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7月13日(火) そんなものは、さっさと捨てなきゃ

「行きたくねぇ」


 朝目覚めたときの第一声はそれだった。試験の日でさえなかったなら、本当にサボっていたかも知れない。しかし、今回のテストは薫子に勝つ、と決めていたので、いやいやながらも学校へ行くより他に選択肢はなかった。いつもより時間をかけて朝ご飯を食べ、ゆっくりと歩き、それでも10分前には学校についてしまった。


「柊、おはよう!」


 彼女は、ニコニコとした顔でいつものように話しかけてくる。その手には数学Aの問題集。


「お、おはよう」


「あのさ、この問題なんだけどさ、解答にある÷6って何?」


 普段となんら変わらない話しぶりに面食らってしまうが、柊もそれにあわせていつも通りに返事をする。


「ああ、それはさ、3つの箱を区別しないって問題文に書いてあるでしょ。だけど、最初は……」


 ふんふん、と頷きながら柊の解説を聞く友人の姿に、昨日のことは夢だったんじゃないか、それか柊の思い違いだったんじゃないかという考えが頭をよぎる。だが同時に、まぶたの裏に焼き付いた彼女の表情が、その考えを許してくれない。


 ただ、今までと同じように接してほしいというメッセージなのだろう。それが彼女の『好き』の形なのだと。


 それが分かるからこそ、柊は唇を噛みながら、道化のように「今まで通り」を演じ続けた。





 その日の放課後は、昨日以上に忙しかった。何せ、翌日には物理基礎のテストがある。大半の生徒が物理基礎を苦手としており、速度や加速度の話から運動量の話まで、あらゆることをクラスメイトに教えなければならなかったのだ。


 何より困るのが、「何が分からないのかも分からない」と言い放つ生徒も少なくないということだ。上手いこと言っているように見えるが、結局言ってるのは「何も分からない」というのと変わらない。柊だって本職の教師ではないし、一から教える時間があるわけでもない。前々から聞きに来ていたのならともかく、試験前日になって何も分からないのでは、柊にも手の施しようがない。


 それでも最低限の問題が解けるよう、公式をまとめ、使い方を覚えさせる。簡単な問題を解いて見せて、同じような問題が出てきたら解けるようきちんと復習することを約束させた。


 一方で薫子と椿は流石に自分で問題集を解くことが出来ている。しかし、椿は問題が複雑になると何をすれば良いか分からなくなるらしく、着目すべき点や考え方を聞きに来る。そういう具体的な質問なら簡潔に答えられるので、柊としても全く嫌ではなかった。薫子が一度も質問に来てくれなかったのは、少し寂しかった。




