人は、人を染める
「郭嘉の言った通りであったなあ」
曹操は深く頷きながら、書簡を読んでいた。
「あの者は人を軽視し、処理を行わない。覇気はあれど、真に人民の心を掴もうとしない。程度の知れた虎でした」
頭を垂れながら、冷めきった声で告げるのは、曹操の軍師、郭嘉であった。
「儂も二の舞にならぬ様にせねばな」
曹操は書簡を閉じ、側にあった籠に放り投げた。書簡が鈍い音を立て、籠を転がる。それを見ながら、郭嘉が再び、口を開く。
「袁紹は、どうなさいますか」
「今が期であろうか。郭嘉、お前はどう思う」
「同様に」
曹操は郭嘉を見つめる。相変わらず、答えに微塵の揺らぎも無い。常に、表情も態度も崩さず、大地の如く堂々と構えている。
それでいながら清流の様な清々しさも備えており、魅力を持ちつつも己を隠蔽しているかの様に感じる事が、曹操には度々あった。
今も、感じている。だが、それを持って尚、信頼に足る、とも思っていた。
曹操の視線をどう捉えたか、目を合わせながら郭嘉が語り出す。
「呂布、袁術共に滅び、呉が勢いを失った今が好機かと。兵は圧倒的に袁紹軍の方が多いですが、袁紹は権力こそ大きかれ、器は小さい。統率者として、君臨するだけの器が無いのです。此処で貴方様が討たねば、近々他の者が袁紹の首を討とうとするでしょう」
曹操の思考には、最後の言葉に引っ掛かりがあった。袁紹の首を討つ者が他に。あの大軍を潰せる者が他にいる、郭嘉はそう言っている。
「呉かね」
「いいえ」
「ならば、蜀か」
「いいえ」
「公孫瓚かね。それとも、異民族」
「違います」
郭嘉は全て、即答した。曹操の疑問を、言わずとも郭嘉は即座に察していた。曹操は考え込む振りをしつつ、思い当たる名を口に出す。
「陶謙、孔融、馬騰」
「全て、違います」
「まあ、それもそうか。奴等如きが袁紹を潰すなど、百の奇跡と百の偶然が無ければ、到底有り得ぬ」
曹操は薄ら笑みを浮かべた。彼等では無い事など、曹操には言わずと知れた事であった。
残る勢力。曹操は敢えて口に出していなかった。
口に出せば、恐怖が具現化しそうな程の恐れが、内心にあった。勿論、勢いは此方が勝っている。軍も、国も、全て安定している此方に向く。
一方、かの勢力は国も無く、曹操の力で容易く潰せそうな程の兵力しか無い。潰そうと思えば、何時でも潰せると思わざるを得ない程の勢力だ。
その軍が袁紹に挑んだとて、壊滅は免れない。勝てる筈が無い。
──普通に、見るならば。
曹操は一つ唸り、天井を見る。
黄巾党がまだ各地にいた頃、曹操は男に会った。
一目見た時、異様なまでの威圧を感じた。相手は只の兵卒だったにも関わらず、その男は周囲を萎縮させる程の覇気を放っていた。
只の兵卒とは思えないその男に、曹操は興味を惹かれ、声を掛けようとした。だが男は曹操の手から逃げる様に、兵等に混じり、去ってしまった。
「公孫瓚殿の兵だそうだ。あまり、近寄るな」
背後から声を掛けてきたのは、夏侯淵である。矢を片手に、曹操と馬を並べた。
「いや、しかし」
曹操の特徴でもあり、欠点なのは惚れ込みやすい質にあった。良い武将に対する欲が、己に迷いを産むのだ。
その性格もあり、曹操は男に惹かれ、欲を持った。その時、別の男が曹操の側を通った。
その男の髭、余りにも雄々しい姿に目を奪われた曹操は、「お前」と男に声を掛けた。男は振り向く。
「何用か」
見た目の雄々しさからは想像もつかない程、繊細な声であった。気味の悪さを感じつつ、曹操は問う。
「名を、何と言う」
「関羽。字を雲長と申す者。それ以上に申す程の地位は無し」
「関羽か。覚えておく。して、先程通った者は何者か」
「我等が兄者、劉備玄徳殿にござる」
「劉備、と言うのか」
劉備。あれが劉備か、と口の中で繰り返している内、関羽は兵の中に紛れ、その姿を消してしまった。目で探すものの、兵の中に紛れてしまい、その姿を見つける事が出来ない。
「戻ろう、曹操。公孫瓚にどやされたら厄介だ」
夏侯淵が隣から声を掛け、曹操の馬の手綱を引く。ふと背後を見ると、一際豪華な鎧を身に着けた公孫瓚らしき男が此方を睨んでいた。不審者とでも思われたのだろう。
これ以上いてはまずいと思い、曹操は大人しくその場を去った。
だが、劉備という名前だけは、何時までも頭に残っていた。
そして、劉備が普通の者とは違う、と言う事も直感で感じていた。味方にすれば強いが、いつかは牙を向く。それは曹操であっても只では済まない。
それを、何時までも恐れていた。
「どうなさいましたか、天井など見て」
郭嘉の声に、我に返る。
「いや、大した事ではないよ」
劉備なら、袁紹を討ちかねない。勿論、兵力も国も、劉備には殆ど無い。だが、恐らく討てる。常識を覆す程の器を備えた人物なのだ。
孫策も、袁術も、その刃に滅ぼされた。
底知れぬ恐れが、曹操の胸の内を支配していた。いずれは自分も狙われる。
「郭嘉よ」
「はい」
「劉備かね」
「その通りです」
劉備なら、袁紹を討てる。
曹操はそれ以上、考える事を止めた。何も考えてはならない、そう確信したのだった。