黒根
「孔明を抹殺するのです」
開口一番、周瑜は言った。
「いや、しかし」
周瑜の発言に戸惑いを見せたのは孫権だった。困惑の色が表情に滲み出ている。しかし周瑜は押し切る様に力強く言った。
「しかしも何もありませぬ。これが孔明を殺す好機、今葬っておけば後々呉にとって得となりましょう」
周瑜は床に手をつき、身を乗り出した。顔を近付けられた孫権は、明らかに引き気味である。
周瑜に引く気は無い。今の周瑜は、孔明を亡き者にする、その事に執着していた。それが危機感によるものか、嫉妬によるものか、どちらも似た様な感情であったが故に、周瑜には分からなかった。最も、その区別さえ、今はついていなかったのだが。
「し、しかしな、周瑜。孔明は戦の為に連れて来た者、そう、客だ。その様な者に刃を向けるなど、本当に良いのであろうか。それに、孔明の頭脳も侮れんと言うに」
「客人を殺す、それはよくある事です。そんな事は気にしなくても宜しい。この戦についても、既に私には策がございます。それより、この呉の情報を孔明に握られる、その事の方が余程恐ろしい」
「確かにあの孔明には、並々ならぬものを感じた。だが、亡き者にしたらどうなるか、勿論想像出来ているだろう。奴等の怨みを引き替えにしてまで、我々のやるべき事かね」
孫権は、周瑜を諭そうとしている。この行為は呉の誇り、それに自ら傷を付ける事になる。そして、厄介な勢力を敵に回す事になる。躊躇するのも分からなくはない。だが、周瑜は知っている。珠を守る為には、敢えて傷付けるのも手である事を。
袁術なんぞにこんな事を進言したら、間違い無く牢屋にぶち込まれるな、と周瑜は内心苦笑いしながら、思った。運良く、孫権は袁術の様な愚者では無い。少々過激で短気な所はあるが、父や兄に似て器量には恵まれている。そう、恵まれているのである。
「我々、いや、私の成すべき事です。貴方のやるべき事でも無い、私のやるべき事」
「しかしなあ」
孫権は尚も渋っている。
「全責任は私に押し付けて下されば宜しい」
「その点については無理だろうが。確実に私も怨まれる。実行に移された時点で私にも責任が発生する訳で、そうなれば、後は分かるよな、周瑜」
孫権がそう言い終わった途端だった。天井の隅、その暗がりの中、何かが動く気配がした。
反射的に周瑜は懐に持っていた短刀を投げつけた。しかし、短刀は木に刺さる時の、低く鈍い音を立てただけだった。その直後、小動物らしき影が素早く天井裏に逃げて行くのが見えた。
「鼠か」
紛らわしい動物め、と周瑜は舌打ちする。だが、人では無いという事に、安堵の気持ちもあった。
「と、言う訳です。分かりましたね孫権殿」
気を取り直した周瑜は、孫権の前で腕を組む。これ以上の問答は無用、の意思表示である。もう駄目か、止めようがない、と悟った孫権は溜息をついた。一言も言わず、その場から立ち上がり、周瑜に背を向けた。
が、扉の前で、孫権は立ち止まる。そして顔を向けることも無く、
「魯粛位には話を通せよ。一人では荷が重過ぎる、返り討ちに合うのが目に見えているからな」
「それはもう」
周瑜は頭を下げた。
魯粛には勿論、話を通す。孔明と接触する機会が多いのは、魯粛だからだ。黙ってなどいたら、魯粛も巻き添えをくらう。それは避けねばならない事だった。これでも一応、見込みのある人物として周瑜は目をかけていたのだ。
それを、自ら打ち崩すなど、したくはない。そうする程、阿呆では無い。
周瑜は一人、頷いた。




