7月 2日(金) 俺、古典も得意だよ?
浅宮柊は悩んでいた。姫川に渡す誕生日プレゼントをどうすれば良いか、見当もつかなかったのだ。大いなる悩みを前にして授業にも身が入らず、柊は教室の窓にぶつかっては滑り落ちる水滴をぼんやりと眺めつつ、頭を悩ませていた。
柊は、正解がある問題が好きだ。適切な条件が与えられていて、論理的に考えれば正答にたどり着けるのであれば、文系とか理系とかに拘わらず得意としていた。一方で、解答がない問題や、必要な条件の足りていない問題を考えるのは、あまり好きではないのだ。
姫川が何が好きなのか。どんな趣味があって、どんな色が好きで、何をもらえたら喜んでくれるのか。考えるほどに、自分がいかに姫川のことを知らないのか、思い知らされる。これだけの情報で姫川の喜ぶプレゼントなんて分かるわけがない。そこまで考えたところで、柊は妙案を思いつく。
「本人に聞けばいいんじゃね」
まさに天啓。本人に聞けば一発で解決することを、どうして1人で悩んでいたのだろう。まさにコロンブスの卵のような解決策に、ほっと安堵したのも束の間のこと。
「ねえ柊」
背後から聞こえたのは、最近毎日のように耳にする、明るく澄んだ声。だが、普段より少し抑揚がない、どこか取り繕ったような明るい声は、柊の背筋を撫でるように伝い、鳥肌を誘う。
「今のって、まさかと思うけどかおるんのプレゼントの話じゃないよね?」
空気が読めない、と言われ続けて育った柊でも、今の状況で「そうです」と答えてはいけないことが分からないほど、鈍感ではない。
「まさか。そんなわけないじゃないか。はっはっは」
どうしてだめなのだろう、と頭をフル回転させてみるものの、答えは出ない。だから、笑ってごまかすことにした。
「そうだよねー。いくら柊でも『プレゼントなんて何買えば良いかなんて本人に聞けば一発じゃん俺頭良いわ』なんて考えるわけないかー」
「ははっ。はははっ」
図星を指された柊は、テーマパークに棲むネズミのような笑い声しか出せなくなっていた。
「ああ、もうこれだから柊は。なんで物理にしか頭を使えないかな」
「いや、俺、古典も得意だよ?」
「だから! そういうところ!」
ちらりと椿に視線を向けると、なぜか心底呆れたような視線を感じた。助けを求めて昂輝を見たが、彼も同じような目をして、ため息をついていた。
その日の放課後、教室に残ったのは、柊と姫川の他に5名ほど。昨日の様子を村田が男子の間で話したらしく、姫川目当ての男子も残っているように見える。因みに村田は、椿が部活でいないというのを聞いて
「うち母さんが病み上がりで、早く帰っていろいろ手伝わなきゃいけないんだ」
と説明くさい台詞を吐いて帰って行った。男子のうちの数人が、英語で分からないところがある、と言って何度も姫川に話しかけている。姫川はといえば、男子の方を一顧だにせず
「私教えるの下手だから」
「浅宮くんに聞けば」
と言うのみで、とりつく島もない様子だ。結局、姫川に絡むのは諦めたようで、かといって柊に質問しに来るわけでもなく自分の席に戻る。相手にされていないと分かってはいても、男子が姫川にちらちらと送る視線は見ているだけて鬱陶しかった。それに加え、今日の自習中は一度も姫川が話しかけに来なかったことが、柊の不機嫌に拍車をかけていた。
完全下校時刻を告げるチャイムを聞いた柊と姫川は、他の生徒と別れ、職員室で鍵を返してから帰った。
「私、いつもの3人で黙々とやる感じが好きだったんだけどな」
仏頂面を浮かべた姫川が、頭上の傘を指で弾きながら漏らした呟きにノータイムで同意しそうになる。だが、好感度への影響を鑑みて一応彼らのフォローをしておくことにした。
「テスト前だし、勉強したいって人が増えるのは仕方ないよ。特に俺と姫川は学年1位と2位なんてとっちゃったわけだしね」
「勉強目的じゃないの分かってて言ってるでしょ。あいつら視線がほんとに気持ち悪くて勉強にも集中できなかった。それに……」
「それに?」
「他の男子の前で浅宮くんと仲良くすると、中山くんのときみたいに迷惑かけちゃうかなって思って。だから今日は浅宮くんと話し足りてない……」
少し口を尖らす姫川の横顔に、胸の奥から心臓が絞られたような、きゅう、という音が鳴る。果たして彼女は何回柊を落とせば気が済むのか。胸の内で荒ぶる感情を貼り付けたような笑顔で辛うじて覆い隠す。
「俺もそうかも。姫川と話し足りない」
赤面ものの台詞を平気な顔で言う技術は、ここ数日で相当上がったと自負している。
「あはは、一緒だね。だけどもう改札だ」
姫川と一緒に帰れるのは改札まで。だから、いつも通り改札を抜けた後、手を振って挨拶を交わしたのだが、
「あとで連絡するから!」
とだけ、囁いて、そのまま反対側の階段をいそいそと降りていった。
あとで、というのはいつなのだろう、と下ったホームで考えていると、早速姫川から連絡が来る。JKの「あとで」は最短5分後。柊はまた一つ賢くなった。
『柊くん柊くん』
<かおるこが画像を送信しました>
『可愛くない?』
姫川から送られてきた画像は、笹を食べるジャイアントパンダ。そう言われても、姫川の方が可愛いと思ってしまう柊である。
『パンダって良いよな』
『笹食べて寝てるだけで仕事になるんだぜ』
『自宅警備員みたいなもんじゃん』
『自宅警備員って何それ笑』
『それはニートって呼ぶんだよ』
『因みにニートって neat じゃなくて NEET なんだよ』
『何の略でしょう』
『Not in Education, Employment or Training』
『ちぇ、即答か』
『私さ、前 neat って単語出てきたときに』
『仕事がないって意味かと思って文の意味が全然分からなかったことある』
『そりゃまた全然違うな』
『それで文の意味取れたらそっちの方が奇跡だろ』
下らない会話をしている内に、ささくれ立っていた心が徐々に落ち着いていくのが分かる。
『柊くん、機嫌直った?』
『え?』
『機嫌って?』
『いや、話してて機嫌悪そうだったから』
『私と話せなかったのそんなに嫌だったのかなって思って』
絵文字も顔文字もない画面からでも、姫川が悪戯っぽく笑っている顔が容易に想像できる。
『ちょっとだけ嫌だったかかも』
『でももう機嫌直ったから大丈夫』
『あはは』
『柊くんってば正直だね』
『そういう姫川はどうなんだよ』
『うーん』
『内緒』
『女の子には謎があるものなんだよ』
文字で打つと、普段なら死んでも言えないことがさらっと言えてしまう、という恐ろしさがある。正直になりすぎたかも、と少しだけ後悔しても、取り返せるものでもない。
『俺だけ曝け出すのは不公平じゃない?』
以前の姫川の台詞をそのままぶつけてみる。
『なんと言われても、内緒』
姫川の難攻不落っぷりは今日も健在なようだった。