7月14日(水) Though love is still ill-defined, ...
目覚まし時計がなる前に目が覚める。起きる時間までまだあと30分以上あった。寝直そうとしばらく枕に顔を埋めてみたが、全く寝られる気がしない。そうしていても余計なことを考えてしまうだけなので、身体を起こして勉強机に向かうことにした。
家の中はまだ誰も起きていないようで、物音1つ立つ様子がない。英単語をまとめたノートを開いて裏紙に単語を書き出していくと、シャーペンのこすれる声だけがカリカリと心地よく響く。
define は、「定義する」という動詞で、名詞形はdefinitionだ。
destroy は動詞で「破壊する」の意味。昔見たアニメに出てきた「デストロイヤー」という悪役を思い出す。
determine ―― 動詞で「決める」、名詞形はdetermination。
「はぁ……」
文字を見て思わずため息が漏れてしまうのは、「決意」ができていない自分のみっともなさを自覚しているからだろうか。我ながら情けなくて、思わず失笑が漏れた。
die ――「死ぬ」
disappear ――「消える」
dislike ――「嫌う」
嫌がらせのように雁首を並べるネガティブワードをノートに書くうち、せっかくのやる気がじりじりと削れていく。
extinguish ――「消滅する」
fail ――「失敗する」
「……ああ、もう嫌だ」
ついに、柊は単語帳を投げ出してベッドに戻り、スマホを手にした。何も考えまいと適当にいじっていると、気づけば彼の指は姫川とのトーク画面を開いている。うまくいくのか、いかないのか。そんなことを考えながら会話を遡ってみるものの、答えが出るはずもなく、不安は増すばかり。
そんな無為な時間の使い途に身を委ねるうち、リビングの方から物音が聞こえてきた。トーストが焼ける匂いに、目玉焼きのぱちぱちという音が重なって、ようやく柊の身体は朝を認識し始める。
「うんしょっと」
軽く弾みを付けて起き上がり、リビングに出る。目玉焼きを焼いている母と、仕事のメールをチェックする父に「おはよう」と声をかけた。
「おはよう、柊。今日は早いのね」
「おはよう。コーヒー淹れるけど柊も飲むか?」
「んー。なんか目が覚めちゃって。飲む-」
普段はあまり好まないコーヒーだが、今日は無性に飲みたい気分だった。洗面所で顔を洗ってから、父親からコーヒーカップを受け取って口を付ける。
「苦っ」
今日ならブラックでも飲めるような気がしたのだが、勘違いだった。平然とした顔を取り繕ってミルクと砂糖を投入する。
「それだけで足りるのか?」
「足りる」
にやりと口元を歪める父親を睨みつけながら、再び口を付ける。正直まだ苦かったが、無理矢理笑顔を浮かべて飲み切った。
柊が部屋に戻るのを待ち構えていたかのように、携帯にメッセージが届く。
『今日、どうする?』
姫川だ。「空けといて」とは言ったものの、具体的なことを何も伝えていなかった。
『放課後、少しだけ寄り道したいところがあるんだ』
『どこ?』
いつものことながら、姫川の既読と返信は随分と早い。
『内緒』
既読は付いたが、返信が止まった。断られるだろうか、もしかしてこのまま無視されるのかもしれない。心臓の鼓動の1回が、1時間よりも長く感じられて、不安がどんどん高まっていく。だめだったのかな、と思った頃にようやく返事が返ってきた。
『分かった』
『楽しみにしてる』
ほっと胸をなで下ろすが、これ以上は心臓が保たない。震えている指を必死に動かし、話題を変えた。
『テスト、負けないからな』
言葉での返信はなく、代わりに針を逆立てて威嚇するハリネズミのスタンプが送られてきた。
「おはよう」
教室につくや否や、声をかけてくるのは親友の昂輝。
「この問題ってさ……」
当たり前のように柊の机に問題集を広げると、唐突に質問を始める。時間もないことだし、余計な前置きがないのは柊としても有り難いのだが、納得しがたい部分がないこともない。
そんな柊にはお構いなしに分からないところを列挙する昂輝に、柊は一問ずつ丁寧に教えてやる。お陰で、薫子とも椿とも目を合わせずに済んだのが、多少の救いだった。
当然と言えば当然だが、物理の試験で苦労するところはなかった。何せ、問題集の中でも難しいものや重要なポイントは、幾度となく同級生に一から解説しているのだ。今更苦労しろという方が難題である。
「英語表現はどうだった?」
試験が終わり、教室が夏休みの到来に沸く中、昂輝に訊ねられる。
「うーん、まあまあ。90点はいくっしょ」
「90点でまあまあかよ」
呆れたような顔を浮かべる昂輝。
「でも、fail の名詞形が分からなかった。しっかり単語帳見ておけば良かったわ」
「柊にもそんなことあるんだな」
