだか知らないけど、自分が頭が良いことをアピールしたいだけだから、生徒に分からせる気が全然ない。むしろ、生徒が分からないような難しいことが分かる自分に酔ってる感あるし、あんなの聞いても百害あって一利ないよ」
「そ、そうなんだ……ふふっ」
目を丸くして柊をみていた姫川は、次の瞬間唐突に破顔した。
「浅宮くんって、意外と毒舌なんだね。あんまり話したことなかったから知らなかった」
「うーん。毒舌というか、思ったことは言っちゃう性格かも。周りへの配慮とかするべきなんだろうけど」
「いいんじゃない。正直な人、わたしは好きだよ」
不意打ちのような姫川のセリフに、柊の心臓が飛び上がる。決して異性としての「好き」ではない。そう頭では分かっていても、心臓は言うことを聞かず、勝手に動悸を速める。動揺を悟られまいと、意識して平坦な声で流しにかかる。
「そんなこと初めて言われたよ。ありがと」
「いいよ。私も思ったこと言っただけ」
ちょうどそのタイミングで、二人は改札を抜ける。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
「また明日、か……」
エスカレーターを降りる彼の顔は、普段より明るい様子だった。