冬来たりなば、春遠からじ
――あーあ、運命かもって、思ったのにな
あれは、何年生のときだっただろうか。お母さんに、名前の由来を尋ねたことがある。
「ツバキはね、冬の終わりに咲くお花なの」
お母さんは紙に大きく「椿」と書きながら、にっこりと微笑んで教えてくれた。
「木へんに春って書いて椿。ツバキはね、さむーい冬を終わらせて、春を連れてきてくれるお花なんだよ」
そう言いながらお母さんは私の頭に手をぽんと乗せた。
「冬、寒がってる人のところに、春を連れて行ってあげる人になって欲しいなって。それが、あなたの名前の意味」
それからお母さんは私に難しい言葉を教えてくれた。
「『冬来たりなば、春遠からじ』っていう言葉があってね」
「きたりばなー?」
「ううん。『来たりなば』だよ。つらーい冬が終わったら、暖かい春が来るからねっていう意味の言葉」
「ふぅーん」
そのときは、お母さんの言葉の意味を1割も分かっていなかった。だけど、大きくなると、少しずつ分かるようになった。それと共に、私はいつか運命の人に、春をもたらすんだって、そう思うようになってた。
私があなたと、はじめて同じクラスになったのは、中3のときだった。あなたは、いつもみんなに囲まれていた。
「ごめん、ここ教えてくんない?」
「今日提出の宿題写させて!!」
あなたは人の頼みを断らない。周りにたくさんの人がいたから、あなたは「春」の世界の人間なんだって私は思ってた。
だから、ある日廊下でたまたま聞こえてきた会話に、耳を疑った。
「浅宮、また翔に喧嘩売ってたよ」
「まじ? 大丈夫なん?」
話していたのは、あなたと仲良しで、しょっちゅう宿題を見せてもらっていた2人。片方は陸上部のはずだった。「翔」が陸上部のエース・赤羽翔を指すというのも分かる。何か確執でもあったのだろうか。
「んなわけ。翔マジおこだから。宿題見せてもらうのもやめた方がいいかも」
「まじかー。あいつ便利だったのになー」
「それな。けど翔を怒らせない方が大事だろ」
「言えてる」
信じがたい会話だった。聞き間違いだと思った。だけど確かに、その日あなたに話しかけた者はいなかった。
数日後には、赤羽の怒りも収まったらしく、またあなたの周りには人が集まるようになっていた。
「宿題見せてもらえない?」
恥知らずなことを言う彼らに、にこやかに宿題を見せてやるあなたの目は、その実冷えきっていた。それを見て、私はやっと気づいた。あなたが、名前の通り、極寒の「冬」の中で立ちつくしていたことに。みんなに囲まれていても、実は一人ぼっちだったということに。
それ以来、私はあなたに積極的に話しかけにいくようになった。
「ねえ、浅宮、この図形が動く問題訳わかんないんだけど」
「きちんと図、書いた? まず、台形と長方形が重なり始めるのは……」
丁寧で優しい口調と裏腹に、あなたの目はやはり冷たかった。それが少しむかついたから、思い切って聞いてみた。
「浅宮って、どうしてこういうの、断らないの?」
自分も質問しておいてどの口が、という話だよね。なのにあなたは怒りもせずに、優しく答えてくれた。
「別に、教えたところで減るもんじゃないしね」
「ああいう奴らに聞きに来られて、不愉快じゃないの?」
「まあ、面白くはないよね。こないだなんて『お前便利だよな』とか面と向かって言われたし」
面白くないと言いながら、話す口調は淡々としてた。
「でもそれで誰か幸せになるなら、それでいいんじゃない?」
「そうかもしんないけどさ……」
平然と言うあなたを前に、私の方が泣きそうだった。
あなたは、それで良いの? どうしてそうやって、自分を切り売りするようなことをするの?
どうしてあなたはそんなふうに、笑っていられるの?
