7月 4日(日)夜 ドリアってイタリアにはないんだって
椿に手を掴まれたまま改札を通った柊は、姫川の乗ったであろう電車が出発した頃を見計らってホームへ向かった。
「で、俺らどこ行くの?」
「とりあえず、館浜までいって、何か所か見て回ろうと思ってる。柊は何か買うもの考えた?」
「いや、考えてない」
「じゃあ今考えて。制限時間はあと15分。駅に着くまで」
姫川は何をもらうと喜ぶのだろうか。かぐや姫様だし、燕の子安貝でも用立てねばならないのだろうか、と頭をよぎった考えを即座に打ち消す。それでは求婚になってしまう。
「ねえ、柊、なんで顔赤くしてんの、気持ち悪いんだけど。何想像してんの?」
本格的に引き気味な椿を視界の端で捉えながら、再び思索を始める。
姫川といえば、かぐや姫。かぐや姫といえば竹。竹といえば、
「パンダ?」
いや、あれは笹だっただろうか。
「ちょっと今度動物園に行くのに今パンダあげてどうすんの」
「あ、そうだった」
「柊ってほんとに勉強以外に頭使えないよね」
冴えわたる椿の突っ込みにあえなく切り捨てられる。
結局、何も思いつかないまま館浜についてしまった。
「じゃあ、とりあえずLeFtとか行って一緒に見る?」
「あ、うん。そうする」
その店は、デパートのエスカレーターを延々と昇り続けた先、7階にある。文房具などをはじめとした生活雑貨がなんでも揃う便利ショップだ。
まず始めに椿が嬉々として向かったのはハンカチコーナーである。
「ほら、柊見て、パンダ!」
「これから動物園行くのにってさっき言ってたじゃん」
「そうだけどさぁ。でも可愛いじゃん? あ、こっちも可愛い!」
しばらくそんな会話を繰り広げた末に、次の場所へと移る。結局買わんのかい、と腹の底で突っ込みを入れつつ、笑顔で次のコーナーへ向かう。
結局、しばらく二人で見て回ったあと、いったん解散してそれぞれでプレゼントを購入する。椿は柊をほかの店にも引っ張っていこうとしたのだが、時間が遅かったこともあって全力で引き留めた。
それでも、買い物を済ませ、スマホで道を見ながらファミレスにたどり着いたころには20時を過ぎていた。席に着くとメニューを見ずにドリア2つ、マルゲリータピザ1枚とドリンクバーを注文して、ようやく人心地つくことができた。
ドリンクを飲みつつ、間違い探しに興じるものの、10個中8個までしか見つからないまま、ドリアが来てしまう。椿は5個しか見つけていなかった。
「そういえば、」
ドリアを嚥下しつつ口を開く。
「ドリアってイタリアにはないんだってね」
「え?」
椿はドリアを口に運ぶ手を止めた。
「じゃあどこの料理?」
「日本」
しばしの静寂が二人を包み込む。
「えっ。じゃあ、ミラノに行っても……?」
「ドリアは出てこないよ」
「まじかぁ。ドリアって和食だったのかぁ」
「いや、日本発祥だけど和食とはちょっと違うんじゃない……?」
スプーンに載ったドリアをまじまじと眺める椿が面白くて、つい笑ってしまう。丸一日一緒にいるというのに、後からあとから、話題は尽きなかった。
「そういえばさ」
椿が切り出したのは、電車に乗り込み、2人で座席に腰を下ろした時だった。
「さっきの勝ち負けがどうとか、負けても死なないとか、何の話だったの?」
「ああ、」
そういえば結局説明しないままだったな、と思い出して、説明してやる。
「天徳内裏歌合っていうのがあってね」
「うたあわせ?」
「えっと、和歌バトルだね。簡単に言うと、帝の前で同じテーマについて、二人の人が和歌を詠んで、それを判者が判定するっていう勝負」
「なるほど」
「それで、『初恋』っていうテーマで平兼盛と壬生忠見って人が歌を詠んだんだけど、そのときに兼盛が詠んだのが『しのぶれど』、忠見が詠んだのが『恋すてふ』だったんだよ」
「てことは、さっきの話からすると、忠見が負けたの?」
「うん、そうだね。互角で判者もかなり迷ったんだけど、最終的には村上天皇の呟きで兼盛の勝利に終ったんだとさ」
「なるほど」
「それで、負けた忠見はそれが悔しかったらしくて、食事も喉を通らず死んでしまったんだと」
「それで、かおるんは負けても死んだりしないっていったのか」
ようやく得心がいった顔で大きく頷く椿。
