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貔貅乱舞  作者: Xib
其の六 火中から命あり
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暗雲

身を乗り出すと、水面に歪んだ自身の顔が見えた。歪んでいる為、水面の自分がどんな表情をしているのかは全く見えない。水は茶色く濁っているが、水面を反射し微かに水上の物体を映し出す。特に日の光は、目に焼き付く程、光が繊細に、且つ強烈に映し出されていた。そういえば豪雨が夜半にあったな、と魯粛はぼんやりと思った。周瑜は今は、本陣の方にいる。人が居ないのを見計らい、魯粛は大きく溜息を付いた。

背の重みが、一気に増した気がする。ただ突っ立っているだけでも、気味の悪いどす黒い物が、蛇の様な嫌なうねりをして、魯粛にのしかかって来る。それは魯粛の感情を食って重みを増して行き、魯粛を圧死させる重みになってゆく。

それでもまだ口には笑みが残っている。だが、この笑みが消えるのも、時間の問題かもしれない、と魯粛は思った。いずれは餌となる。

「おい、魯粛。舟から落ちても儂は助けられんぞ」

声を掛けてきたのは、程普だった。

「ああ、程普殿」

魯粛は普段通りに振る舞おうとしたが、背の重みによって麻痺した心は顔の筋肉すら麻痺させる。どこかぼうっとした、不調を思わせる様な表情になった。

程普は魯粛の表情を見て取り、

「調子でも悪いのか。舟酔いか」

と眉に皺をよせ、気遣う調子で魯粛に聞いた。

「お気になさらず。寝不足です」

魯粛は素っ気なく答えた。それは嘘だった。寝不足ではない。程普には申し訳無いが、それ以上に自身には説明出来ない、曖昧な場所が疲労を絶えず訴え続けており、それに抗う事が出来なかった。

目は冴えている。眠気は無い。だが、思考回路が遮断されている。

魯粛の向かって反対側には、孔明がいた。孔明はこちらには目もくれず、頬杖をして川や微かに見える対岸、空を見つめている。珍しく髪は結っておらず、長髪がそのまま風に弄ばれていた。何を考えているかは、不明だ。この先の策を考えているのか、逆に何も考えていないのかもしれない。

その姿が、羨ましくあった。無心でありたい。切に願った。

程普が何か言ったが、魯粛には聞き取れなかった。脳が外部の声を遮断している。確かに言葉だった筈なのに、処理が追いつかない。これは憂いか、疲労か。考える気力はある。が、思考に気力あれども、身体に気力は無い。この程度、と無理矢理自分を奮い起たせる事も可能と思えた。が、現状、それが正しいのかどうか。

魚が跳ねた。産卵か、何かか。血の色に染まる川に取り残された卵は、孵化できるのだろうか。

「がん首揃えて外など見おって」

いきなり大声を発したのは黄蓋であった。同じ舟に搭乗していた事を、魯粛は今になって思い出した。

「ああ、黄蓋殿」

「小声で言うな。儂は耳が遠い」

普段の調子ですら、周囲に振動を伝える程の大声である。一応、老人らしい事を言うのだが、肌は若者にも引けを取らない艷やかさと脂を持っており、雄々しい筋肉は歴戦の戦士というより、熊の様な動物を思わせる荒々しいものだった。白髪であるが、黒髪であれば、二十前後は若く見えただろう。

「もっと腹から声を出さぬか。全く、周瑜と言い諸葛瑾といい、若者は声が小さすぎて聞こえんわい」

などと常日頃から言ってるが、実際は聞こえているらしい。ただ聞こえていない振りをしているだけである。

「お前の声が大き過ぎる。自分の声で鼓膜をぶち破らない事がつくづく疑問であるな」

「人一倍頑丈でのう」

「変な奴」

などと黄蓋と程普が下らない会話を広げている一方、孔明は微動だにせず、相変わらず遠心的な視線を外部に向けていた。魯粛は黙って、孔明と程普を交互に見つめる。この温度差よ、と魯粛は嘆きたくなった。

もしこの様な日々が続くのであれば、と魯粛は最悪の想像をせざるを得なかった。ただでさえ周瑜その他の不満のはけ口にされていると言うに、更に孔明の監視兼橋渡しを命じられ、その孔明を気に入らず一々突っかかってくる者を宥め、他にも多数の仕事を、と考えるだけでうんざりする様な想像だった。放棄できるのであればしたい所ではあるが、他の者が孔明を制御できるとは思えない。おまけに周瑜の厄介な嫉妬心が、芽吹き始めている。

「魯粛殿」

肩に手を置かれた。顔を上げると、孔明であった。珍しく笑みの無い表情は、肌の白さや細身、手の細さも相まって病人の様であった。

「具合が宜しく無いと見えます。私の事は放っておいて、魯粛殿はまず身体を休まれた方が宜しいかと」

「気のせいです」

「いいえ、心労が顔に出ておりますよ。しかし、ご安心なさい。厄介者が来ようと、私を殺そうと策を練る者が現れようと、私は死にませんよ。それより、身体を労るべきでございましょう」

何やら含みのある言い方に、魯粛は眉をひそめた。その数秒後に察したのは、自身の心が見透かされている、という事であった。

「それでは、お言葉に甘えて」

魯粛は踵を返し、そそくさとその場を去った。全身に鳥肌が立っていた。

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