「たまにはね」
そう言いながらちらりと薫子の方を窺うと、帰りの支度が済んだ様子だ。それを見て昂輝も何かを察したらしく、ぽん、と背中を叩かれる。神妙な顔ながら口元がひくついている昂輝の表情が鬱陶しくて顔を逸らすと、少し離れた席からこちらを見ていた椿と目が合った。彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに余裕をとりもどして笑みを浮かべる。
なんとなく「頑張れ」と言われている気がしたので、心の中で「頑張る」と返事を返し、薫子を迎えに席を立った。
「で、今日はどこいくの?」
駅までのんびりと歩きながら、薫子に尋ねられる。
「まだ内緒だよ」
「えぇー……」
お互いに上手い返しが思い浮かばない。沈黙を振り払うため話題を変える。
「fail の名詞形って何だっけ」
「failure だよ」
「そっか」
再び沈黙。焦って次の話題を探す。
「今朝、コーヒーブラックで飲んだ。そしたらね」
「ふんふん」
「思ったより苦かったんだ」
「いや、そりゃそうでしょ。なんでブラックで飲んだの?」
「いや、なんとなく? 親父にめっちゃ笑われた」
「想像つくー。どうせこーんな顔してたんで……って大丈夫!?」
薫子が顔をしかめて見せたのがあまりに可愛くて、見とれていたら電柱にぶつかった。薫子が大慌てで心配してくれたが、なんともないのが分かると腹を抱えて笑い出した。
「そんなぶつかり方、漫画以外で初めて見たよ」
薫子が笑いすぎて息が苦しそうだ。柊としても死ぬほど恥ずかしかったが、彼女が笑ってくれて空気は軽くなった気がした。
「薫子が可愛かったから、ついね」
「あはは、なら仕方ないね」
軽く入れてみた探りは、あっさりと流される。
「え、もっと照れるとかないの?」
「言われ慣れてるから」
「そりゃそうか」
余裕のドヤ顔を見て、探りを入れようなんて考えたことを後悔し始める。どうせ今更引き返せないというのに。
「どっち行く?」
改札を通って薫子に聞かれる。
「あっち」
向かうのは、普段柊や椿が使っている側のプラットホーム。普段使わないホームから見る景色は、薫子には新鮮だったようで、興味深そうにキョロキョロと周りを見回していた。
そこから5駅ほど電車に揺られた後、地上に出る。
「それにしても、あっついね」
手で顔を仰ぎながら姫川が呟く。確かに、7月の半ばともなると流石に暑い。
「アイスでも買う?」
「そうしよ!」
柊の提案に一も二もなく飛びついた姫川は、目を輝かせて視界からコンビニを探し出し、いそいそと中へ入っていった。
「これでいいかな?」
首をかしげて柊に訊ねる姫川の手からアイス最中を取り上げて、レジへ向かう。姫川が財布を出す前に電子マネーで支払いを済ませた。
「えっちょっと、どういうこと?」
慌てる姫川の手を取って店外に出ると、アイス最中を割って薫子に渡す。
「今日は奢ってやる気分なんだよ」
「ええ、でもそれはなんか悪いって言うか」
「いいんだよ。気分の問題」
少し不満げな姫川を無視してアイスにかぶりつき始めると、薫子も観念したようにため息をつく。
「ちゃんとお返しはするから……」
「はいはい」
半分ずつのアイスを手に坂を上るうち、前方から涼しげな風が吹いてきた。微かに潮の匂いが乗っているのを、確かに感じる。
さらに上りつづけて公園に入ると、イギリス風の庭園が現れた。トンネル状の支柱をつたって、緑の蔓が二人の頭上を覆っている。その隙間を通り抜けてきた日光に照らされて、白やピンクなど、色とりどりのバラの花が散りばめられていた。
「あ、このバラ綺麗!」
最盛期を過ぎたとは言え、見事に咲き誇るバラの花は、確かに薫子の心を打ったようだ。
「ここが、寄りたかったところ?」
首をかしげる彼女にゆっくりと首を振ってみせ、そのまま庭園を抜ける。すると、緑色のカーテンが開くように、一気に視界が広がった。
薫子が、展望台の柵まで駆けよる。それから、おもむろにこちらを振りかえって、柵にもたれかかるような体勢になった。背景には突き抜けるような青空。眼下には碧色の港湾がどこまでも広がり、彼女の髪は潮風になびく。柊の目の前で微笑む少女は、テレビで見るどんな芸能人よりも、間違いなく綺麗だった。
薫子から目を逸らすことができず、目を合わせたまま1歩、2歩と距離を縮める。それにつれて、彼女の顔つきも少しずつ真面目なものに変わっていった。
「姫川」
「はい」
彼女の目は、時折風で張り付いた髪に蓋をされてしまう。それでも、彼女がじっとこちらを見つめているのは分かった。
「俺は、姫川が好きです。初めてあったときから、好きです」
自分の言葉を確かめるように、噛みしめるように、一単語ずつゆっくりと絞り出す。彼女の表情は、変わらない。
