6月23日(水) 私が苦手なのは……
「起立、気をつけ、礼」
「ありがとうございました」
6時限目の授業が終わった瞬間、教室に充ちていた静寂は弾き飛ばされ、一転して賑やかさに包まれる。だらだらと駄弁りつつ帰り支度をするものに、大きなエナメルバッグを提げて部活動へと走るもの。
「今日部活どうする?」
「サボってゲーセン行こうぜ」
「いや、2週連続はヤバくね?」
そんな会議を大真面目に繰り広げるものもあった。
柊は、そんな雑然とした空気が好きだった。まとまりのないノイズを楽しみながら、机上に数Ⅰの問題集を広げる。それから、シャーペンの尻を数回ノックすると、ノートの上をさらさらと走らせ始めた。ずらりと並ぶ問題をやっつけていくうち、それと呼応するように同級生たちは1人、2人と教室を後にしてゆく。身を潜めていた静寂がおずおずと教室に舞い戻ってくる。
「じゃあ浅宮、鍵よろしく」
黙々と黒板の掃除をしていた日直も、20分かそこらで仕事を片付けてしまったらしい。柊の机に鍵を遺し、軽やかな足取りで教室を後にする。いつもなら、これで教室は無人になり、柊は静かな教室を独占できるはずだった。
ところが今日は、どうしたことか、クラスメイトが1人残っていた。おもむろに彼の方へ歩いて来たは良いものの、柊の傍らで立ち尽くしている。話しかけるタイミングが掴めないようだ。
さすがに気が散るので、小問が解き終わったタイミングで顔を上げた。
「あの、浅宮くん、ちょっといいかな」
恐る恐るといった面持ちで話しかけてきた少女は、クラスメイトの姫川薫子。見る者の目を釘付けにする美貌に、快活で優しげな雰囲気併せ持つ彼女は、クラス中から驚異的な人望を誇っている。
一方で男子とは最低限の会話しかせず、男子からの遊びの誘いもすべて黙殺。それでも高校に入ってしばらくの間は、毎日のように告白されていたようだが、3ヶ月経った今となっては、アプローチする猛者もいなくなっていた。
「難攻不落のかぐや姫」ともあだ名される彼女が、どうして自分に話しかけてきたのか。戸惑う柊を他所に、彼女は話を続けた。
「浅宮くんって理系科目得意だったよね」
「うん、そうだね、割と得意」
「物理の今回の範囲で分からないところがあってさ。もしよかったら教えてもらえないかなと思って」
姫川の用事は、柊の予想とそう違わないものだった。
「別に良いよ」
「ほんと? ありがと! 私の友だち、物理苦手な人が多くて。みんなして『私も分かんない』って言われちゃうから困ってたんだ」
彼女は、それまで浮かべていた不安の色を瞬時に霧散させ、顔を綻ばせる。
柊の高校では、定期試験ごとに科目別順位が掲示板に貼り出される。彼女は総合で学年2位だったが、物理基礎でも2位だったはずだ。そんな彼女にものを教えられる友人がみつからず、1位をとった柊を頼ってきたのだろう。
それにしても、姫川が目の前で笑うと、眩しすぎて目眩がしてくる。天真爛漫なこの笑顔を見れば、彼女の圧倒的な人気にも納得せざるを得ない。
「分かる範囲でよければ、説明するよ。ただ、分からないところもあるかもしれないから、そしたらごめん」
「大丈夫。浅宮くんが分からないのなら、私が教えてもらってもどうせ分からないから」
「じゃあ、早速だけど、どこが分からないのかな」
「えっと、この問題なんだけど、どう解けば良いかよく分からなくて……」
そういって彼女は付箋のついたページを開く。だがそれは、あまりに易しい問題で、どうして躓いているのかが分からない。
とりあえず、一番の基本から確認をしていくことにした。
「運動方程式って分かる?」
「えっと、えむえーいこーるえふでしょ」
「mとaとFってなんのこと?」
「えっと……」
姫川はぱらぱらと問題集のページをめくると、目当てのページを見つけて読み上げる。
「mが質量、aが加速度。Fは力」
「オッケー。じゃあ、この問題で質量は何kg?」
「3.0kg」
「力は?」
「6.0N」
「そうだね。それを運動方程式に代入してみて」
「代入って文字の代わりに入れれば良いんだよね」
「そう」
「えっと……」
彼女は首をかしげつつ、ノートに式を書いている。見れば、
と記されている。
「そこまで大丈夫だね。じゃあaはいくつ?」
「2?」
