乱世、人に陰を生む
白馬。
曹操軍は、そこで袁紹を待ち構えていた。
遙か先に、黒い塊が見える。
「袁紹。奴が、遂に」
曹操はその塊を見つめていた。視線に答えるがの如く、風が塊を動かした。
黙って見つめていると、塊の中から一つ、動く影があった。それは一騎で、此方へと向かって来る。その者の鎧は日の光を受け、眩しく輝く。身に纏う豪華絢爛たる装飾が施された黄金の鎧は、亡き袁術を思い起こさせるものがあった。
曹操軍の一部の兵が矢を番える。
「射るでない」
無意識に出た言葉だった。背後にいた夏侯淵が止めるよう合図を送る。その時には、曹操も前へと進み出ていた。
袁紹の顔が鮮明に見え始める。白髪の混じりだした豊かな黒髪、整えられた髭が、これまでの人生を鮮明に写している。皺の見え始めた顔とはいえ、尚も若き日の高貴さを失ってはいない。寧ろ、更に増している様にすら見えた。
後数十歩の所で、袁紹は馬を降り、佩いていた剣を手に持ち、地に突き立てた。自ら地に刺した剣をその場に残し、袁紹は一人、残りの距離を歩いて来る。
曹操も馬を降りた。佩いていた剣を足元に置く。その剣を跨ぎ、曹操も歩き出した。
あと、数歩。
二人の間を、風が流れる。
「久々である、孟徳」
袁紹が口にしたのは、曹操の字であった。
「元気そうだ、本初」
互いが字で呼び合うのは何時ぶりか。一度交差した道が、一度離れ、そしてこうして再び交差した時、互いが字で呼び合う事が出来た。
これが、最後の交差かもしれない。曹操はそう、直感した。恐らく袁紹も同じ様な事を感じているだろう。
だからこそ、剣を手放した。この、最後の時の為に。
「覚えておるかな、花嫁事件」
「勿論だ」
袁紹の声に棘は無かった。昔通りの声だ、と曹操は思った。時は流れても、根は変わらない。変わったのは、殻だけであった。
「あの時は発想が子供だったからな。何を考えていたのやら」
曹操も極力、棘を抜いた声を発する。警戒心を隠す事で、袁紹の意図を探れないだろうか、と思ったのだ。
袁紹はそれを知ってか知らずか、曹操から目線を反らし、馬を見た。そして一言、何処と無く淋しげに答えた。
「良いでは無いか」
「そうだろうか」
「時が満たすものもあれば、満たさぬものもある」
曹操は答えなかった。答えが、悲痛なものに感じられた。
「我等は最後まで満たされる事が無い様だ。それが乱世なのだと、儂は思うのである。今、この時も」
「そうかもしれぬ」
「今、此処で儂が倒れるか、お前が倒れるか、決まろうとしておる。儂等からすれば命の駆け引き、天下からすれば、ただの、戯れ」
曹操は天を見た。最近天を仰ぐ事が多くなったな、と心の内で思う。
「戯れに満たされる事は無しか。死ぬか生きるか、最後はそれしか無い。孟徳よ」
「何だ、本初」
「儂等は此処で剣を取る。死ぬか生きるか、それは気紛れだ。天命に、任せようではないか」
そう告げると、袁紹は踵を返した。そして、刺した剣を抜くと、再び馬に乗って駆けていった。
曹操も元来た道を返す。その道が、酷く遠く感じられた。
曹操軍では、既に準備が出来ていた。軍の先頭に、張遼が立つ。その右側を守護するかの様に、徐晃が大斧を両手に待機していた。
どちらも、話す様な柄では無い。此処に来るまでも、殆ど口をきかなかった。きいた事と言えば、
「背は任せる」
「承知」
という、何とも他愛の無い会話であった。
そいて、今、此処に居る。
その背後で、夏侯淵が目を遠くに投げかけながら呟いた。
「空気が湿ってきたな。雨が降るやもしれん」
その曹操軍を、静かに見つめる他の者がいたとは、張遼も夏侯淵も、曹操すらも気付かなかった。’