知らぬ者、過去に沈む
まだ、身体が震える。
恐怖というよりは、あの異様な姿の者に、呉を任せる事に不安を感じずにはいられないのである。
一瞬で、察した。ただ、呉と組み、魏を破る、それだけの為に来たのではないということを。
「私達は成すべき事を成せば良いだけ。余計な事考えてると首跳ぶ」
甘寧はそう言うと、自身の指で首を切る真似をした。が、内容は恐ろしい事ではあるが、その口調と動作のせいで、不思議と面白可笑しく聞こえた。
「相変わらずその口調は気が抜ける、じゃなかった、随分あっさりしているんだなお前は」
「まあ、黄祖の時に色々学んだから。もう慣れてるし。ちょっとやそっとじゃ動揺もへったくれも無い訳」
気が抜ける、とがくりと肩を落とす太史慈の前で、甘寧は腕を組んだまま突っ立っている。しかし、ただ立ってるとはいえ、やはり立ち方が男らしくない。それが太史慈の調子を狂わせる。やはりこの男には慣れぬと改めて自覚した太史慈は頭を掻いた。
長い髪が、風に揺れている。甘寧の頭に着けている鈴の音が水面を走った。
「その言動、もう直しようも無いんだよな」
「無理」
即答された。
水面に、ふとかの日の光景が映った気がした。甘寧が投降してきた日である。あの日、陸遜が青ざめた顔のまま、まるで敵陣から逃れてきたかの様に大慌てで広間に転がり込んで来て、顔を上げるや「変な男がいるっ」と叫んだのだった。
それが、甘寧だった。
黄祖の本から来た甘寧は、元が海賊だったという事もあり、水上での戦闘を得意としていた。それを知った孫権は、即座に水軍の将としての地位を与えた。
孫権のこの行為は、正解だった。甘寧が一から鍛え直した水軍兵は、たちまちのうちに強くなり、周瑜も舌を巻く程であった。人心術にも長けているのか、兵の心を掴むのも上手く、兵も良く従う為、水上では敵無しである。今や甘寧率いる水軍は呉の主戦力の一つになっていた。
今回は、恐らく長江が主体となる。となると、水軍である甘寧を中心に動くのは間違い無い。後は、歴戦の勇士である黄蓋も主力になっていくだろう。
長江の流れ。
見れば、酷く穏やかで、戦など微塵も感じさせない、平和な流れが、そこにはあった。
これが、時が来れば赤く染まる。一面が赤に染まり、人の恐怖を麻痺させる。
それが、当たり前の光景だと思った。ただ、言いようの無い虚しさが、脳全体に行き渡っていた。長江の穏やかさが、正しきは悪だ、そう告げている様に感じられた。
今になって思い出す。まだ、戦に慣れていない頃の事を。
初めて斬った、人の感覚。
始めて見た、血の舞。
人の筈なのに、人では無い、獣の雄叫び。
初めて人を突き刺した時、言いようの無い恐怖が太史慈の心に襲い掛かった。刺した途端、相手の目が途端に憤怒に燃え、そして空虚がじわじわと広がっていった。今まで感じた事の無い感覚、見たことのない相手の変化、そして何よりも、後悔、というものが胸に広がった。その様に、すぐにでも突っ伏したくなる程の酷い吐き気を催したのは、今も鮮明に覚えている。
結局、その戦は、勝った。
吐き気を必死に堪えながら、帰路につこうとした。途端に、背後で兵士が一人、暴れ出した。
兵は、まだ二十歳にもならない、若者だった。彼は、凄惨な光景を目の当たりにし、気が狂ったのだった。その直ぐ後、父らしき人物となにか会話を交わしたのだが、何を話したか、そこまでは覚えていない。が、あの兵をどうするか、そういう事だったのでは無いかと、今考えればそう思う。
そこから先は何故か、曖昧だ。だが、結果、あの兵は斬られたと思う。抵抗の末斬られたのか、大人しく斬られたのか、それは不明だ。
そしてその後、太史慈は吐いた。確かに吐いた。
武として、この行為を永遠に続けねばならないーのか。それだけで、辟易したものだった。それでも、死にたいとは思わなかった。この為に、生きねばならぬ。そう感じたものだった。
「甘寧」
「何」
「生きろよ。武人らしく無い発言だがな」
何だか今日は、妙に考え込んでしまうな、と思いながらそう発した。
上の空地味た口調を敏感に察したか、甘寧は一瞬黙ったが、長江へ顔を向けながら、呟く様に答えた。
「武人らしく無くとも、人らしくはある。常に生に縋り死を恐れる。勿論、生に縋るのであれば自身の持つ恐怖も共に自身に存在する事になる」
「はあ」
「何か変な宗教みたいねえ」
「誠に」
「もうあったりして。そんな宗教」
脳内に、于吉と黄巾党の影がちらついた。変な宗教か、と苦笑いする。
「そういえば、呂蒙は」
「ああ、あいつ。胃が痛いって寝込んでるけど。いつもの事だし放っとけば治るんだから」
呆れた笑みが、そこにあった。