「そう! ただ、有効数字2桁だから2.0ね。単位もつけて」
「えっと加速度の単位は……」
姫川は、なにやらぶつぶつと呟きながら、前のページを確認しつつ、答えを書き込む。
「うん、それが答えだよ」
「え、これが答えなの?」
「うん」
「……そうなんだ」
どこか釈然としない面持ちで答えを書いた後、姫川は右手をぴん、と上に伸ばす。
「浅宮先生、質問です」
「何かな、姫川くん」
「実は『加速度』っていう言葉もあんまり分かってないのですが」
「それ前回の試験範囲なんだけど! よくそれで2番取れたね!」
思わず馴れ馴れしく突っ込んでしまった。焦って姫川の顔色を窺うが、あまり気にしている様子はない。むしろ、あはは、と笑って誤魔化そうとする様子は、噂に聞いていた冷たい印象とは少し違っているように思えた。
「今日は長い時間とらせちゃってごめんね」
完全下校時刻を迎え、2人肩を並べて駅へと歩く途中、姫川は本当に申し訳なさそうな表情で切り出してきた。
「あれくらいは全然大丈夫だよ。むしろ、俺にとってもありがたいくらい。体系立てて説明し直すのってすごい勉強になるから、気にしないで」
「そっか、それならいいんだけど……」
話が切れたタイミングで、柊は先ほどから気になっていたことを聞いてみることにした。
「姫川って男子が嫌いなのかと思ってたけど、そういう訳ではなかったんだね」
「うーん」
彼女が困ったような笑みを浮かべるのを見た柊は、慌ててフォローを入れる。
「ごめん、答えにくいこと聞いちゃったね。気にしないで」
「ううん、大丈夫。ちょっと嫌味っぽい言い方になっちゃうんだけどね。私が苦手なのって、私のことが好きな男子なんだよね」
予想外の台詞に絶句する。動揺を抑えつつクラスの姫川ファンの冥福を祈る柊の内心を知ってか知らずか、彼女は話を続ける。
「下心を感じる人には、勘違いされないように気をつけてるんだ。後で刺されても洒落にならないし」
「な、なるほど……」
まるでおとぎ話の姫君のようにモテる姫川だが、それはそれで楽ではないらしい。生まれてこの方モテたことのない柊には想像もつかないが。
「その点、浅宮くんからいやらしい視線感じたことないし。別に私のこと好きじゃないでしょ?」
「まあ、そうだね。てか人にあんまり興味ない」
「うん、そんな感じだよね。だから仲良くしても平気かなって思って」
美人も大変なんだな、という言葉を慌てて飲み込む。いたずらに容姿を褒めたら、下心を疑われて、警戒されてしまうかもしれない。一瞬流れた沈黙
は、姫川の方から払拭してくれた。
「浅宮くんっていつも教室で勉強してるよね」
「まあ、そうだね。図書館まで行くの面倒だし。家だと弟と妹がうるさくて集中できないんだよね」
「あ、妹さんと弟さんいるんだ。何年生?」
「弟が小6で妹が小4。どっちもしょっちゅう学校の友達連れてくるから、うるさいのなんのって」
下に2人もいる大変さをつらつらと語っているうちに、駅にたどり着いた。普段1人で帰る道のりより、幾分か近かった気がする。
「じゃあ、俺こっちだから」
「そっか。じゃあ、また明日ね!」
「また明日」
電車の方面が反対だったので、改札を通ったところで挨拶を交わし、別れた。
「はぁ……」
ため息をつきながらエスカレーターを下る。
『私が苦手なのは、私のことが好きな男子なんだよね』
彼女の声は、耳にまとわりついて離れない。万が一、彼女に好意を持っているような素振りを見せれば、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。
「はぁ……」
どうして好きになってしまったんだろう、と再びため息が出てきてしまう。これをきっかけに仲良くなれるかも、という期待に膨らんでいた胸も、ため息に合わせてシュルシュルと萎んでいくようだった。
ハードモードな初恋もあったものだなぁ、と三度嘆息をもらす。明日からも彼女に会える嬉しさと、明日からも続くであろう忍耐の日々への不安を抱えながら、少年はエスカレーターを下っていく。
難攻不落の初恋相手へ向き合い方は、高1の物理基礎では教えてもらえないようだった。
文章中の姫川のノートは「よく訓練されたフォント屋」さんの「g_えんぴつ楷書」というフォントを使用しました。