伏龍、小覇王を呑む
時を同じくして、呉にも異変が起こっていた。
突然、霧が付近の森を包んだのだった。一部の者が様子を見に行ったが、それきり戻っては来なかった。
周瑜は窓から、その霧を見つめていた。窓は閉めてある。開けると、嫌な風が全身を刺激し、鳥肌が立つからだ。
「黄巾の残党でもいるのか」
周瑜の独り言に、背後に控えていた周泰が首を振る。
「黄巾党の奴等の呪術は誤魔化しであったが、今ある霧は違う。余りにも禍々しい。孫策も、戻って来ない」
「やはり、お前もそう感じるか」
周泰は無表情のまま、頷いた。
「策を、迎えに行くべきだろうか。策に万一の事があっては、この孫呉は」
呟く度、周瑜の心に不安が募っていく。孫策に万一の事があった時、弟の孫権が全てを引き継ぐ手筈ではある。だが、孫権は、主君の器としてはまだ、未完成と言っても違和感の無いものであった。更には、孫呉の武将は孫策の覇気に従っているのであって、孫権に従っているのではない。
今、孫策に何かあれば、兵までもが離れていく事が、明らかであった。
下手をすれば、孫呉は滅びる。その危機感は、周瑜の身体を刺し、焦らせる。
「悪いが、私は行く。周泰、お前はどうする」
周瑜が身を翻すまでも無く、周泰は「お供致します」と即座に答えた。
剣を佩いて外に出ると、孫権が駆け寄ってきた。孫策の不在に、不安の色を隠し切れず、顔にも不安が滲み出ている。
「周瑜、何処に行くのだ」
「策を探しに。心配するな、直ぐに策を連れて戻って来る」
「私も」
「貴方は駄目だ。何かあった時、この国を支えるのは他でも無く、貴方なのだから」
「なら、代理で俺が行く」
突然声がした。孫権の後ろの扉が開き、武装した朱然が姿を現す。
「森には行くが、放火はしないぞ」
「おい周瑜、俺はそこかしこで放火するような人間じゃないぞ」
「どうだか。では、孫権、留守を頼む」
周瑜に言われ、孫権は不安ながらも小さく頷いた。
「相変わらず生意気な奴だな、お前」
朱然はぶつくさ言いながらも、走る周瑜の後を付いて行く。
「なら来るな」
「それはお断わりだ。俺だって孫策が心配なんだ、それに何処ぞの軍師は見てないと無茶しそうだからな。若気の至りで」
「お前も生意気」
「続きは、孫策殿を連れ戻してからやって下され」
周泰の一喝で、二人の言い合いは止まった。確かに、その様な事をしている場合では無い。
馬に鞭を打ち、疾駆させる。
森に近づく度、刺すような空気が周瑜等の肌を刺激した。鎧を着ていても、空気は隙間から入り込み、寒気を誘う。やはり、只の霧では無い。
「嫌な空気だ。離れるなよ」
周瑜の言葉に、背後の二人は黙って頷いた。
そのまま、森に突入する。踏み入れた途端、霧が一気に濃くなった。一寸先も見えない程の、濃い霧である。
「何だこれは。迷いそうだな」
朱然が顔を曇らせる。こんな事は一度も無かったのに、と呟くと周囲を見渡した。
「だが、此処の何処かに、孫策がいる。探さねばなるまい」
「手分けするか」
「いや、この霧だ。固まった方が得策かもしれん」
その時だった。周泰が目を鋭く右に向け、周瑜と朱然に手で黙る様に伝えて来る。
「どうした、周泰」
朱然が聞くと、周泰は首を振り、右を睨めつける。
やがて、周瑜の耳にも聞こえてきた。周泰の視線の先から僅かに、剣戟の音が聞こえてくるのだ。
「策、なのか」
孫策。無意識の内に、周瑜は駆け出していた。慌てて二人が追いかけて来るが、周瑜には既に、二人の蹄の音など聞こえていなかった。
どれ程駆けたか。少しの時間であろうとも、周瑜には一刻ほどにも感じられた。いつの間にか剣戟の音は止み、蹄の音だけが静寂を破っていた。
「策、何処にいる。返事しろ」
姿が見えない事に耐え切れず、周瑜は叫ぶが、返答は来ない。
しかし、代わりに見知らぬ者の笑い声が聞こえてきた。
「ふ、呉の者が一人。命知らずの者が、参った様ですね」
「誰だ」
「孫乾、お相手をなさい」
「孫乾、だと」
