先輩
今日は、どこの体験に行こうかな。
入学前に配布された部活動のリストを見ながら考える。中学に入ったばかりの彼女は、毎日のようにいろいろな部の体験に顔を出している。今のところ本命は料理部、次点で文芸部と考えていて、その2つには何回か顔を出して見ようと思っていた。
「梨紗、今日はどこか見に行く?」
「ううん。今日はあんまり楽しそうなとこないから、帰ろうかな」
「ほんと、じゃあ一緒に帰ろうよ!」
わあい、と隣で歓声を上げているのは、香奈。小学校で知り合った頃から、ずっとテニス一筋の少女だ。中学でもテニス部に入ることは入学前から決めていたので、体験を回る必要はない。
「あ、ごめん梨紗。教室に体操服忘れちゃった!」
せっかく靴を履き替えたというところで、香奈が声を上げる。彼女は少し抜けているところがあって、こういうことは日常茶飯事だ。
「ちょっと取ってくるから待ってて! 先帰っちゃ嫌だよ!」
叫び声を残して階段に吸い込まれていく彼女を見送って、昇降口から足を踏み出した。
薄暗い校舎から外に出ると、明るさの違いに一瞬目がくらむ。
それから徐々に彩度を取り戻すのは、頭上に広がるくすんだ青。太陽の光も少しぼやけて、地面に優しく暖かさを届けてくれる。辺りの木々から溶け落ちた春の空気は、風になって梨紗の頬を一撫でし、一瞬後にはどこかへ吹き去ってゆく。
ぼんやりとしているだけで、1日の疲れが和やかな陽気の中へ溶け出してゆくようだ。
視線を下げて周りを見渡すと、陸上部の上級生と思しき生徒たちがダッシュを繰り返している。特に陸上に興味は無いが、暇なのでベンチに腰掛けて眺めてつつ、香奈を待つことにした。
男子生徒が構える。静止する。一瞬だけ、時が止まる。それから、僅かな筋肉の盛り上りを認識したときには、彼は既にスタートラインの遙か前方を走っていた。
「速いでしょ?」
後ろから声をかけられ振り返ると、ジャージ姿の男子生徒が立っていた。身長は高くも低くない。顔も取り立てて印象に残る特徴はなく、強いて言えば少し童顔かもしれない。どこか見覚えのあるその顔立ちに、彼がお隣さんだということはすぐに思い当たったものの、どうにも名前が思い出せない。
「あれ、うちの学年のエースなんだよ。近くで見ていく?」
「は、はい……」
走っている生徒の姿にすっかり魅了され、半ば上の空だった梨紗は、気付けばそう返事をしていた。ふと、友人と帰るはずだったことに気がつくが、今更帰るとも言いづらい。友人には内心で謝っておくことにして、先輩についてトラックへと向かうことにした。
グラウンドでダッシュを繰り返しているのは、赤羽翔。2年生ながらリレーの選手にも選ばれている逸材なのだそうだ。そう教えてくれた先輩は、一向に自分の紹介をする気配がない。梨紗のことはお隣さんとして知っているようだったので、当然こちらも向こうを知っているものと思われているのだろう。
「なんだ、体験入部か?」
「いえ、見学です」
顧問とおぼしき先生から声をかけられ、先輩が返事をするのを眺めながら、今日は体育があったから体操服持っているな、と頭の中で確認する。
「あの、先輩」
名前を聞いてないので、そう呼ぶ他ない。
「わたし、体験入部、します」
はっきりと口にすると、顧問の顔がぱっと明るくなり、先輩の顔は少し微妙な表情を浮かべる。
「あの、たぶんあいつ、ひたすら自分の練習だから、教わるのは無理だぞ」
言いづらそうに教えてくれる先輩に、笑顔を向けて答える。
「赤羽先輩に教わりたいとかじゃないんです。ただ、あんなふうに綺麗に走れるようになってみたいなって。それに、私昔から走るのは嫌いじゃないので」
梨紗の返事を聞いて先輩も、それなら、と安心した顔をする。
「おし、じゃあ、向こうに更衣室あるからささっと着替えて来い」
顧問からの指示を受け、ダッシュで更衣室に向かう。今の梨紗の脳裏には、赤羽の走りが焼き付いており、わくわくした気持ちを抑えられない。何かにつけてダッシュしたがる香奈のことを笑えないな、と自嘲気味の笑みが浮かぶ。
ものの一分程度で着替えを済ませ、元の場所に戻ると、他の体験入部生と一緒に集合する。
