7月 4日(日)昼 椿ちゃんが全力で斜方投射してたよ
今日の待ち合わせは柊と椿の最寄り駅に10時。薫子だけは電車で来る。女子を待たせることは大罪らしいと噂に聞いた柊は、9時30分くらいに改札にたどり着いた。
「あ、柊くん、おはよう!」
アンニュイな表情で壁にもたれていた彼女が、ぱっと顔を明るくして挨拶をする。
「おはよう、ひめ……薫子。早いね」
「うん、楽しみだったから、早く来過ぎちゃって、どう時間を潰そうかなって思ってたんだ。って言っても、ついさっき来たばかりなんだけどね」
会話が少しデートっぽいことに気づき、心拍数が一気に上がった。薫子と付き合うようになったら、もっと頻繁にこんな会話をするようになるのだろうか。そんな考えが頭をよぎると、柊の心臓は鼓動をさらに速め、段々と頭に血が上ってくらくらしてくる。
「え、ちょっと柊くん顔赤いけど大丈夫? 熱中症?」
諸悪の根源は、無自覚にも、心配そうな表情で顔を近づけてくる。涼しげなオフショルダーから覗く、搗きたての餅のような白い肌に虜にされそうだった柊の視線は、鋼の意志によって無事逸らされた。しかしその必死のあがきもむなしく、彼の視線は、いつになく鮮やかな唇にあえなく捕捉され、それ以上動くことは敵わない。どうやら、薫子は珍しくほんのりと化粧をしているようだった。
「ちょっと、そんなガン見されると恥ずかしいんだけど」
彼女はうつむき気味になって、茶化すようにそう言う。ほんのりと赤みのさした頬は、淡い水色のトップスと対照的で、柊は思わず息を飲む。それから我に返って、慌てて言葉を紡いだ。
「ごめん、薫子の私服初めてみたから、その、想像以上に似合ってて、いや、もちろん普段の制服も似合ってるんだけど、その、なんかいつもと違う可愛さにびっくりしたっていうか……」
「分かった、分かった。ありがとう」
血の上った頭でなんとか取り繕おうとする柊を、苦笑しながら薫子が宥める。
「あ、うん……。なんかごめん」
「ううん、褒めてもらえたのは嬉しいよ。柊くんのことだから、1時間くらいしてから『なんか普段と違うと思ったら、私服だったのか!』とか言われると思ってた」
「いや、俺なんだと思われてるの?」
「物理オタク?」
「薫子と言い椿と言い、俺の扱いひどすぎない? 俺の人権どこ行ったの?」
「うーんと、椿ちゃんが全力で斜方投射してたよ。斜め45度で」
「まじかよ。空気抵抗なければ一番遠くまで飛ぶ角度なんだけどそれ」
指をかすかに曲げ、口角の上がった唇に軽く当てて考えるような仕草を作る姫川。それを柊が正視できるはずもなく、姫川に隣り合うように壁にもたれて駅前の通りを眺めながら会話をしていた。
「椿ちゃんそっちから来るの?」
「うん。一緒に帰るときはいつも向こうに歩いていく気がする」
「そうなんだ。でも、女の子と話してるときに別の子のこと考えるのは、いけないんだよ?」
「ご、ごめんなさい……」
女の子が怒ってるときは、男に非があることにする方が丸く収まるので、すぐに謝る。昨日椿に言い聞かされた絶対原則である。
「あはは、そんなに畏まらなくてもいいのに。浅宮先生?」
末尾にかかったスタッカートは、柊の心臓を全力で止めにかかる。
「あ、椿来たよ!」
救世主がゆっくりと歩いて来るのをみて、ほっと一息つく。2人きりではなくなるのは残念だが、このままでは柊の心臓が一生分の鼓動を終えて止まってしまいそうだった。
「だからそうやって他の子の話するー」
頬を膨らませて見せる薫子の顔は、ハムスターの頬袋を彷彿とさせる。
「おはよっ。お待たせ―」
「ううん。まだ15分前だから。私たちが早く来すぎただけ」
「まあね、確かにね。私一番乗りだと思ってたのにまさかのビリとは」
悔しそうな顔の椿は、はっ、と何かに気付いたような声を上げる。
「お主ら、私が来るまで2人きりの時間を満喫しておったな。まさかそれを見越して……」
「いや、別にそういうんじゃないから」
姫川が思ったより真面目な声色で否定するのを聞いて、少しだけ心が痛んだ。
とりとめのない会話に花を咲かせながら歩いていると、気づけば椿の家に到着していた。だがここで、柊は重大な問題に気が付いた。今まで忘れていたが、考えてみれば、椿は女子なのだ。同性の友だちが家にくることならあるかもしれないが、男子が遊びにくる、というのはお家の方がどう思うのだろうか。
そんな柊の懸念を知ってか知らずか、椿はぐいぐいと進み、扉を開ける。
「ただいまー」
「お邪魔します」
「お邪魔します」
「あ、つーちゃん、お帰りなさい。他の2人も、いらっしゃい」
「ちょ、ちょっと、つーちゃんはやめてって言ってるでしょ」
奥から出てきたのは、椿と同じくらいの身長の女性。顔立ちは、瓜二つだが、どことなく大人びた雰囲気を纏っている。
「椿ってお姉さんいたっけ?」
