7月 8日(木) 月が、綺麗ですね
「柊くん、おはよう!」
教室に入った瞬間に、姫川が柊の方へ駆け寄ってくる。教室中の視線を集めるが、全く気にならなかった。
「昨日は素敵なプレゼントありがとね!」
「それ、昨日も聞いた」
お礼が照れくさくて冷たく返すと、姫川が頬を膨らませる。
「直接言いたかったの! こういう気持ちは柊くんには分からないだろうけどね!」
それだけ言うと、くるりと身を翻して自分の席に戻る。
「柊の心情を何も分かってないやつがそれを言うかっていうな」
「それな」
呆けたまま、昂輝の呟きに相づちを返した。
その日、1限の授業が始まるその瞬間、彼女はわざわざ柊へ1度顔を向けた。口元に笑みを浮かべた後、筆箱から大事そうにシャーペンを取り出す。蛍光灯の光を浴びて空色に煌めくそのシャーペンこそ、昨日柊が彼女に渡したプレゼントであった。
ちなみに、文房具という選択は椿からは大不評だった。
「ふつう文房具とか女の子へのプレゼントにする? まあ柊ならするか」
「てかそれって学校で使うことを半分強要してるようなものだよね?」
「あ、でも色のチョイスだけは良いんじゃない?」
ぼろくそに言われたが、今もこうして手許のシャーペンをアピールして得意げな顔を柊に向けている薫子を見ると、間違いではなかったのではないかと思う。
「プレゼントなんて何をもらうかより、もらえることが大事なの。あと誰にもらうか。本当に欲しいものなんて自分で買うでしょ」
というのもまた、椿から授かった箴言の1つだ。
放課後の自習メンバーは昨日からさらに増え、柊も姫川もそれぞれに他の生徒への対応をしつつ自分の勉強に追われる。お陰で、今回も薫子とはずっと話せない状態だったにも拘わらす、薫子の手許を見れば、胸のざわつきはすぐに収まってしまうのだった。
今日こそは鍵を返す権利をもぎ取り、3人で帰るつもりが、気づけば椿はどこにもいなくなっていた。薫子と顔を見合わせ、仕方なく2人で帰る。
「そういえば柊くんと2人で帰るのって、久し振りだね」
「最近はいつも椿がいたからな。っていっても先週の火曜日以来だからそんなにたってるわけじゃないけど」
「そうだっけ。あ、微分積分の話聞いた日か」
「そうそう」
わずか9日前のことを懐かしがるような顔をする姫川。よく考えたら、姫川とまともに話すようになってから2週間ほどしか経っていない。こうして毎日のように一緒にいることも、告白しよう、と決意することも、その頃には全く想像していなかった。
「そういえば、柊くんって誕生日いつなの?」
「俺は11月23日」
「スコーピオ?」
「いや、ぎりぎりサジタリウス」
日本語で聞けばいいものを、なぜか英語で聞いてくる。ちなみに柊が射手座の英語名を知っていたのは、最近見たアニメで、コンピ研が携えてきた自作ゲームの名前になっていたからである。
小説サイトで目に入ったエッセイにも、名前は出てきていたような気がする。
「椿ちゃんは?」
「あいつはみずがめ座だな」
「アクエリアスだね。じゃなくて、誕生日何日?」
「え、アクエリアスってみずがめ座って意味なの?」
「そうだよ。知らなかった?」
腕組みをしてどや顔で言う薫子。何より悔しいのは、そのどや顔が妖精のように可愛いらしきことである。
「知らなかった。椿の誕生日は2月3日だよ」
「おっけー、ありがと!」
笑顔で礼を言いながら、手帳にメモをとる。今日の薫子はよく表情が変わるし、よく笑う。
いつも通り改札を過ぎたところで別れるが、今までで一番機嫌良く帰ることができた。
夕飯後、スマホに不在通知が入っていた。折り返すと、1コールで相手が出る。
『もしもし、こんばんは!』
元気な声で挨拶をしてきたのは、梨紗である。
「こんばんは、テストお疲れ。どうだった?」
『だいたいいつも通りですかねー』
「梨紗のいつも通りってほぼ満点ってこと?」
『多分ですけどね。あんまり間違えそうなとこなかったです』
「すげえなー」
『教えてくれた人が良かったので?』