「よし、じゃあまずは実力を見るために、50mを1本ずつ走ってもらおうか。クラウチングスタートは小学校で習ったかな?」
指示を出しているのは先ほどの先輩だ。顧問や3年生はどうしたのか、と思ったら、向こうの方で自分たちの練習をしていた。
「じゃあ、ここに一列に並んで」
並んでみれば、周りの一年生は皆何人か連れ立って来ているようで、1人ぽつねんとしているのは梨紗だけだった。
「あれ、赤羽先輩じゃない?」
「どれ? どれ?」
「ほら、1人だけ青のジャージ着てる先輩」
聞こえてきた会話につられて、3年生たちの方へと視線を動かすと、確かに1人だけ、ジャージに入ったストライプの色が異なる人物が見えた。2年生の中で1人だけ3年生に交じって練習しているようだ。
そんな風に周りを観察しているうち、梨紗の番が近づいてくる。先ほどの赤羽の走りが脳裏に焼き付いていて、体がうずく。だんだんと高まる興奮をを持て余すように1度2度、とジャンプしてから、小学校で習ったクラウチングスタートを思い出して、足の位置を決めた。
――On your marks――
位置に付く。走り出す前から、心臓がバクバクと音を立てて止まらない。
――Set――
腰を上げて、身体を静止させる。今なら、いくらでも速く走れそうな気がした。
――Go!――
先輩のかけ声とともに、駆け出す。そのまま勢いにのって前傾姿勢になり……
……こけた。
何が起きたか、すぐには分からなかった。まず掌に石が食い込むのを感じ、膝の痛みを感じ、それから自分が転んだという事実を理解した。恥ずかしくて顔上げられず、俯いたまま必死に涙をこらえる。滲んだ視界の端に先輩が見えて、来ないで、と心の中で声を上げるが、彼の許には届かない。
やがてその声は頭上から降ってきた。
「良いスタートだったね」
かけられた言葉に戸惑って思わず見上げる。そこには、ニコニコとした表情を浮かべた先輩が立っていた。
「あんなに良いスタートが切れる1年生初めて見たよ」
まあ、俺まだ2年生なんだけどね、と笑いながら、しゃがんで梨紗と視線を合わせる。
「体勢が崩れちゃったのはきちんと筋肉つけて、上半身の姿勢に気をつけたらすぐになんとかなるよ」
励ましてくれる先輩になんとか言葉を返そうとするが、声がかすれて出なかった。声を出した弾みに、涙が零れそうで怖かった。そんな梨紗を前に、先輩はただ黙ってニコニコするだけだった。
梨紗のすぐ側を、つむじ風が通り過ぎる。舞い上がった砂粒から目を守るふりをして、まぶたに浮かんだ水分を拭った。口に入った砂粒は、酷く不快な味だった。
「はぁ」
保健室で怪我の手当をしてもらい、落ち着いて自分の醜態を思い出すと、思わずため息がもれる。それなのに、自分の中にもう少し挑戦してみようかな、という気持ちがあることが不思議でならない。
「先輩」
その日は残りの時間は見学にあてることにし、赤羽の走りを思う存分眺めた。それから、帰り際に先輩に声をかけた。
「私、転ばずに走れるようになりたいです」
それを聞いた先輩は、特に表情も変えずにそう、と言った後、思いついたように付け足した。
「天利さんなら、良いランナーになるよ」
先輩にそう言われると、なんだか本当に良いランナーになれるような気がした。
名前を知っててもらえたのは嬉しかったが、却って先輩の名前が聞きづらくなってしまった。
陸上部の上級生たちは、誰もが個性的だった。中でも目立っていたのは、もちろん赤羽翔。2年生で唯一リレーの選手にも抜擢された、才気あふれるスプリンター。長身に整った顔立ちも相まって、部活内だけでなく学校中のアイドルだった。もちろん、梨紗とてミーハー女子中学生の端くれ、彼のことが気にならないわけはない。しかし梨紗には、ある意味もっと気になる先輩がいた。
浅宮柊先輩。2回目の体験入部で名前を訊いたらあっさりと教えてくれたが、なんとなく名前で呼ぶ気になれなくて、単に先輩、と呼んでいる。
「先輩、ちょっとフォーム見てもらえませんか?」
「ええ、俺自分の練習したいんだけど」
いつも渋々、といった顔をしながらも、梨紗の頼みは一度として聞き入れられなかったことがない。彼が後輩にはとびきり甘いと言うことに、梨紗の学年で気づいているのはどれほどいるだろうか?
