7月10日(土) だって私、まだ振られてないですし?
翌朝、梨紗から連絡が来ていた。
『先輩テスト頑張ってください!』
『応援してますね』
一緒にハートマークの絵文字がついている。よく見ると、ピクピクと心室細動のような動きをしている。今までハートマークなんて使ったことなかっただろうに、と苦笑いを浮かべながら
『ありがとう』
と返事を返し、学校の準備を始めた。
教室は、朝からものものしい雰囲気が漂っていた。数学の公式を血眼になって覚えるもの、助動詞の活用表を手にぶつぶつ唱えているもの、コミュ英の文章を丸暗記しているもの。クラス全体がピリピリとする中、柊とてもちろん例外ではなく、テスト勉強に勤しまなければならない。だが、テストのことだけ考えれば良い今の時間は、柊にはむしろ幸せとすら言えた。
しかし、続いて欲しい時間ほど、長く続かないのは世の常である。1科目目、2科目目と、テストは順調に消化される。皆に平等に経過する試験時間を引き留める術があるはずもなく、気づけば放課の時間だった。
放課後は、相も変わらず皆で教室で勉強をはじめる。月曜の科目が生物と現代社会ということもあり、今日に限って誰も柊のところへ質問に来ない。普段ならありがたいことなのだが、今日はむしろ気を紛らわす何かが欲しいくらいだった。
「ねえ、柊くん」
一番話したくて、一番話したくない人物に唐突に話しかけられる。
「何だ、薫子」
「ホッブズは『リヴァイアサン』において……」
「万人の万人に対する闘争」
どうやら勉強に飽きて絡みにきただけらしい。問題を言い終わる前に答えると、むぅ、と口を尖らせる。
「じゃあ、細胞小器官の中で、DNAを……」
「ミトコンドリアと葉緑体」
ぐぬぬ、と頬を膨らませる姫川。
「じゃ、じゃあ、柊くんの方から問題出してよ」
はあ、と嘆息して教科書を閉じると、後ろから声がかかる。
「なになに、面白そうなことしてるじゃん!」
振り向けば、案の定とにかく明るい椿がやってきていた。
「だったら、私が問題出してあげる」
明るく宣言する椿。
「じゃあ、いちもんめー! 『法の精神』の中でモ……」
「三権分立」
モンテスキューのmの音すら読み終わらないうちに答えを出したのは、薫子だ。柊と椿は思わず顔を見合わせる。
「じゃあつぎー。国家の三要素とは、主権、こ……」
「領域」
「1952年、警さ……」
「保安隊」
「いや、待て待て」
たまらず柊が突っ込みを入れる。
「いくらなんでも早すぎだろ」
「あはは、尊敬した?」
小憎たらしい程のどや顔だが、それすらも可愛いのが薫子なのだった。
結局そのあと、問題を出す係の椿が1番勉強が足りていないことが判明したため、薫子が椿に問題を出し、柊が解説をすることになった。
「はい、じゃあ、特に参議院の選挙区選の問題点として指摘されていることのはなんですか」
「えっと、『一票の格差』だよね」
「椿、『一票の格差』ってなんのことか分かってる?」
「うーん? 一票に格差があるんでしょ」
「いや、それ説明になってないから」
3人で騒ぐのは楽しい。柊は薫子が好きだし、椿も好きだ。でも、2人に対する感情が異なっていることだけは確かで、それなのに何が異なっているのかだけが分からなかった。
「柊くん?」
薫子の呼びかけで我に返る。
「ごめん、ちょっと別の考え事してた」
「柊くんが上の空なんて、珍しいね」
「そんなことないよ。割といつもぼーっとしてる」
「いや、なんで椿が答えるんだよ?」
澄ました顔で代わりに答える椿をど突く。
「あはは、2人ってほんとに仲良しだよね」
微笑ましげに笑う姫川に、珍しく顔色を変えて食ってかかる椿。
「違うから。私はかおるん一筋だから! 柊はほら、基本的人権がないからさ、飼育係? 的な感じでかまってやってるだけだから」
「おい? 憲法11条に喧嘩売ってんのか。日本国憲法舐めんな」
「あ、柊くんに喧嘩売ってるのは別にいいんだ……?」
椿への柊のツッコミに薫子がツッコミを入れる。こんな平和な関係が、いつまでも続いて欲しかった。だけど、それを壊そうとしているのも柊なのだ。上手くいかないかも知れないのに、自分の想いを伝えようとしている。それが、どれほど彼女たちを傷つけることだろうか。それに値するだけの覚悟が、自分にはあるだろうか。
――言わなければ良いんじゃないか
その考えが、何度も頭をよぎる。
――ごめんやっぱなしねって言って、梨紗と付き合えば良いんじゃないか
そしたら誰も傷つけずに済む。柊も、難しいことは考えずに済むし、罪悪感を感じなくていい。椿には怒られるかも知れないが、話せば分かってくれるんじゃないか。
その考えは、考えれば考えるほど良いものに思えた。それなのに、
――だから、今も逃げてるの?