「――なんで、あんなやつらを自分よりも優先するの?」
うーん、と首を傾げて考え込んだあと、あなたは笑顔で答えてくれた。
「――あんなやつらでも、僕を必要としてくれるから、かな」
だけど、そう言うあなたの声の調子がわずかに変わったことに、私は気づいた。飄々としていたあなたの声は、確かに少しだけ上ずってた。傷ついてない振りをするあなたの目は、必死で涙をこぼすまいとしていた。
だから分かったよ。
あなたは1人で冬を耐えしのごうとしてるんだね。分厚いコートをまとって、寒くなんてないって唱え続けて。
だったら、私は、あなたの冬を終わらせよう。あなたのもとに、春をもたらそう。
「私は、椿だから」
「え、うん。千歳さんの名前が椿なのは知ってるけど?」
怪訝な顔のあなたに笑顔を向けた。1人じゃないよ、と伝えるように。
「そうじゃなくて。私のことは『椿』って呼んで」
「お、おう……」
見つけたと思った。私の「運命」が、ここにあったと思った。
それから私は、とにかくあなたに話しかけた。志望校が同じっていう共通項もあったから、一緒に頑張ろうねって頷き合った。私は推薦で一足先に合格を決め、あなたの応援に回ったけど、あなたが落ちるはずないのも、分かってた。
だけど、最後まであなたが私に向けるのは、達観したような眼差しだった。心に巡らせた棘を失うことなはなく、一定以上近くには他人を近づけないようにしていた。
私が胸に秘めた気持ちにも、気づく素振りはなかった。
それでも、高校生になってその瞳を輝かすのは私だと、思い込んでいた。あなたは私の運命の人なんだ、だからあなたの冬は私が終わらすんだって、無邪気にも決め込んでいた。
その感情に私は「恋」と名前をつけた。
押しつけがましい私の慈しみは、いつの間にかあなたへの「恋」に変わっていたんだ。
そして確かに、あなたの冬は終わろうとしていた。初めてそれに気づいたのは、6月のことだった。
ある日、私はあなたにたしなめられた。そのときは理不尽だと思ったけど、翌日には和解できて、その瞬間は、前よりあなたと仲良くなれた気がした。結構、嬉しかったんだよ。
そこから一気に突き落とされたのは、放課後のことだった。
あなたが、彼女と話しているのをみたときのことだった。
「姫川、今日は部活ないの?」
「あるんだけど行きたくないんだよね。先輩からの連絡まだ既読つけてなくて、会いづらいんだ」
「ああ、それは行きづらいね……。参加しなくて怒られたりはしないの?」
私は目の前の光景が信じられなかった。あなたが、彼女と喋ってたからじゃないよ。彼女と話すあなたの虹彩が、輝いていたから。私や昂輝に向けたことのない、綺麗な眼差しを向けていたから。
その感情には見覚えがあった。私の本能が、これ以上ないほどはっきりと、私に教えてくれた。
あなたは、彼女に「恋」をしていた。
私はあなたの運命の人じゃなかったって、私はそのときやっと気付いたんだ。
あなたの冬は終わり、春が訪れようとしていた。そのことが、嫌で嫌で仕方がなかった。春の訪れと共に咲くはずの私が、春を拒絶したがってるなんて、なんという皮肉だろう。
それでも私は、あなたの幸せを願うよりなかった。だって、それさえ失えば、私は椿でなくなってしまうから。
ねえ、一緒にドリア食べながら、私はどんな気持ちだったと思う? どんな思いで、あなたの背中を押したと思う?
気づいてもらえなくてもいい。あなたが幸せになる、手伝いができたこと。それを、自分が知ってれば、それで良い。そう思ってたはずなのに、心の痛みは増すばかりで、私はどんどんあなたに嘘が付けなくなっていった。
何より、あなたは私の「好き」を問うてしまったから。それは、私の全てだったから、ごまかせなかった。
結局、人知れず戦う正義のヒーローの真似事なんて、私には荷が重すぎたんだ。
「あーあ、運命かもって、思ったのになー」
机に突っ伏したまま、愚痴るようにひとりごつ。昨日、私はあいつに振られた。まあ、知ってたよ。あいつがかおるんのこと好きなんてこと、気づいてなかったのは当の2人だけなんだから。むしろ、振ってもらえて、ほっとした。
「さて、かおるんはなんて返事するのかにゃー」
おどけて口にしてみるが、キャラにあってなさ過ぎて悪寒がした。
「はぁ。あいつ、うまくやってんのかなぁ」
呟きながら、私は立ち上がって伸びをする。今日は試験最終日だから、教室にはもう誰もいない。私もこんなところで失恋引きずってないで、部活いかなきゃ。
「椿」
教室から出た私を呼び止めたのは、昂輝だった。
「何? 待ち伏せ?」
からかうように言ってみたが、真顔でスルーされてる。
「柊に告ったのか」
「ふふっ。耳が早いことで。柊から聞いたの?」
「聞いてないけど見てれば分かる」
そりゃそうだ。あいつは分かりやすいから、何考えてるかなんてすぐ分かる。
「それで……」
「分かるでしょ。聞かないでよ」
嫌なやつ。当然昂輝も顔色1つ変えない。
しばしの沈黙が、私たちを包み込む。このまま昂輝を放って部活に行くこともできるんだよね。何言おうとしてるかなんて目を見たら分かるし、私の返事だって彼はきっと察している。
それでも、聞くだけ聞くのが、誠意っていうやつなんだろう。
「それでも、気持ちは変わらないのか」
あくまで真剣に、私の目を見て問いかけてくる。
「――ごめん……」
「そっか」
まあ、そうだよな、と昂輝がヘラヘラ笑い出す。
「じゃあ、私部活行くから」
「おう、いってら。てか、俺も行かなきゃ」
軽く手を挙げて、笑顔で別れる。皮肉なことに、今のあいつの気持ちが1番よく分かるのは、たぶん私だ。私の気持ちが1番分かるのは、多分あいつだ。
だから、笑顔で挨拶をする。
「じゃあ、また明日」
「おう、また明日」
相手の瞳が濡れていたことには、どちらも触れない。お互いの鏡像に背を向けるみたいに、同時にくるりと踵を返して歩き出す。だけど、やっぱり笑顔を保つのがキツくなって、途中から走り出した。