それは恋というわけではなかった。そんな盲目的なものではなくて、ただ少し気になって、少し目線で追うようになっていただけだった。
そんな梨紗が、上級生のぴりぴりした雰囲気に気づいたのは、梨紗が2年生になる頃だった。
あくまでタイムを追い求める赤羽と、協調性を重んじるその他の部員の間に、小さな亀裂が入り始めたのだ。初めこそ少し折り合いが悪い程度だったが、1度ひびの入った連帯感は、瞬く間に真っ二つに割れようとしていた。顧問や後輩たちがこぞって赤羽の肩を持ったことが、それに拍車をかけていた。
そんな状況の中、彼らの学年では引退試合まで退部者が1人も出なかった。両陣営の間に入って顧問とも話し合い、なだめすかしては練習の予定を組んだり、赤羽の分まで部活の仕事をこなしたりしていた人物がいたのだ。部のために骨を折っていた彼を前にしては、先輩たちも矛を収めざるを得ないようだった。
だが、それに気づいていた人間は、梨紗の学年には他にいなかっただろう。その人は、とても目立たない人だったから。
「先輩、なんで先輩だけ、いつも損する役回り引き受けちゃうんですか?」
部活終わりの下校途中、訊ねたことがある。
「俺は、俺にできることをしてるだけだよ。俺、陸上やってるけど足速くないし」
にこやかに笑う柊の笑顔が、なんだか無性に悲しく映る。確かに、柊のタイムは同級生の中で特段速いとは言えない。
「だから、速い人の代わりに、全部やってあげるんですか?」
そのときの梨紗の気持ちはどれほど伝わっただろうか。先輩は極めつけの鈍感なので、何も伝わっていないのかも知れない。
「役割分担ってやつ。そうでもしなきゃ、俺なんのためにこの部にいるのってことになるじゃん」
「そんなことありませんよ。先輩のことを慕ってる後輩、たくさんいるんです」
そう言いながら下との石ころを蹴飛ばす。感情的になっている自覚はあるが、この際構うまい。このくらい真剣にならなければ、この先輩には何も伝わらないのだから。
「だいたい、赤羽先輩、わがまま過ぎますよ! 何でもかんでも、タイム、タイムって……。それで、周りの人のこと小間使いみたいにして!」
そんな梨紗をあやすように、柊は優しく声をかける。
「あいつだって、悪いやつじゃないんだよ。少し視野が足りないだけなんだ。あいつはプライドが高いから、さりげなく、俺らが支えてやればいい。そうすればあいつは大会でいいタイムを出してくれて、俺も嬉しい」
「そんなの、だって先輩は……」
目の前で微笑む柊が、胸の中になにを抱えているのか、梨紗には分からない。彼もまた、梨紗の気持ちは読みとれていないだろう。だけどこの、腹立たしいほどお人好しで、ばかばかしいほど鈍感な彼を
――自分だけでも、支え続けよう
そのとき梨紗は、そう決めたのだ。