7月11日(日) 先輩って、ほんとにお人好しですね
日曜日。本来であれば、多くの高校生が安息を謳歌する日であるはずだが、試験期間中となれば話が違う。もちろん、クラスメイトの中には、「ストレス発散」と称してカラオケに言ったり、「勉強会」の名目で集まって延々駄弁るものもいるだろう。しかし、柊はそういう訳にはいかないのだ。
――薫子に、負けたくない
生来の負けず嫌いな性質に加え、負けた状態で告白に臨みたくない、という心理も働き、柊は前回以上にやる気を出していた。成績発表は告白よりも後とは言え、やれることはやりきって臨みたいのだ。
そういうわけで、柊は朝からいつも以上の熱意をもって、テスト勉強に勤しんでいた。社会や生物は相対的に苦手としていることもあり、翌日の生物基礎・現代社会と翌々日の地理は正念場と言える。
これらの暗記科目について、柊は何度も手を動かすことを信条としている。授業の内容を表にまとめて、まっさらな紙に書き出す。細胞小器官の名称と働きを書き出す。徹底的に書き出すことで、覚えたつもりで覚えてないことを、1つ1つ潰していく。そんなことをしていると、時間は飛ぶように過ぎていった。
それでも、1日中勉強していると、集中は途切れてしまうものだ。中指にタコができかけている手をいったん休め、布団に寝転がってスマホをいじってみる。特にすることもないので、ネットニュースでも眺めてみるか、と思った矢先に、狙い澄ましたようにドアがノックされる。
トントントン
昨日と同じ、軽快な3回ノックだ。
「どうぞ」
「こんにちは、失礼します」
入ってきた彼女の手には、やはりタッパーとフォークとお皿。
「そろそろ休憩が必要な時間かなと思ったんですけど、お邪魔だったりしますか?」
「いや、今ちょうど休憩に入ったところ」
あまりのタイミングの良さに、思わず笑ってしまいそうになる。とはいえ、たとえ梨紗が来たのが勉強の真っ最中だったとしても、柊は同じように答えただろう。彼は後輩には甘いのだ。
「良かったです。今日はブラウニーを焼いてきました」
「もはや作りすぎたとか言って誤魔化す気すらないのか」
「はい、そういうすぐバレる建前みたいなの、好きじゃないだろうなと思ったので」
的確な返しに、今度こそ苦笑いを抑えきれない。さすが、2年も柊の後輩をやっていただけあり、梨紗は彼の性質をよく見抜いていた。確かに、お互いに本心でないと分かるような建前や社交辞令は、なんとなくしらけてしまって好きではない。
「じゃあ、早速食べちゃいましょうか。ちょっと下行ってお茶取ってきますね!」
そういって梨紗はポニーテールを大きく揺らしながら、ダッシュで階下へ向かう。そんなに急がなくても、と呆れつつ、手持ち無沙汰にしていると、再びダッシュで階段を上る音が聞こえ、ポットとカップを手に持った梨紗が現れた。
「おい、割れ物を持って走るんじゃない」
「えへへ。大丈夫ですよ、私運動神経良いんで!」
「いや、そういう問題じゃないんだけど」
柊のツッコミはそのまま流され、梨紗がお茶を入れ始める。
「先輩たぶんフレーバーティーの方が好きですよね。アールグレイなんですけど大丈夫ですか?」
「あ、うん。好きだよ、アールグレイ」
どこまで柊の好みを熟知しているのか、と少し怖くなりながらも答えるが、梨紗からの返事がない。ふと見ると、梨紗の耳が赤くなっている。
「そうやって、軽々しく『好きだよ』とか言わないで下さい。分かってても期待しちゃうじゃないですか」
拗ねたように膨らませた頬に少し赤みが差していて、やけに色っぽかった。今までは、ただの後輩として可愛がっていただけだったのに、告白された途端に、彼女を異性として意識してしまう。
梨紗が手慣れた所作でお茶を入れるのを眺めていると、柊のスマホが震えだした。画面を見ると、椿からの電話だった。
「もしもし」
「ねえ柊、これからかおるんがうちに来るんだけどさ、柊も来ない?」
その口調は、柊が断る可能性を微塵も考慮していないようだった。柊に限って、試験期間真っ最中の日曜日に用事を入れるはずがなく、部屋にこもって勉強しているはずだということは、椿もお見通しのようだった。
「だが断る」