「でも、どっちかというと負けたからって死にそうなの柊だよね」
「いや、いくらなんでも死にはしないよ」
「どうかなぁ。柊って結構負けず嫌いじゃん?」
「まあね。何にしても負けたくないって思って、頑張ってきたから。それに、勝てなさそうな勝負は初めから捨てちゃうから、頑張ったけど敵わなかったみたいな記憶は、あまりないかも」
なぜか、椿は真面目な顔でこちらを見つめたまま、口を開かない。少し手前みそになったかな、と思い、話を続ける。
「ほら、俺得意な土俵に力を注ぐタイプだから。そのせいで中学の頃は副教科の内申ひどかったんだけどさ」
それでも、椿は口を開かない。
ゴトン、ゴトン、という音を10ほど数えた頃だろうか。椿がやっと口を開く。
「だから、今も逃げてるの?」
全く身構えていなかった分、その質問が柊の心臓に与えたダメージは大きかった。心臓の鼓動が一気に早鐘を打ち始め、電車の音が意識から抜け落ちていく。何のこと、ととぼけようとしても無駄なのは、椿の目を見れば嫌でも分かった。
「別に逃げてなんか」
「じゃあ、何かかおるんにアプローチした? デート誘った?」
「いや、してないけどさ……」
椿からの直球の質問に、思わずたじろいでしまう。
対する椿は、覚悟を決めたような真剣な眼差しで、柊の心を抉ってくる。
「負けるのが怖いんだよね。振られるのが怖い、関係を崩すのが怖い、だから踏み出せない」
「そんなんじゃなくて、ただ、あいつは、あいつが……」
「自分のことが好きな男子が嫌いだから?」
「そう、そうなんだよ……」
真っ直ぐな椿の迫力に押されて、つい語尾が萎んでしまう。
「ほんとにそう思う?」
「えっ?」
今度こそ、椿の問いかけの意図が分からず、問い返す。
「かおるんが誰からも好かれたくないんだって、ほんとに思う? 伝奇物語とか、月から来たお姫様とかじゃなくてさ、生きてる女の子なんだよ、かおるんだって」
興奮が抑えられないように、椿の語気が少しずつ荒くなる。
「柊が男子だからって、好意を持たれたからって理由だけで、嫌いになるなんてさ」
小さな肩が、呼吸とともに大きく上下する。柊を睨みつける、僅かに濡れた鳶色の瞳が、彼の視線を吸い込んで逸らせない。
「そんなこと、あるわけ、ないじゃん」
それまでの激しさが嘘のように、ぽつり、ぽつりと、唇から言葉が零れ落ちる。一つ一つの言葉が、柊を苛む。
「そんなこと言ったって」
口をついて出てきた言葉の、続きが見当たらない。
そのままどちらも口を開かず、重々しい沈黙が二人を覆う。ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、という電車の音が聞こえる分、かえって静かに感じてしまう。
幸いなことに、最寄り駅までほんの数分黙っていればいいだけだったが、なぜだかその数分は、勉強会の7時間より、長く感じた。
改札を抜けたところで別れようとする椿を引き留め、家まで送る。椿も強くは拒絶せず、気まずいまま、並んで歩く。それでも、「歩く」という動作をしている分、先ほどよりはましだった。
「じゃあね」
声をかけてくる椿に、包みを渡す。
「何、これ」
「ハンカチ。柴犬の見てるときだけ、目の色が変わってたから」
椿がふっ、と口から笑いを零す。
「まあ、女子への態度としては合格なんだけど、私にやってどうすんのさ」
「いや、別に、そういう意味じゃ」
慌てる柊を見て、声を上げて笑う椿。
「分かってる分かってる。ありがたく頂いておくから」
そう言って、少しだけ柊の方へ歩み寄る。
「大切にするね」
小声でそう言い残すと、今度こそ家へと向き直り、それからもう一度柊の方を向いて、きっぱりと言い放つ。
「リスクを背負う覚悟があるなら、応援も協力もする。でも、それがないなら私の友だちに手を出すことは許さない」
「分かってるさ」
柊も目を逸らさずに答える。
「なら良し。まあ、どうせダメならさっさと玉砕してきちゃいなよ」
「いや、ひどくね」
ふふっと楽し気に笑う椿は、もう普段通りの椿だった。
「じゃねー」
そう言って手を振る椿に手を振り返して、彼女が家に入っていくのを見送った。直前の椿の真剣な顔が目に焼き付いて離れない。それをかき消そうと思って空を見上げれば、ベガとアルタイルが意地悪そうに瞬いていた。