6月30日(水) かぐや姫様はパンダが見たい
目覚まし時計の音が鳴り響く。まるで寝た気がしないが、起きて学校には行かねばならない。朦朧とした意識の中で目覚まし時計に手を伸ばし、アラームを止めて、布団にうつ伏せになる。時間には多少余裕があるのだ、2,3分布団でごろごろしていても問題はないだろう、そう考えながらそっと眼を閉じた。
ふと意識が覚醒し、飛び跳ねるような勢いで身を起こす。視界に入った時計の針は、7時20分を指していた。普段ならとっくに電車に乗っている時間。それを認識するが早いか、柊は一陣の風となり、制服に着替えて家を飛び出す。
家を出るまでに要した時間は4分。普段10分はかかる駅までの道のりを7分で走りきり、来た電車に乗り込んでようやく一息ついた。胸をなで下ろしつつスマホの通知を確認した柊は、思わずうめき声を上げた。
『遠足の班って誰と行くかもう決めた?』
その連絡は、姫川からだった。期末試験が終わった後、終業式前に遠足がある。集合と解散の場所こそ指定があるものの、その間の行動は各班の裁量に任されている。すっかり忘れていたが、その班決めはクラスの遠足係主導で行われ、今日のホームルーム前に話し合うことになっていた。
『決めてない。そして今日は寝坊して到着がHR直前になりそう』
もちろん、参加しなくてもどこかしらの班には入れるだろう。しかしその場合、他の班に入れてもらえなかったもの同士で班を組むことになり、大して仲良くもない班員同士で自由行動をすることになってしまう。
『そうなんだ』
『でも、逆にチャンスかも?』
そう連投してきた姫川の意図が汲み取れず、聞き返す。
『どういうこと?』
『まあ、後で。上手くいくかも分からないし』
どういうことだろう、と首をかしげながら、遠足係の椿にも連絡を送る。
『ごめん、今日寝坊して遠足の班決め参加できそうにない』
『知ってる』
『え?』
『かおるんから聞いた。上手くやっとくから、HRぎりぎりの時間に入ってくるようにして』
女子高生間の情報の伝達速度は、もしかすると光速を超えるのではないか。そんな、アインシュタインに喧嘩を売るような感想を抱いてしまう柊であった。
始業時間40秒前。息も絶え絶えに教室にたどり着くと、当然ほぼ全員が着席していた。
「お、不届き者1号がようやく見えたぞ」
教壇から声をかけて来たのは、遠足係の千歳椿。
「1号?」
よく見ると、確かに柊の他にあと2つ空席があった。
「てかあの席って……」
言い終えるよりも早く、先ほど柊が入ってきた扉が再び開く。始業時間10秒前。珍しいことにぎりぎりでかぐや姫様がやって来た。
「班決め会議を欠席した不届き者3名は私と班を組んでもらいます。異論は認めません」
「分かりました。すみません」
椿の一方的な宣告に顔色一つ変えず応じる姫川。そもそも始業時刻10秒前に、息も切らさず入って来ている時点で、意図的な遅刻だろう。
「ちょっと待てよ」
同級生の男子が上げた声は、担任の入ってくる音にかき消された。
「班は決まったか」
「決まりました」
男子の抗議を黙殺して担任に報告する椿。
「待てよ。こんな決め方は姫川がかわいそうだ」
気色ばむ男子を一瞥した椿は、そのまま姫川へとスルーパスを送る。
「だそうだけど、どう、かおるん?」
「別に良いよ。私が遅れたのが悪いし。それに、仲の良い友だちとはいつでも遊びに行けるからさ。その他のクラスメイトと親交を深めるのも、遠足の醍醐味だもん」
しれっと返す姫川。
「そもそも薫子が余り物班に入らなかったとして、あんたの班には入んないと思うけど」
不機嫌そうな女子の援護射撃がどこかから入り、いよいよ教室全体が殺気立ってきた。
「え、これどういう状況?」
ピリピリとした教室の空気は、遅れて入ってきた不届き者3号こと、武井昂輝ののんきな声によって心なしか中和された。なお、始業時間に遅れること3分。歴とした遅刻である。
放課後、柊と姫川の前で椿が胸を張っていた。