 今日も昨日と同じような一幕があり、気づけば三人で帰ることになっていた。椿も一切気まずそうな様子を見せないので、柊もそれに従うことにする。


「物理やり過ぎてさ、坂道歩いてると mg sinθ とか考えちゃうよね」


「考えないよ」「それ柊だけだから!」


 あるあるネタのつもりで振った話は、2人の共感は得られなかった。


「まだまだ勉強が足りないな」


「勉強してそんなふうになるんなら、私は今のままでいいかな……」


 椿はともかく、薫子にまで引かれて焦った柊は、慌てて話題を変える。


「明日を乗り切ればあとは遠足行って、それから夏休みだな」


「うん! パンダ楽しみだなぁ」


「夏休み前に、答案返却日とか終業式っていうものもあるからね。2人からすれば怖くないかも知れないけど」


「いや、そうでもないよ。私今度こそ1番狙ってるから、ドキドキだよ」


「……っていうやつがいるから、俺は全力で防衛しないといけないんだよ」


 ばちばち、と声に出しながら挑発的な視線を向けてくる薫子。柊は口元を軽く歪めつつ、横目で視線を返す。目が合った瞬間、堪えきれずに2人で吹き出した。


「高校生が口で効果音つけるなよ」


「あはは。自分でもなんだこれって思った」


 ひとしきり笑った後、椿に視線を移すと、一瞬目が合ったもののすぐに逸らされてしまう。


「世の中の高校生の大半は赤点と親の説教に怯えながら日々を過ごしているというのに、まったくこれだから学年1位と2位は……」


「いや、椿ちゃんもだって赤点ないじゃん」


 いつもどおりの快活な声が、今日ほど空しく響いたことはなかった。




「昨日のこと、気にしないでよね」


 姫川と別れた後、椿と乗り込んだ電車内。沈黙を破ったのは、椿だった。


「こういうの、気にされる方が辛いんだよ」


 なんでもないことのように、軽やかな声で言う。本当に気にしていないんだと、見せつけるように明るい笑顔を柊に向ける。


「気にしないでって言われても、なぁ」


 ほぼ告白のようなものを受けて、知らんぷりを決め込めるほど柊の心は強くない。


「思ったことを、素直に表に出さないのが大人なんだよ。その方が、お互いに楽に過ごせるでしょ?」


「でも、それじゃ、椿の……」


「ならさ」


 柊の言葉を遮る口調は、思いがけないほど険しかった。なのに、彼女の笑顔は弱弱しくて、今にも崩れそうなほど、儚かった。


「私と付き合ってくれる? 私のことを好きになってくれるの?」


 柊を責めるように放たれたのは、昨日最後まで口にしなかった、ストレートな告白。それに今すぐ答え得る言葉を、柊は持たない。


「どうせ何も返せないなら、そう言って。変に気遣われたら、もっと好きになる。かおるんのことだって、いつまでもはっきりさせてくれないから、期待だってしちゃう。一言かおるんが好きだって、それだけ言ってくれれば、私だって諦められるのに」


 昨日知ったばかりの、純粋な好意の重さが、再び柊にのしかかる。柊にそれを受け入れる資格があるだろうか? 椿が向けてくれるのと同じだけの愛を、自分も彼女に持ち得るだろうか。


――お前のやりたいようにやればいい。それが、勇気を持って告白してくれた子への、最低限の礼儀だ――


 昂輝の言葉の意味が、今になってやっと分かった気がした。自分の「やりたいこと」から、いかに眼を背けていたかを実感した。


 今にして思えば、答えはきっと初めから心の中にあった。それでも、後悔しないように、じっくりと考えて結論を出す。


「椿、そう言ってくれて、ありがとう。椿は中学生の頃からいろいろと気にかけてくれてたし、高校に入ってすぐの頃は、椿がいてくれて本当に心強かった。困ったときには相談乗ってくれて、背中押してくれたし、そうじゃなくても、椿としゃべるのは、楽しかったんだ」


 一言ずつ、丁寧に言葉を紡いでいく。自分の心を確かめるように。椿の心に、届くように。


「ほんとうにありがとう。だけど、俺は薫子が好きなんだ。あいつのためなら、なんだってできるんだ。もしあいつに告白してさ、それが上手くいかなかったとしても、それは他の人には向けられない」


 なんで、そんなことに気づかなかったのだろう。部活も入らず勉強して、学年一位まで取ったきっかけは誰だったか。誕生日プレゼントだって必死に選んで、顔から火が出る思いをしながら、みんなの前で渡した。ぶつくさと文句を言いつつ、嫌ではなかったのだ。


 何かを()()()()()()なんて、不遜な考えではなかった。彼女は、施しの対象ではなかった。見返りも期待していなかった。ただ、彼女のためなら、何でもしたい。何でもできる。 

 何もかも、柊がやりたくてやったことだ。


 だからそれを、きちんと伝えよう。まずは今、目の前で嗚咽する彼女に。


「だから、俺は椿からもらったのと同じものを、椿に返すことはできない。でも、もらった想いや言葉は、嬉しかった。もらいっぱなしで悪いけど、大切にさせてほしい」


 涙を拭って、嗚咽を飲み込んで、椿は茶化すように、柊に言った。


「だめだよ。柊はかおるんに告白するんだから。そんなものは大切にしないでさっさと捨てなきゃ」


 そういう彼女は、先ほどより遙かに自然な笑顔を浮かべていた。


「でも、そう言ってくれて少しだけ嬉しいかも。ありがとう」


 それから訪れた沈黙は、あまり重く感じなかった。





「じゃあ、また明日」


「うん、また明日。頑張ってね」


 改札を抜けて、駅の前でお互いに手を振る。


「ありがとう、迷惑かけたね」


 ぽつんと一言、独り言のように呟いてから、椿は家へ向かう。


「そんなことないよ」


 その言葉は、果たして彼女の背中に届いただろうか。







 家に着いたら、玄関に紙袋が置いてあった。


「今日も梨紗ちゃんが余ったお菓子お裾分けにって。ちゃんとお礼しときなさいよ」


 母親の言っていることが理解出来ず、混乱しながら紙袋の中を覗けば、入っていたのはチーズタルトと1通の手紙。赤い花のあしらわれた、可愛らしい封筒だった。


 ダッシュで手を洗い、はやる気持ちを抑えて慎重に封筒を開ける。それでも厳重に糊付けされた封筒は少し破れてしまったが、関係あるかとばかりに、中の手紙を取り出して読む。