素直に驚嘆を表すと、彼女は少しはにかんだように柊のことを持ち上げてくる。
『それでなんですけどね』
「おう」
『私、試験頑張ったんですよ』
「おう、お疲れさま」
『何かご褒美あっても良いと思いません?』
「まあ、多少はあってもいいかもな」
『あの、全然関係ないんですけどね、駅前のファミレスの、期間限定の抹茶パフェ、美味しそうだなって思うんですけど』
どう考えても全然関係なくない。とはいえ、もとは天利家から出たお金だ。知り合いからお金を頂くことに多少の後ろめたさもあったので、娘に還元してやるのも悪くはないだろう。
「まあ、それくらいなら良いよ。今度奢ってや」『今日が良いです』
言い終わる前に梨紗が返事をしてくる。
「え?」『今度じゃなくて今日が良いです』
「いや、今日って、俺明後日からテス」『今日が良いです』
梨紗がこんなに強硬になにかを主張してくることは、初めての経験だった。彼女はいつだって聞き分けが良い後輩だったし、他の上級生には逆らっても柊の言うことだけは必ず聞いた。
その梨紗がこれだけ言ってくるのを断ることはできなかった。
「いいけど、時間遅いし、ご両親にはちゃんと許可もらえよ」
『大丈夫ですよ! もうもらって来ましたから。何時までとかはないけど、補導される時間にはならないようにとのことです』
どうやらこれは初めからお願いではなく、既に決まったことの伝達だったようだ。誰も彼も、柊の人権という発想は投げ捨ててしまうらしい。
結局隣の家の玄関先で梨紗と合流し、ファミレスへと向かう。
夜遅いためか、少し高めの価格設定のためか、2人が入った店はそれほど混んでいなかった。4人席に腰をおろし、パフェを1つ注文する。
「先輩って結局姫川先輩に告るんですか?」
唐突に食らった剛速球のストレートに、手に持ったグラスが震えて盛大に水がこぼれる。
「え、そんな動揺します? せっかく吹き出さないようにタイミング配慮したのに?」
店員さんがすぐに綺麗な布巾を持ってきてくれたので、卓上とズボンを拭く。
「で、いつですか?」
「ノーコメント」
目を合わせないよう横を向く。
「終業式ですか?」
「ノーコメント」
「遠足?」
「ノーコメント」
「試験最終日?」
「ノーコメント」
「なるほど、試験最終日かぁ」
「ノ、ノーコメント」
どうして分かる、という自滅のようなツッコミは辛うじてこらえた。
「試験終わるのって14日でしたっけ?」
「なんで知ってるの?」
「お母さんが先輩のお母さんから聞きました」
一般的に母親という生き物は「デリカシー」とか「息子のプライバシー」という概念を持たない。当然のように柊の情報は梨紗の母親を経由して梨紗に流れるのだった。
「でも、試験終わった後に告白しようって思って告白する気持ち、分かります」
「そ、そうか……」
一度も肯定していないのにもはや事実として扱われてしまっていることが少し釈然としない。だが、そのタイミングでスプーンが2本刺さったパフェが運ばれてきたので、いったんその話はお終いになった。
結局梨紗の家の前にたどり着いた頃には22時を少し過ぎていた。
「先輩、今日はありがとうございました。ごちそうさまでした」
「ううん、梨紗こそ、試験お疲れさま。じゃあ、またね」
「はい、また」
彼女はそう言ったまま、なぜか家に入らない。
「どうかした?」
柊の言葉には応えずに、梨紗は柊の許へ駆け寄ると、怒ったようにむんずと腕を掴んで歩き始める。
「え、ちょ、ちょっと、梨紗!」
抵抗空しく、柊は公園のベンチまで連行される。
「浅宮先輩」
久し振りに、梨紗から名字をつけて呼ばれた。中学の時から、梨紗が単に「先輩」と言ったら柊のことなのは、暗黙の了解だった。それくらい梨紗は柊に懐いていたし、彼も梨紗のことを可愛がっていた。
「見て下さい」
昨日は1人で星を見たベンチで、今日梨紗と眺めるのは、東の空に浮かぶ、月。満月かと思いきや、少しだけ右側が欠けている。
「月が、綺麗ですね」