「ナイスアシストでしょ、感謝してくれて良いんだよ」
姫川が誰の班に入るかを巡って班同士で争いが起こってしまったのを仲裁し、姫川抜きで班を決めさせた。その上で、「遅刻するような不届き者は遠足係の目の届く範囲においておかなければ」というこじつけのような理由を遠足係の強権で押し通し、椿を含めた4人班を成立させてしまったらしい。
「まああと一人どうしようかなって思ってたんだけど、昂輝のやつナチュラルに遅刻してくるんだもんなぁ。まあ結果オーライって感じだけど」
「あはは、そうだね。他の人たちの誘い、どうやって断ろうか悩んでたから助かった」
「うん、俺も助かった。名前しか知らない人と組むことになるかと思ってヒヤッとしたから」
「ま、まあね、友人として当然のことをしたまでだけどねっ!」
自分で要求したくせに、感謝されると途端に照れ出す椿。彼女の思わぬ弱点を発見して柊は内心でほくそ笑む。
「た、対価として分からないところいっぱい聞きに来るからね! せいぜい覚悟しておくんだよ!」
「おう、お手柔らかに」
「え、私はどうやってお礼すれば良い?」
「かおるんの分まで浅宮に支払ってもらうから大丈夫。それくらいの甲斐性はあるでしょ」
「別にいいけど」
「え、良いんだ?」
ぼそっと返事をした柊に切れの良いツッコミを入れる姫川。その隣でにやにやしている椿が気に入らない。先ほどの褒め殺しの報復だろうか。
「姫川、部活行かないのか」
唐突にかけられた声に反応して扉の方に顔を向けると、例の山なんとかくん、いや、なんとか山くん。つくづく今日はトラブルに見舞われる日だ、とため息をつく。
「ごめん、試験勉強やばくて」
「姫川勉強する必要ないだろ。学年2位じゃん」
「物理だけどうしてもできなくて。だから浅宮くんに教わってるの」
「物理なら俺得意だから教えてやるよ。前のテスト57点だったんだぜ」
胸を張る彼に何と返せば良いか分からず、3人で顔を見合わす。
「そ、そう頑張ったんだね」
実際平均点が38点であることを考慮すれば十分高得点だ。
「姫川はどれくらい取れたんだ?」
鬱陶しいほどのどや顔を浮かべて訊ねてくる。総合順位は確認していても、教科ごとの成績までは見ていないようだ。
「私は、73点かな」
山なんとかくんの顔が固まる。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とプレートをつけて展示したいほど、見事な固まりようだった。強張った顔のまま、おそるおそる柊の方に体を向け、尋ねる。
「え、じゃあそっちのストーカー男は?」
「100点。てかストーカーじゃねえ」
「ごめんもう一度言ってもらえる?」
「だから、ストーカーじゃねえって言ってんだよ!」
「そっちじゃない!」
未だに現実が受け入れられないなんとか山くん。それを見た椿が、呆れた顔で割り込んでくる。
「この2人さ、中間の学年1位と2位だよ、物理基礎。こいつらのせいでうちのクラス平均点が学年平均より2点も高かったんだから」
「え、だって、姫川さっき物理が苦手って」
「だからさ、こいつらの苦手って私ら一般ピーポーの得意より上なの。身の程ってものを弁えなよ」
涙目になって黙り込む彼を教室の外まで誘導し、扉を閉めて帰ってきた。
「まじでなんなのあいつ。露骨にマウンティングとってくる時点でないのに、失敗したから泣き出すとか。もう少しまともな人間性を身につけてから出直しなさいってね」
椿は溜めきった鬱憤を一息で吐き出すと、きりっと表情を切り替える。
「よし、勉強始めようか」
その日の帰りは、遠足の話で盛り上がった。そして、メインの行き先は女子2人によって動物園に決まっていた。一応柊も意見を求められたのだが
「かおるんがパンダみたいらしいんだけど、浅宮もそれでいいかな?」
と聞く椿は、柊が拒否しないと確信している顔つきだった。因みに昂輝の議決権は一切考慮されなかった。