「えっ?」
柊の返事がよほど意外だったらしい。裏返った声で聞き返された。
「ごめんな、今後輩が遊びに来てくれてるから。また今度な」
そういって電話を切る。目の前を見ると、梨紗がぽかんとした顔をしていた。
「いいんですか?」
「何が?」
「姫川先輩より私を優先してしまって」
口を開けて間の抜けた表情になっている梨紗の口を閉めながら、笑って答える。
「どっちを優先とかじゃなくてさ。わざわざブラウニー焼いて持ってきてくれた後輩を放ってどこかに行くわけないじゃん」
ふふっ、と梨紗が笑う。せっかく閉じてやった口がまた少し開いていた。
「先輩って、ほんとにお人好しですね」
「お人好しって言うか、後輩に甘いだけだよ」
「どっちでもいいですよ。私はそういう先輩が好きなんですよ」
真正面から目を合わせて言われると、流石に照れてしまう。目線を外したくても、頬を紅潮させた梨紗が魅力的過ぎて、目をそらすことが出来なかった。
お互いに顔を赤くして見つめ合ったまま、沈黙してしまう。ただそれは気まずくは感じず、むしろどちらかと言えば居心地が良い。いつまでもそうしていたいとさえ思った。
そんな空気を粉砕するように、再び柊のスマホが震える。
「もしもし、柊。柊が来るのが無理ならさ、私たちが行くのはだめかな? 後輩ちゃんは一緒でいいから」
「いや、椿じゃないんだから。知らない先輩が2人も来たら梨紗が困るだろ」
「そうかなぁ」
どうしてそんなに柊に拘るのだろう、と疑問に思いながらも、目の前の後輩のことを考えて、きっぱりと断る。しかし、それを覆したのは、他ならぬ梨紗自身だった。
「私は別に構いませんよ」
「いいのか?」
スマホのマイク部分を塞ぎつつ梨紗に確認する。
「姫川先輩、私も一度会ってみたいです。千歳先輩も、先輩の話を聞く限りではすごく良い方みたいですし。それに、桜高受かったらほんとに先輩になるわけですしね」
梨紗がそういうなら、ということで椿に諾意を伝える。迎えに行こうかと思ったのだが、家の場所が分かれば良いと言われたので、位置情報を送って済ませた。
「ごめんな、せっかく来てくれたのに」
「いえ、今こうして先輩と2人きりでいられるだけで、十分ですよ。お2人がいらっしゃるにはまだ時間かかると思いますし、お茶、冷める前に飲んじゃいましょう」
2人きりの時間を惜しむように、梨紗のブラウニーを味わいながら、話に花を咲かせる。椿たちが来てしまうことが恨めしくもあり、同時に救いでもあった。
楽しい時間がずっと続いたら、梨紗のことを好きになってしまうかも知れなかったから。
椿から、駅で姫川と合流したと連絡が来た。名残惜しい気持ちを抑え、階下に降りてリビングの机を片付け始める。柊の部屋では、4人は入りきらないからだ。梨紗はいったん家に戻って、昨日のカステラと今日のブラウニーの残りを取ってくる。
インターホンの音を聞いて、玄関のドアを開ければ、そこには一週間ぶりに私服姿の同級生が2人。今週の姫川はレモン色のトップスにレースのスカート。相変わらずパステルカラーがよく似合う。対する椿は、ブラウスにからし色のスカートを合わせている。
2人を連れてリビングに入ると、4人ぶんのお茶を用意していた梨紗が、手を止めて柊たちの方へと歩いて来た。あまり意識したことはなかったが、並んでみると高校生2人より梨紗の方が幾分か背が高い。
「この子が梨紗。部活の後輩で、たまに勉強教えに行ってる子」
「先輩方、初めまして。梅ヶ丘中学3年、天利梨紗です。桜高を目指して勉強しているので、実際に桜高に通う先輩方にお会いできて嬉しいです」
「よろしくー」「よろしく」
にこやかに挨拶をする梨紗に、姫川と椿も良い印象を抱いている様子だった。
「私は千歳椿。私も梅中の出身だから、一応梨紗ちゃんの先輩って言うことになるのかな」
「はい、存じ上げていますよ! うちの中学から2人も桜高が出たーって、先生方も大騒ぎでしたので」
「私は姫川薫子。梨紗ちゃんと同じようにそこの柊くんにたまに勉強を教えてもらってるんだ」
「そうなんですね。姫川先輩みたいに綺麗な方に勉強を教えてるなんて、先輩も隅に置けないですね」