孫乾。劉備軍の者だ、と思った瞬間、天から無数の矢が降ってきた。
無意識に剣を抜き、咆哮しながら降ってくる矢を次々叩き落とす。矢は直ぐに止み、再び霧の中から先程の者の笑い声が聞こえて来た。
「見事見事」
「貴様、孫乾、と言っていたな。答えろ。お前は劉備軍の者か」
「そうで無ければ、何でしょうね」
「お前がこの霧を作ったのか。策を何処にやった」
「ふふ、そんな怒鳴らなくても、貴方の主君は居ますよ。私の足元に、ね」
言い終わるや否や、何かを振る音がした。途端に立ち籠めていた霧が、忽ち晴れて行く。
周瑜の目の前に、羽扇を持った、身の丈八尺の男がいた。顔は青白く、目は優しげながらも突き刺すように鋭い。長髪で右目は見えないが、見えていなくとも、此方を狙っていることは直ぐに分かった。
そして、その男の足元、孫策が血を流して蹲っていた。
「策」
周瑜は駆け寄るが、男は剣先で素早く孫策を拾い上げ、後退する。
「貴様、まさか貴様がやったのか」
今にも噛み付きそうな周瑜を、男はさも愉快げに見つめ、そして話し出す。
「止めを刺したのは私ですね。全く、この小覇王、随分と恨みを買っていた様で。お陰で、簡単に策が成りましたよ。哀れな末路ですねえ」
男が剣を揺らすと、引っ掛けられた孫策の身体は剣に合わせ、力無く揺れた。
「止めろ。策を離せ」
周瑜の怒りを露わにした声に対し、男は尚も優しげに告げた。
「そうは行きませんよ。呉の将、貴方も共に逝きなさい」
その言葉が合図になったかの様に、大量の兵が男の側から現れる。
「く、この者等は、一体」
周瑜は兵を見る。顔は知らないが、全員の目が異様な程に血走り、血を求めていた。
その様子を見ていた男が、周瑜を見ている内にああ、と声を上げる。
「貴方、周瑜ですね。丁度良い、冥土の土産に教えて差し上げましょう。この者等は、孫策の殺した于吉、と言う者の信者達で御座います。孫策を討つ、と触れを出したら、簡単に集まってくれました。言ったでしょう、小覇王は恨みを買っていたと」
「于吉。まさか、此処で」
于吉道士なら、周瑜の記憶にも新しい。民衆が于吉に礼拝していた事を間近に見た孫策が、周囲の静止を振り切り、于吉を殺したのだ。
その後暫くは何も起きなかったが、今、孫策を傷付けるという形で恨みが具現化した。
そして、周瑜も──。
兵等が剣を持ち、近付いてくる。周瑜は一歩引くが、孫策が目の前にいる以上、退く気は無かった。
「貴様、何者だ」
周瑜の問は、羽扇を持った男に向けられていた。それを察したか、男は周瑜を見つめる。
「私は、劉備軍の軍師、諸葛亮。またの名を、孔明」
「孔明。貴様、覚えておくぞ」
「ええ、冥土で、恨んでいて下さいね」
孔明が羽扇を振る。それを合図に、一斉に兵が襲い掛かってきた。
勝てるか。それは周瑜の賭けだ。叩き切ろうと一歩踏み出した途端、目の前に突然、赤い鎧の男が二人、現れる。
周泰と、朱然だった。
「周瑜。探したぞ」
朱然はそう言うや、目の前の兵を斬る。
「勝手に行くな」
周泰もそれだけ言うと、兵達へと斬り込んだ。直様、悲鳴が上がる。
「ふ、残念。一人であれば、周瑜の首も討てたのですがね。まあ、良いでしょう。孫乾」
孔明が声を上げる。同時に、孫策を離した。
「待て、何処に行く、孔明」
「生きていれば、また会いましょう。周瑜、公瑾」
孔明は手を小さく振ると、馬で駆けて行った。同時に、再び矢が降り始める。
しかし、明らかに違うものがあった。火矢である。
地に刺さった矢は忽ち燃え広がる。
「あの野郎、俺の特権を」
「そんな馬鹿な事言っている場合か、朱然。逃げるぞ」
森が火の粉を上げ、悲鳴を上げ始める。兵が混乱し始めた隙に、周瑜は孫策の身体を抱き上げた。
「策、しっかりしろ、策」
孫策を揺するが、孫策は身動き一つせず、力無く横たわっていた。手は、冷たくなっている。
まさか、と最悪の結末が周瑜の脳裏をよぎる。
「策──!」
無意識の内に、周瑜は天に向かって咆哮していた。