椿の一言が、柊の逃げ道を塞いでいる。薫子に、自分の心に向き合えと、強制している。
――どうすればいいか分からなくなったら、逃げ出すのも一つの手です
――誰かに悪いからとか、失礼だからとかじゃなくてさ、お前のために結論を出せよ
昂輝の声が、梨紗の表情が、頭の中を駆け巡り、交錯し、火花を上げる。もう、柊にはなにも考えられなかった。
「柊くん?」
またしても、心配そうな薫子の声で我に返る。これだけ悩んでいても、心が揺れていても、薫子の声を聞くだけでなんだか嬉しくなるのだ。
「疲れちゃったんじゃない? きょうはもう終わりにしようよ」
気遣わしげな顔を向ける薫子に促されて、帰りの荷物をまとめ、残っているクラスメイトに鍵の返却を託す。
「で、何か悩み事ですか?」
帰り道、開口一番に薫子に尋ねられる。今日は久し振りに椿も一緒だ。
「いや、ちょっとテストで疲れちゃっただけ。心配させてごめん」
少なくとも彼女にだけは絶対相談できない悩みだった。
「あはは、体力ないんだから」
「一日6試合もかるたするような体力お化けといっしょにすんなよ」
「7試合取ったこともあるよ」
「え、まじで?」
誤魔化すように話を進める中、じっと柊を見つめる椿の視線が痛かった。
改札を抜けて薫子と別れれば、お待ちかねの尋問タイムだ。
「どうせ振られたらどうしようとか考え出しちゃったんでしょ。今の関係を壊したくないって」
相変わらずずけずけと指摘してくる。彼女は驚くほど的確に、柊の悩みの半分を言い当てたが、もう半分は珍しく外していた。
「あはは、ばれたか」
「何その『あはは』ってかおるんの真似? そういうのは付き合ってからにしなよ」
「そういうんじゃなくて、つい……」
「まあ、こればっかりは私が口を出したからって柊の気持ちが変わるわけじゃないからさ。自分の気持ちに正直に、ね」
「自分の気持ちっていうのが、一番難しい」
言うつもりのなかった言葉が、口をついて出てきてしまう。
「まあ、そうだよね。私も自分の気持ちが分からなくなることなんてしょっちゅうあるもん」
「椿でも?」
「あるある。私だってさ、矛盾の1ダースや2ダースくらいは抱えて生きているわけさ。私を作る小さい私たちが食い違って、あっちへふらふら、こっちへふらふら揺れ動いてる。あっちへ行こうとする私と、こっちへ行こうとする私がいて、私が引き裂かれそうになる」
抽象的な椿の言葉が何を言わんとしているのか、今の柊にはよくわかった。
「そういうとき、椿はどうするの?」
「どうだろ。何も考えない。衝動的に動いてみる。後悔なんてどうやったって残るもんだからさ、とにかく考えなしに動いて、後から反省すればいいんだよ」
透き通るような鳶色の瞳を柊に向けて、微笑みを浮かべる。
「一番だめなのは、何もしないこと。どっちいけばいいか分からなくても、動いてみることに価値があるんだよ」
それから、ふふっ、と笑っていつもの快活な笑みに戻る。
「転んだら、反省会くらいはつき合ってあげるからさ」
そう言って笑う椿の瞳が、何故か哀しげな色をしているように見えた。
家に帰れば、まだ夕食時まで時間があった。部屋にこもって勉強していると、コンコンコン、と素早く3回のノック。柊の家族でこんなノックをする人はいない。不思議に思いながら、「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは、お邪魔しますね」
そう言って入ってきたのは、天利梨紗だった。普段は一日中制服でいるのに、今日は珍しく私服である。一瞬見とれかけたものの、すぐに我に返って訊ねる。
「なんで梨紗が?」
「それがですね、家でカステラを焼いたんですけど、作り過ぎちゃって。普段お世話になってるお礼も込めて持ってきたんですよ」
確かに梨紗の手には、タッパーに詰められたカステラと、皿とフォークが2組載せられていた。
「それ、ほんとに作りすぎたのか?」
じっと見つめてみると、彼女は照れたように目を逸らして、笑顔で答える。
「そこはほら。今のうちにアピールしておかないとじゃないですか? テストで疲れた先輩には、やっぱり糖分かなって」
思ったより簡単に白状した梨紗は、焦ったように言葉を続ける。
「でも、ほんとは玄関でおばさんに渡しておしまいのつもりだったんです。でも、せっかくだから梨紗ちゃんも上がっていきなさいって言われて、お皿とフォークを渡されて」
確かに柊の母親ならやりそうだ。母親という生き物は、息子の友達にお節介を焼き始めると止まらないのだ。
「それはまあ、仕方ないな。まあいいや、せっかく焼いてきてくれたんだし、食べようか」
そう言って2人で腰を下ろすのだが。
「あの、梨紗さん? 俺のフォークは?」
「ん? ほら、ここにありますよ!」
天使のような笑顔を浮かべる梨紗の手に握られた、柊のフォーク。先端にはカステラが刺さって、柊の方へ向けられている。
「俺、自分で食べられるからさ」
「いいじゃないですか。先輩に彼女ができちゃったら一生できなくなるんですから。私だって好きな人にあーんくらいしてあげたいですよ」
昔から、梨紗に頼まれたことで断れた試しはない。もっとも、昔はこんなに無茶なことを言う子ではなかったのだが。
とにかく柊は、梨紗のなすがままにカステラを食べさせてもらった。やたらと甘く感じるのはどうしてだろう。それから、頑として自分の口にカステラを運ぼうとしない梨紗の口に、カステラを放り込んでやるのだった。
「先輩、ありがとうございます!」
そう言って幸せそうに満面の笑みを浮かべる梨紗を見ると、まあ良いか、という気になってしまうのは、少し甘やかし過ぎなのだろうか。
是非夕食も、という母親の誘いを固辞して帰る梨紗を、玄関まで見送る。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。またね」
「はい、また明日! 明日は何が良いですか?」
「いや、なんで明日も何か持ってくる前提なの?」
慌てて突っ込みをいれる柊に、梨紗がにやりと笑みを浮かべる。
「だって私、まだ振られてないですし? 先輩が姫川先輩と付き合うまでくらいは、彼女気分を味わわせてくれても良くないですか?」
「いや、彼女でも普通そこまでしないよ?」
結局のところ、梨紗の願いを断れたことなんて、一度たりともないのだ。