「そんな、綺麗なんて。梨紗ちゃんの方が可愛いと思うんだけどな。その髪の毛、地毛だよね?」
「そうなんです。でも私としては姫川先輩の黒くて真っ直ぐな髪が羨ましくて」
云々、かんぬん。席に着く間もなく歓談を繰り広げる女子たちを目にして、「女三人寄れば姦し」という言葉の意味を、身を以て学んだ柊であった。
ようやく一息つくと、席について梨紗のお菓子と2人の手土産に手をつけることができる。しかし、それは決して、柊に安息の時間が訪れたことを意味しなかった。
「そ、それで、2人って付き合ってたりとかするの?」
さっそくキラーパスを繰り出す薫子。さりげなく聞いているふうではあるが、声が裏返ってしまっているわ、目は泳いでいるわで、さりげなさの欠片もない。
「いや、そんなんじゃないよ」
即座に否定するが、隣に座る梨紗は黙りこくっていた。見れば、耳の先が少し赤い。
「へぇ、なるほどね」
途端にニヤニヤしはじめる椿。
「そっかぁ。こんなに可愛い後輩ちゃんが身近にいるんだもんね。そりゃあ私に興味持たないよね」
拗ねたように口を尖らせる薫子。拗ねた彼女は本当に可愛いくて、見るだけでも心臓に悪い。
「……」
顔を赤くしたままもじもじする梨紗。
どう収拾をつけたものか。薫子に興味が「ある」と言ってしまうのは、もはや告白と同義だし、流れでそれを言ってしまうのは嫌だった。仕方なく、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「梨紗とはそう言うんじゃなくて、お隣さんで部活も一緒だったから仲良くなっただけで、付き合うとかは考えたこともないよ」
実際には木曜日から気になって仕方がない、とはさすがに言えない。こういうときには嘘も方便だろう。
「そうなんだ。まあ、別に私はどっちでもいいんだけどね」
あまりどっちでもよくなさそうな言い方だが、柊の言葉を聞いて少し機嫌は直ったらしく表情が多少柔らかくなった。
「ま、まあ、とりあえずお菓子でも食べようか」
椿の一言で、なんとなく気まずい空気を振り払うよう、各々フォークに手を伸ばす。
「こ、このカステラ、ふわふわで美味しい!」
梨紗のお菓子を口にした途端、険しさの残ったままだった薫子の相好が一瞬にして崩れる。ふにゃん、という音が聞こえるようだった。
「梨紗ちゃん、お菓子作るの上手なんだねー」
目を輝かせて梨紗に話しかける薫子の目には、先ほどまでの不機嫌の色が全く見えない。不機嫌な薫子には甘いもの、と柊は心のメモ帳にしっかりと記録をしておくのだった。
薫子の機嫌が直ったことで、ようやく試験勉強が始められそうだった。因みに梨紗は柊の隣で次のテスト範囲の予習を始めている。3人で和気藹々と勉強と称したクイズ大会に興じる内に、気づけば夕刻になっていた。
ここで解散、という気分にもならなかったので、ファミレスに移動して延長戦に入る。梨紗とパフェを食べた、あのファミレスである。
「桜高での先輩って、どんな感じなんですか?」
「うーん。結構みんなから頼られてるよね」
「ていうか、断れないのを見越してみんなに当てにされてる感じ」
椿の言い方に若干の悪意を感じる。
「君とてその一つだろうが」
「いや、まあそれもそうなんだけどさ。ていうか何その言い方」
「それでも、守りたい世界があるんだー!」
確実にネタを拾ってくる薫子の守備範囲が恐ろしい。
「自分で言っといて何だけど、それって俺殺されるやつじゃね」
「あはは、私は海辺で隠居でもしようかな」
椿と梨紗が顔を見合わせて、キョトンとしている。それを見た姫川が、慌てて話を戻す。
「とにかく、みんなに頼られて結構人気者だよ」
「試験前限定だけどな」
それを聞いて、梨紗がうんうん、と大きくうなずく。
「やっぱり、中学時代とあんま変わってないんですね」
「そう、全然変わってない。でも部活がなくなった分、少しは楽になったんじゃないかな?」
梨紗と椿の会話に、今度は薫子が食いつきを見せる。
「柊くんの中学時代ってどんなだったの?」
話は途切れることなく延々と続き、結局家から持ってきた勉強道具は一度も使われることはなかった。
女の子の私服が分からない!
女子高生って何着るんですか……