梨紗は、柊の目を見て、はっきりとそう言った。
「それ、告白してるみたいだよ」
笑いながら言う柊に、彼女は目をそらさずに答える。
「『みたい』じゃなくて、告白してるんです」
からかっているのかと思ったが、梨紗の予想外に真面目な表情に混乱し、言葉を失う。
「去年の夏くらいから、私がずっと先輩のこと好きだったんですけど、先輩全然気づいてくれなかったんですよね」
いつも通りに振る舞う梨紗だが、その明るさがぎこちない。少し上擦った声で、梨紗の独白が続く。
「それで、先輩って女の子に興味がないのかなぁって思ってたら、好きな人ができたって言うじゃないですか。それも、知り合って3ヶ月ちょっとで告白するくらい」
梨紗の声が段々と鼻声になってきて、「もういいから」と止めてしまいたかった。でも、梨紗の真剣な顔を見たらそんなことはできなかった。
「先輩のこと好きだったんですけど、付き合いたいとかは考えたこともなくて。勉強教えてもらったり、こうやってたまに出かけたりできたら、それでいいなって思ってたんですけどね。でも、先輩が他の人と付き合うことを想像したら、たまらなく嫌だったんです。それに、先輩に彼女ができちゃったら、私は一生この想いを伝えられない。それで、やっと先輩に言う勇気が出たんです」
それから、唐突に思いついたように話題を変えた。
「先輩って、なんで『月が綺麗だ』で"I love you." の意味になると思います?」
「それは、そういう意味を持つっていうふうに世間的に解釈されてるからだろ。別に、たとえば感謝の意味を表すと世間的に思われていたら、感謝の意味になるよ」
「そういう意味じゃないって、分かってて言ってますよね?」
じいっと後輩に睨まれて、身がすくんだ。
「まあ、そういうところも好きなんですけどね」
ストレートに表現されても、それはそれで反応に困る。そのまま何も返さないでいると、梨紗が勝手に話し始める。
「私、思うんです。先輩の隣で見る月って、本当に綺麗だなって」
「でも、少し欠けてるよ?」
「そんなのどうだって良いんです。隣に先輩がいるっていうだけで、何でもないものでも綺麗に、綺麗なものはもっと綺麗に見えて、いつまでだって見てられます」
夜の静かな公園で、月のスポットライトを浴びた梨紗が独白を続ける。
「だから私は、先輩の隣で、もっといろいろなものを見たいです。いつまでも隣にいて、先輩の支えになりたいんです」
「でも俺は、」
ここに来て、ようやく柊は一言だけ絞り出す。
「分かってます。姫川先輩が好きで、来週告白するんですよね?」
きっとそれこそ、梨紗の瞳が濡れている原因なのだろう。それでも彼女は笑顔を作る。先ほどのぎこちない不自然な笑顔ではない。力強くて、それなのにどこか儚げな彼女の笑みは、月明かりに照らされて、幻想的なまでに美しく見えた。
「姫川先輩に告白して、うまくいっちゃったら諦めます。私がいつまでもうじうじ悩んで、先輩に言いにいかなかったのが悪いんですから」
この上なく大事な話をしているというのに、柊は梨紗の表情に見とれてしまう。こんなに真剣な顔をした梨紗は、中学生のときにも見たことがなかった。
「だから、うまくいかなかったらでいいんです。もし姫川先輩に振られたら、私の彼氏になってもらえませんか?」
そんな都合の良いことは、不誠実なことはできない。そう口にする前に、梨紗はベンチから立ち上がる。
「ほら、早く帰らないと補導されちゃいます。私、女子中学生なんで」
そういって悪戯っぽく笑った梨紗に引っ張られ、家に帰る。
結局その日は、告白についての話はそれ以上出なかった。
家に帰った柊は、何もする気になれず、布団に倒れ込む。
人生で初めてされた告白に、少なからず動揺していた。柊を見つめる真剣な瞳が、想いの丈を一言ずつ紡ぎ出す唇が、脳裏に焼き付いて離れない。
俺は姫川が好きだから、と内心で自分に言い聞かせるのが、逆説的に自分の動揺を証明していることにも、気づいていなかった。