浅宮 柊 先輩


 こんばんは。今日も試験お疲れさまでした。先輩の言うことを聞かない後輩で、ごめんなさい。

 昨日お菓子を持ってこなくていいと言われたときには、素直に言うことを聞くつもりでした。私の気持ちを無理矢理届けても、先輩の気持ちが変わらないのは分かっていたからです。だから、先輩にはっきりと言われて諦めようと思いましたし、諦められると思ってました。

 だけど、家に帰ったらやっぱり諦められなくて、気づいたらタルトを焼いていました。焼くだけ焼いて、持って行かなければいいだろうと思っていたのに、いざ焼き上がったら、届けたい気持ちを抑えることができないんです。

 迷惑だったらごめんなさい。諦めの悪い後輩で、ごめんなさい。だけど、今日までは、先輩のこと、好きでいさせて下さい。


天利 梨紗



追伸 明日になったら、ちゃんと諦めます。明日、頑張って下さいね。







 短い手紙を、気づいたら3回読み返していた。胸が苦しくて仕方がなかった。


「どうして……」


 どうしてこの後輩はこうも聞き分けが良いのだろう。彼女たちは、どんな気持ちで柊の告白を応援してくれるのだろう。辛くて仕方がないはずなのに、なぜ笑えるのだろう。


 そう思うと、いても立ってもいられなかった。スマホを引き寄せて画面を必死にスクロールする。探すのは、もちろん梨紗の連絡先。一秒を惜しむように探し当て、発信ボタンを押して耳に当てる。


 鳴り響く、コール音。しかし、梨紗が電話に出ることはなく、無機質なコール音が響き続ける。1度舌打ちをして電話を切ると、耳に残った残響をかき消すように、勢いよく家を飛び出した。





「はあい」


 インターホンを鳴らすと、梨紗のお母さんののんびりとした声が聞こえた。


「こんばんは、浅宮です。お菓子のお礼を言いたくて伺ったのですが、梨紗さんはご在宅ですか?」


「あら、わざわざありがとう。ちょっと待っててね」


 そう言って数分経った頃、がちゃり、と扉を開けて気まずそうな顔をした梨紗が出てきた。


「こんばんは、先輩。電話気づかなくてすみません」


「別にいいよ。それより、お菓子ありがとな」


「いえ、私がしたくてしたことなので」


 はにかみながら答えるが、少しおどおどとした様子だ。


「あの、怒ってませんか?」


「何に? 着信に気づいてて無視したこと?」


「あ、ばれてました? ……じゃなくて、『持ってこなくて良い』って言われてたのに持って行っちゃったから」


 心配している様子の梨紗を、安心させるように目を合わせ、微笑みかける。


「怒ってるわけないだろ。嬉しかったよ」


 それを聞いて、梨紗がぱっと顔を輝かせた。


「ただ、」


 笑顔の梨紗を悲しませる罪悪感はあるが、これだけは言っておかなければならなかった。


「梨紗がくれる気持ちを、俺は梨紗に返せないんだ。俺は姫川が好きだから」


 それを聞いた梨紗は、少し悲しげな顔をして――柊の方へとタックルしてきた。


「ぐはっ」


 現役陸上部のタックルに血を吐く思いをしつつも、それを受け止める。


「それくらい、分かってますよ」


 そう言う梨紗の顔は、柊の胸に押しつけられて、見えない。だが、震えている肩を見れば、どんな顔をしてるかなんて分かる。


「それくらいで、好きでいるのを辞められたら苦労しませんよ」


 それから梨紗は顔を上げる。月の影が彼女の目に反射して揺れている。


「だから先輩、大好きです。せめて今日までは……今日だけは、好きでいさせて下さい」


 後輩の頭を、黙って撫でる。柊は後輩には甘いのだ。結局のところ、彼が梨紗のわがままを聞かなかったことはなかった。

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