好きとは何なのか、定義を見つけることはできなかった。梨紗や椿がしてくれたように、はっきりと言葉にすることができない。それでも、二人の瞳の奥に見えた感情と、憧憬。それに似たものは自分の中にも感じられた。
心臓はけたたましく音をあげている。柊の心からあふれ出した熱は、血流に乗って体中を火照らせている。その全ての熱量を言葉に込めて、放つ。
「だから、俺と付き合ってもらえませんか?」
薫子は少し困ったような表情を浮かべ、何秒か視線を彷徨わせる。それから、意を決したように視線を再び柊に向け、おもむろに口を開いた。
「私、自分の気持ちが分からないんだ」
ああ、遠回しに振られてるのかな。そう思ったのが顔に出てしまったようで、薫子が慌ててそれを否定する。
「今すぐは結論出せないから、少し考えさせてもらえないかなって思って」
「――分かった」
安堵と、不安と、少しの期待と。複雑にブレンドされた感情を飲み込んで、一言だけ、絞り出す。
「男子に好きって言われて嬉しかったのなんて初めてだし、柊くん以外だったら2人で寄り道なんて絶対しない。だから、柊くんは私の中で『特別』なのは間違いないんだ。だけど、それが『好き』ってことなのか、もう少し考えてみないと分からない」
薫子の真剣な表情からは、「適当な返事はしたくない」という固い意思が伝わってきた。だが、薫子の言を聞く限りでは、可能性はまだ潰えていないようだ。
「もちろん、待つよ。ゆっくり考えて」
気づけば止まっていた息と一緒に、返事を吐き出した。
「ありがとう」
二人を重苦しい空気が包み込む。それを敢えて気にしていないような顔をして、港の方へと視線を向ける。二人で並んで柵にもたれかかり、船が忙しく出入りするのを眺めた。
「ここ、来てみたいとは思ってたんだよね」
柊の隣で薫子が独り言のように呟く。返事をするべきか迷っていると、彼女は顔をこちらに向けた。
「連れてきてくれて、ありがとう」
髪を抑える彼女の顔には笑みが浮かんでいたが、瞳には一瞬だけ懊悩の色が見えた気がした。
「じゃあ、帰ろうか」
一緒にお昼でも、という空気でもなかったので、柊の方から声をかける。
「うん」
薫子もそれに頷いて、一緒に坂を下り始めた。
「……あの、さ」
隣を歩く少女が、言い出しにくそうに切り出してくる。
「柊くんは、私のどんなところが好き?」
そう聞く彼女の横顔が少し赤いように見えるのは、柊の希望的観測だろうか。
「頑張り屋なところかな。なんにしてもストイックって言うか。嫌いな科目を放置しないで、克服しようとするあたりが」
「それは柊くんだってそうじゃないの?」
指を顎に当てて、小首をかしげる薫子。その仕草のあざとさを、彼女は自覚しているのだろうか。
「俺はさ、好きなこととか、得意なことだけやってるんだよ。どちらかと言えば、苦手なことからは逃げるタイプ」
相手がまだよく分かっていない様子なので、補足した。
「俺、テストの成績はいいけどさ、美術とか体育は昔から苦手なんだ。美術なんて4以上をもらったことないし、体育だって球技が絶望的にできなくて。だけど、薫子はどんな科目でも、どんな分野でも、人に負けることを良しとはしないでしょ」
少し恥ずかしくなってくる。薫子の顔を見ないように、一気に話しきった。
「薫子って、本当に天才なんだと思ってたんだけどさ、でも、薫子にも苦手なものだってあるわけでしょ。物理とか、物理とか、あと物理とか。そこから逃げないで頑張る姿が、眩しくて、憧れてるんだと思う」
姫川からの返事がない。少し気になって隣を窺うと、真っ赤な横顔が見えた。口を開けそうな様子ではなかったので、話題を変えてみる。
「だから、テストでだけは負けるわけにはいかないんだよね」
安い挑発だが、案の定負けず嫌いの少女は即座に乗ってくる。
「今回は学年1位は私がもらったから。答案返却が楽しみだね」
「望むところだよ」
そう返したところで、改札に着く。当然ながら柊と薫子は逆方向だ。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
いつも通りの挨拶を交わし、手を振って別れる。
「はぁ……」
ため息をつきながらエスカレーターを下る。「特別」ではあるが、「好き」かどうかは分からない、その気持ちは柊にもなんとなく分かる。柊は彼女が好きだという結論に達したが、彼女はどういう結論を出すのだろうか。
「はぁ……」
明日の遠足はどんな気持ちで臨めば良いのだろうか。昂輝はともかく、姫川がいて椿もいるのが、若干気まずい。今まで通り接することができるだろうかという不安を胸に、彼はエスカレーターを下っていった。
初デートでした。
高校生の告白の場所としては校内とか下校路が自然かなとも思ったのですが、柊の思考回路を全力で追った結果、こうなりました。





