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貔貅乱舞  作者: Xib
其の伍 水面、紅きに
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孫権、その人を一言で表すならば、「血の気が多い」である。

よって、呉の者は皆、孫権を刺激しない様に言葉を選んで、報告していた。と言っても、そういう言葉選びは文官に多く、孫堅の時代から仕えていたような黄蓋、韓当などは思った事を直球で言っている。また、周瑜も孫策の義兄弟として、孫策の遺志を継ぐべくとしてか、孫権が相手でも全く容赦が無い。

そう考えると、言葉を選びたがるのは、孫権という人物をまだ知らない者の様に思える。

魯粛自身も、孫権を前にする時は、言葉に気を遣っていた。孫権という人物に、変化が起きてしまうのが只々怖かったのである。

船に揺られながら、魯粛は報告内容を考えていた。無論、孫権を刺激しないよう、より柔軟性に富む言葉をどう組み合わせるか、そこも考えている。変に怒らせてしまえば、自身だけではなく、孔明にまで被害が及ぶ可能性も、否定できなかった。そうなれば。

後は、考えたくもなかった。だが、曹操の影が川から現れ、こちらに向かって手招きをしている姿が、一瞬見えた気がした。

ふと、隣で水流を見つめる孔明へと視線が映る。片膝を立て、頬杖をついたまま、微動だにせずぼうっと眺めていた。

舟に乗ったときから、この姿勢を変えることはなかった。その瞳が、水流を見ているのか、はたまた孔明にしか見えない何かを見つめ続けているのか。視線を追ったが、そこは確かに川が流れているだけであった。

この国では極稀とも言える、若者ながらの豊かな白髪が、湿気を含んだ風に流されている。光を反射する白髪は、やや紫がかって見えた。

ふと、黒い鳥を見た事を思い出した。何か不吉の現れかと思ったが、ふと光に当たったとき、黒だったものが幻想的な蒼に輝き、魯粛の目を惹いたのを覚えている。

あの鳥に良く似た、魅力。

考えたくはない、魅力だ。

孔明は何を考えているのか。孫権を見た時、何を言うのだろうか。

そう考えているうちに段々不安が膨らんできた。今回は、孔明が鍵を握るのだ。その孔明が、何かしたとしたらそれこそ厄介な事になりかねない。

抗戦を主張しつつも、根は温厚派の魯粛は、未だに魏呉、そして劉備との関係を何とか繋ぎ止める事は出来ないのかと考えてもいた。周瑜に甘い、と言われようと、それが魯粛という者の思考であった。だからこそ、孔明がもし、孫策の怒りを買ったら、周瑜を敵に回すことになったら、その様な不安を考えてしまうのだ。

魯粛は、内心で一つ、頷いた。そして極力普段の態度を貫いたまま、「孔明先生」と呼びかける。

「何でしょう」

孔明はすぐに振り向いた。その瞳は、何も変わらぬ、面会した時と同じ瞳だった。

「その、一つご忠告がございまして」

「忠告、ですか」

「はい」

魯粛は強く頷いた。孔明はしばらく魯粛を見ていたが、暫くして、一つ頷いた。

「言ってみなさい」

面白がっている様な物言いだが、魯粛は引く事無く告げる。

「孫権様は、確かに主君であられますが、激昂しやすい御方です。同時に根に恐怖心を持つ御方でもあります。恐らく、曹操の兵数、状況等を正しく言えば、激しく動揺なさるでしょう。ですのでどうか、あまり事実の詳細や感想はお伝えにならず、なるべく曖昧な伝え方をして頂きたいのです。私としては、なるべく穏便に済ませたいので。この状況で穏便などと言うのも、馬鹿馬鹿しい事だと思いますが」

魯粛がそう言い終わる前に、孔明は鼻で笑った。呆れたとも馬鹿にしているとも見える様な表情で、魯粛を見る。そして一言、

「貴方、よくそれで孫権に仕官する気になれましたね」

と言った。

「孫権様に受けた恩は大きい。それに周瑜殿、張昭殿、太史慈殿、黄蓋殿他今は無き孫策様、孫堅様から仕える有能な者が彼を支えています」

「劉備殿と同じか、いや、この場合は下手をすれば公孫家にも劣るか」

孔明は笑っている。魯粛は震えた。もしや、魯粛という人間を試す為に、孫権という人間を使ったのではないか、そんな気がしたのだった。胃が痛くなる雰囲気に、魯粛はこれ以上声を上げることはできず、只々俯いていた。

「己の技量をわきまえぬ者が、いけしゃあしゃあと出るものではありませんよ。不完全な針は、叩かれるのでは無く、折られて捨てられるのです。もう二度と、陽の目を見る事のできぬ場所に、打ち捨てられる。人間も同じ事、人間は人間ではありません。道具なのですよ」

孔明が、何を言っているのかは分かる。その程度、戦を見れば、嫌でも目の当たりにする。

命令に従い、死地に赴く兵士達。そこに、混沌とした感情が混ざっていようとも、目に映るものは、ただ従うだけの人間である。それ以上も、それ以下も無い、ただ従い続けるだけの人間なのだ。

その中でも、欲に眩む者は、命令以上の働きをしようと躍起になる。その方法は様々で、単独行動、命令無視、密告等がある。これら全て、欲故に発生する事態である。

そして、それを果たした者は、一握りの者を除いて、皆同じ様な目に合うのだ。

それが最期だと、覚悟していた者が何人いたか。

俄に、恐ろしくなる話だった。魯粛自体、その程度は、脳では理解している。だが、身体が理解する事を拒否していた。感情は、理屈を見ることも無く、拒み続ける。

何れ、自身もそうなる可能性がある事も、否めない事実だった。

ただ、それだけの事だった。後はもう、考える気にもならない。思考を巡らす事、それ自体が、悪にも見えた。

「さて、もう少しでしょうか。魯粛殿、覚悟は宜しいでしょうか」

「あ、ええ、はい」

魯粛は頷いた。それが何を意味するものか、考えてはいなかった。

川は、何も変わること無く、人工物を押す事ですべき事を果たしていた。

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