7月16日(金) ほんっと、サイテーだ
夢を見ていた。内容は覚えていないが、温かくて優しい、包み込まれるような、いつまでも見ていたい夢だった。
けれど、いつもの起床時間になると、仕事熱心なアラームが粛々と金切り声を張り上げ始め、彼は冷たい現実へと引き戻される。
「アラーム切んの忘れてた……」
優しい夢に縋るように布団に顔を埋めるが、今日に限って二度寝できそうにもない。考えてみれば、昨日は21時頃には布団に伏せっていたのだから、無理もないことだった。
仕方なく身を起こすことにした。明かりを取り入れようとカーテンを開けてみるが、窓の外は分厚い雲に蓋をされ、薄暗い。昨年ならとっくに梅雨明けしているはずの時期だが、今年の梅雨は長いようだ。
なんとも言えぬ気分のまま、ただ黙々と着替えて、朝食をとり、歯を磨いて自室に戻る。愛しのベッドにどしん、と倒れ込んでみる。身体が布団に包まれる。しっかりと自分を支えてくれるその感覚が、なぜだか今は現実味を伴わず、自分がどこまでも沈み込んでいくような錯覚にとらわれた。
正直、何もかも、どうでも良かった。
窓の桟からは、カンカンと何かのぶつかる音が聞こえ始めた。
思えば高校に入ってから、柊の意識の中には常に薫子がいた。勉強を頑張っていたのすら、彼女に負けたくない、という気持ちが大きかった。彼の高校生活は、紛れもなく彼女を中心に円運動をしていたのだ。
その回転軸をいきなり引っこ抜かれた彼は、向心力を失って、無気力と虚脱感の海に突っ込んでいた。
無聊を慰めるようにスマホを開いてみたところで、並ぶゲームアプリに食指が動かない。気付けば眺めているのは薫子とのトーク画面だった。
『浅宮くんに好きになってもらえるなら、他の男子よりは嬉しいかな』
「だから今日は浅宮くんと話し足りてない……」
『楽しみにしてる』
彼女にかけられた言葉の一つ一つが、鮮明に思い出される。
どんな気持ちでこんな言葉をかけたのだろう。付き合えないというのなら、どうして優しくしたのだろう。
そんな態度だから、恋心がここまで膨らんでしまったじゃないか。
君は優しすぎるから、今も気持ちは膨らみ続けてるじゃないか。
考えても栓のないことと知りながら、湧き上がる雑念を止められない。
好きになったのは自分だ。自分の想いを他人のせいにするのは、どうしようもなく格好わるい。それが頭では分かっていても、柊の心は薫子を糾弾しようとする。
薫子を不誠実だと詰る自分と、責任転嫁を嫌う自分が取っ組み合いの喧嘩を始めたせいで、ただでさえ傷を負った柊の心はさらにボロボロになっていく。
しかし、そもそも柊に薫子を責める権利はこれっぽっちもない。不誠実といえば、柊自身の方がよほど不誠実な人間なのだ。それを自覚したのは、その日の夜になってからだった。
『もしもし、こんばんは、先輩!』
無気力と倦怠に身を委ね、時計が時を刻むのを眺めて過ごした一日が終わろうとする頃。柊は、自分でも正体の分からぬ感情の言うなりになって、携帯のスピーカーを耳に当てていた。自分自身を苛烈に責め立てる良心には、さながら鈍感系主人公のように気づかない振りをしつつ。
『突然どうしましたか? 可愛い後輩の声が聞きたくなりました?』
一日ぶりに聞いた梨紗の声は、いつも通りテンション高めではあるものの、押しつけがましい感じはない。少し耳がくすぐったいが、疲弊した心に沁み込んでいく、そんな声だ。
「まあ、そんな感じ」
『あれ? 先輩が素直なんですけど! どうしちゃったんですか?』
「そういう気分のことだってあるさ」
『はぁ』
何かに納得したように相づちを返す彼女は、きっといつもの目をしてるに違いない。「分かってますからね」という、微笑ましげな眼差しだ。
『先輩、明日空いてますか?』
「空いてる」
『じゃあデート行きましょう!』
「部活ないの?」
『ありますけど、明日は突然腹痛が起きて休みます。今決まりました!』
推薦入学を狙う彼女にとっては、部活動の実績や態度も大切なはずだ。そうでなくとも、柊が知る限り梨紗が仮病でズル休みをしたことなど一度もない。
そんな後輩が、自分のためにそこまでしてくれるという事実に、柊は救われた気分になる。
それと同時に、自分のみっともなさが嫌になる。この一途な後輩に電話をしたら、元気な声で慰めてくれるだろうと、柊の心に空いた隙間を「好意」で埋めてくれるだろうと、分かった上で電話をしているのだから。
その証拠に、気付けばデートの誘いに対して「別にいいよ」という言葉が口からこぼれ落ちていた。
『ほんとですか!? やったー!』
受話器の向こうではしゃぐ梨紗に、なけなしの良心がきりりと痛む。
それなら断れば良いじゃないか、そんなふうに声高に主張する柊の理性は、梨紗を求める茫洋とした感情の前にあまりにも無力だった。
『先輩昨日動物園いったんですよね? だったら、明日は水族館にしましょう!』
動物園に張り合うように出されたその提案は、もしかしたら姫川への対抗心から来るものだったのかもしれない。
そんなことに気づいたのは、梨紗を迎えに行く時間まで決まって、電話を切った後だった。
「ほんっと、サイテーだ」
何が最低なのかもよく分からないまま、独り言を吐き出した。
そんな最悪な気分でも、梨紗の声を思い出すと不思議と心が落ち着く。一日中降ってなお勢いを強める、無神経な雨の音さえも、今は子守歌のように柊を優しく眠りへと誘うのだった。