「ちょっとやめてよ、これ母だから」
心底嫌そうに顔をしかめた椿の返事に、あとの2人は揃って言葉を失う。目の前の、せいぜい25歳くらいにしか見えない女性が、椿の母親、という事実に、脳がそれ以上の入力を拒絶してしまい、動けない。
「若いのにお上手ね。さあ、どうぞ上がって上がって」
信じられない気持ちを胸に抱えつつ、促されるままに家に上がらせてもらう。一応、昨日梨紗の家を辞した後急いで買いに走った菓子折りを手渡し、挨拶をする。
「はじめまして、椿さんと同じクラスの浅宮です。本日は突然伺うことになってすみません」
「ご丁寧にどうも、浅宮くんのことはつーちゃんから良く聞いてるよ。いつも娘がお世話になってます。お菓子もわざわざありがとう」
上手く挨拶ができた安心感に、胸をなでおろす。
「じゃあ、客間に案内するから、ついて来て」
椿に従って、手を洗ってから客間に通される。柊と机を挟んで向かいに椿、その隣に姫川という配置。正直に言えば少し残念だったが、成績の芳しくない椿を残りの2人でカバーする構図である以上、やむを得ないことでもあった。
「さあ、じゃあ今日も勉強するぞー」
「お、おー」「おー」
突然の椿のテンションに、戸惑い気味に追従する柊と薫子。
「気合が足りない! 勉強するぞー!」
「おー!」「おー!」
「まだ足りない! けど、今回はこれくらいで許してやろうか」
それからはいつも通りの自習だった。2人が分からないところを柊に質問して柊が答える。柊は柊で、英語は薫子ほどは得意でないこともあり、たまに質問する。1度、薫子も答えられず2人して首を捻り、辞書と参考書をめくりながら激論を交わしたこともあった。
順調に勉強を進め、昼時になる。昼食はどうするのだろう、と思っているところで、ドアがノックされた。
「どうぞー」
椿の声に応じてお母さんがひょこっと頭を出す。
「お昼、素麺でいい?」
「私はいいけど、2人は?」
「私は大丈夫です」
「僕も大丈夫です。わざわざありがとうございます」
「いいえ、どうせ今日もつーちゃんが一方的に教えてもらってるんでしょ。これくらいはさせてもらわないと」
そう言って頭を引っ込め、扉が閉まる。
「なんか集中切れちゃったし、素麺が茹だるまで休憩にしよっか」
椿の一言を皮切りに、雑談タイムが始まる。椿の剣道の話と薫子のかるたの話が思いのほか盛り上がり、話が一区切りついたのは、素麺を食べ終わってしばらくたった頃だった。
「椿、キッチンの場所教えて。お皿洗いたいから」
「いいよ、あとでやっておくから。そんなに洗うの大変じゃないし」
「いやいや、流石に申し訳ないから、皿洗いくらいはさせてくれ」
という不毛な争いは、いつの間にか現れた千歳母に笑顔で食器を回収されて、無事終結した。椿の有無を言わさぬ笑顔は母親譲りだったらしい。
結局17時頃まで続いた勉強会は、椿の
「私疲れた。もう無理」
という一言で幕を下ろした。そこからソファーに座ったままの雑談パート第2弾が始まる。
「かおるんって百人一首全部覚えてるの?」
「私は全部覚えてるよ。でも、かるたやってても、丸々は暗唱できない人も多いと思う。決まり字さえ分かっちゃえばかるたはできるから」
「へえ、そうなんだ」
「薫子の好きな歌は?」
「好きな札は『うら』だけど、歌として好きなのは『こひ』かな。『恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか』って歌。柊君は?」
「俺は……」
薫子と違い、一応百首頭に入っている程度の柊は、とっさに頭に浮かんだ歌を答える
「忍ぶれど」
「あら、奇遇ね」
姫川の言葉に、はて、と首をかしげるが、少し考えて彼女の言わんとしていることに気付く。
「確かに。それでいくと勝つのは俺だけどな」
「あはは。私は別に負けたからって死んだりしないから」
2人の間で交わされる会話に、間に挟まれた椿が疑問符を浮かべるの無視して、軽口を叩きあう。2人だけの秘密のようで楽しかったが、あとで口を尖らせた椿の機嫌を取るのが大変だったのは言うまでもない。
「今日は2人ともありがとう。楽しかった」
「こちらこそー。またいつでも遊びに来てよね! お母さんもかおるんのこと気に入ったみたいだし」
「うん、ありがとう、柊くんも、また明日」
「また明日」
挨拶を交わしてから姫川を見送る。彼女が改札を通ってホームに向かったのを確認した柊は、踵を返して家に帰ろうとして、腕を掴まれた。
「柊、まさか帰るつもりじゃないよね?」
「ん? そのつもりだけど」
「へぇ、かおるんのプレゼント、いつ買うつもり?」
「え、えーっと……」
「てことで、今から買いに行こ」
「あ、まじすか」
「大マジ。あ、夕飯いらないって家族に連絡しておいた方がいいかもね」
「まじすか……」
頭を抱えたまま、椿に手を引かれて改札を通る。